魔法使いの一日
梣はろ
空夜の魔法使い
ある霧雨の日のことだった。まだ日暮れ前だというのに、厚く垂れこめた雲のせいで、辺りは夜のように暗かった。
頼りなさげに揺れるガス灯の光が、煉瓦の壁際にかろうじて温かそうな場所を作っている。
その僅かな空間に、一人の小さな客が来ていた。
ところどころ汚れた服を身に纏うその客は、ガラスの瓶を足元に置いて座り、痩せた膝に頭を埋めるようにして、親切な誰かが通りかかるのを待っていた。
道行く人は、その存在に気付いているのかいないのか、立ち止まることなく歩いていく。
……それから何時間経っただろうか。次第に人通りはまばらになり、ついには誰もいなくなった。
先程までの霧雨など知らぬというように、空には月が照っていた。満月の白い光は、しんとした夜の空気を一層冷たく感じさせる。
そんな夜道を、丈の長い上着を着た人物が一人歩いていく。寒さのためかフードを深く被っており、表情はわからない。
とある辻を曲がったとき、突然、その人物は立ち止まった。少し離れた明かりの下に、うずくまる人影を見つけたのだ。顔は膝の陰になっているためによく見えないが、着ている服からして、まだ年端も行かぬ少年のようだった。
迷うことのない足取りで、丈の長い上着を着た人物は、その人影に近づいていく。そして、空っぽのガラス瓶を間に挟んでしゃがみ込み、声をかけた。
「……まだ、起きてる?」
膝にうずめられていた頭が少し持ち上がり、くすんだ金髪の奥から澄んだ碧色の瞳がのぞいた。少年は、目の前の人物をじっと見ている。
「……誰?」
最初、少年はその人物がなぜ自分に声をかけてきたのかわからずに困惑しているようだったが、しばらくして口を開き、そう訊いた。
「偶然通りかかっただけの、ただの魔法使いだよ」
少年の質問にそう答え、「魔法使い」は被っていたフードを取った。
緩く波打つ蜂蜜色の髪が、その肩をつたって零れ落ちる。豊かな金髪に縁取られた表情は、見る者に安らぎを与えるような愛らしい微笑みで、そして反対に深い藍の瞳は、吸い込まれそうな神秘的な光を宿していた。
少年は息を呑んで、魔法使いを見つめる。
「ね、怪しい人じゃないでしょ?」
その問いかけに対し、少年は半ば無意識に頷いた。
魔法使いは、さらに続ける。
「きみ、ずっとここにいたの?」
「……うん」
「明日も明後日も、今日みたいにして、誰かがお金をくれるのを待つの?」
「……場所は、変えるけど」
「そっか。……寒くない?」
「寒い」
「そうだよね」
この人は何を言いたいんだろう、と言わんばかりに少年は眉をひそめる。
……そのとき、いつの間にか目の前に差し出されていたものの存在に気がついた。
「……これは?」
「冬用の上着だよ。きみにあげる」
魔法使いが着ているものとよく似た、夜色の、丈の長い上着だ。
冷え切った身体にとっては、触れるだけで暖かく感じられる。
「着てもいいの?」
「もちろん。……それと、もう一つ」
突然、魔法使いは立ち上がる。
そして、見上げる少年の前に、腕を伸ばした。
「きみ、私と一緒に来ない?」
少年は両手で上着を抱えたまま、迷ったように魔法使いを見つめる。
「まあ、急にそんなこと言われても、決められないよね」
魔法使いはそう言って微笑み、再び少年の前にしゃがみ込んだ。
少し考え込むような表情で、二人の間に置きっぱなしになっていたガラス瓶を手に取り、頭の上まで持ち上げる。すると、ガラス瓶はガス灯の光を反射して、まるでゆらめく虹で満たされているかのように輝いて見えた。
「私のところならここにいるよりは寒くないと思うし、食べ物や服を買うお金もあるから、きみさえ良ければって……」
魔法使いは「全然魔法使いっぽくないけど」と少し笑い、ガラス瓶をもとあった場所に戻す。
そのまま、二人の間に沈黙が訪れた。
魔法使いはそれからしばらく空に浮かぶ白い月を眺めていたが、ふと視線を感じて、少年の方に向き直る。
少年は言った。
「……やっぱり、僕も一緒に行きたい」
魔法使いは、まさか少年が本当に承諾すると思っていなかったのか、驚いたように聞き返す。
「……本当にいいの?」
「うん、ずっとここにいてもいいことなんて起こらないだろうし……」
そう言いながら少年は立ち上がり、魔法使いから貰った夜色の上着に腕を通した。
それから、先程の魔法使いを真似るように、はにかみながら手を差し出す。
「……ありがとう」
魔法使いは少年の手を取って立ち上がると、少年の頭を撫で、フードを深く被せた。自分自身もフードを被り直す。
二人は顔を見合わせて「お揃いだね」と笑い、誰もいない通りを歩き出した。
いつの間にか再び空は曇り始めており、ガス灯の光が一層赤く、暖かく輝いて見えた。
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