第3話 死体発見される

 次の日、数日前から体調が悪いと思っていたのだが、その日の未明から、案の定といってもいいのか、熱が出てきたのだった。

 最初は、それほどの高い熱ではなかったので、そのわりには、頭痛と、気持ちの悪さが襲ってきたことで、

「夏風邪ではないか?」

 と思ったのだ。

 冬になると、すぐに高熱が出て、翌朝から病院に行くとして、何とか、その晩は、解熱剤などで、熱を下げて、何とか眠りに就こうとするのだった。

 熱というのが、

「38度以上に上がれば、飲んでいい」

 という病院で処方された薬を、前に高熱が出た時、もらっていたので、それを使うことにしていた。

 一応、冷蔵庫に入れていたので、悪くなることはないだろう。

 しかも、市販の薬であっても、大体、1,2年はもつものなので、しかも、冷蔵庫に保存しているのであれば、少々の期間はもつというものだ。

「今年になってから、熱が出て、病院に行った時に処方された薬が、まだ冷蔵庫の中にあったはずだ」

ということは分かっていたので、まだ、そこまでの熱があるわけではなかったが、

「あったらあったで安心だ」

 と思えたのだ。

 そう思っていれば、とりあえずは、市販の風邪薬を飲むことで、朝まではもつことだろう。

「うまくいけば、朝には治っているかも知れない」

 そこまで考えることもできたのだが、もう一つの安心は、

「食欲が何とかある」

 ということだった。

「食欲がなくなると、これほどきついものはない」

 と思っていた。

 口の中がカラカラになり、喉の渇きが、息苦しさとさらなる苦痛を身体全体に感じさせる。それが辛かったのだ。

 家に帰ってからというのは、いつもは、録画をしおいたテレビ番組を見るか、あるいは、テレビの映像を何も考えずに、ボーっと見ているかのどちらかが多い。

 録画しておいたテレビドラマを見るとしても、真剣に見ることはない。帰りにコンビニで買ってきた食材を夕飯にして、調理などするわけでもなく、せめて、

「レンジでチン」

 する程度の食材を、テーブルに並べて、それを食べながらの、

「テレビに映像が映っている」

 という程度である。

 だから、食材の準備をしている時に、すでに、映像は再生されていて、声や音だけが聞こえているだけでも、映像は想像できるので、

「ちゃんと見えている」

 と自分では思っているのであった。

 だから、部屋に帰ってきてからの手順とすれば、

「まずは、買ってきたもので、冷蔵冷凍、それぞれを、冷蔵庫にしまうことから始まり、テレビをつけて、それから、浴槽にお湯を入れる」

 というところまでは、基本的に、ルーティンであった。

 それから、食事の準備を進めながら、取り込んだ郵便の確認ということであろうか。

 そもそも、最近、郵便というのが来ることも、ほとんどなくなった。

 以前も、あったとしても、ダイレクトメールであったり、ポスティングの広告であったりと、

「まったくもって、紙の無駄」

 としか思えないものしか、なかったのだった。

 食事の準備を進めながら、いつもは、

「ああ、疲れたな」

 と、いつも、ほとんど変わらない疲れの度合いを、

「今日も頑張った」

 と自分への慰めに変えながら、耳に入ってくるテレビの音声を、まるで、

「その日頑張った自分へのご褒美」

 とでも感じているようで、

「だから、耳に入ってくるだけで、内容は見ていなくても、それでいいんだ」

 と思うのだった。

 最初に、

「なんでも先にしてしまわないと気が済まない」

 と感じるのは、家にいる時に限ったことではない。

 毎日のように、仕事場においても、会社に着いたら、

「まず、最初に確認できることはすべてしてしまわなければ、気が済まない」

 と思っている。

 そればなぜかというと、

「最初に確認しておかなければ、忘れてしまう」

 と思っていたからである。

 青山は、小学生の頃から、とにかく、

「すぐに忘れてしまう」

 というくせがあったのだ。

 特に小学生高学年の頃は、学校で出された宿題を、よく忘れていき、学校で先生に怒られたものだ。

「なんでお前は、いつも宿題をしてこないんだ?」

 と言われるが、なぜか、

「その宿題というものが出ていた」

 ということを失念しているのだ。

「出ていたことを分かっていれば、やっていますよ」

 と、喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。

 そんなことをいえば、

「こいつ、おかしいんじゃないか?」

 と思われると思ったからだ。

 それは、学校というところで、相手が先生だということを思ったからだ。

「宿題が出ていたことを忘れる」

 ということを、それほど大きなことではないと思っていた青山は、それを先生にいうことで、大げさにされて、親にまで通告されたりすれば、そんな心配は、こちらにとっては、まったく願い下げだと言いたいことだったのだ。

 その日は、テレビを見ていても、最初は、いつものような感覚で、音声が流れてきたのだが、そのうちに、普段は感じない、雑音が混ざっているように思えた。

 それでも、本当にテレビをつけて、1分くらいは、その雑音すら気にならなかった。

 そして、

「今日は何か雑音が聞こえるな?」

 と思った時、

「雑音の音がひどいんだ」

 と思っていたのだが、そのうちに、耳鳴りのような、甲高い、

「キーン」

 というような音が聞こえてくると、テレビの音量が、急にざがったかのように感じ、

「それで雑音だけが目立ったのかな?」

 と感じたが、そのうちに、その雑音も、

「元々音は低かったんだ」

 と思うと、今度はその雑音を感じなくなってきた。

 いつもの体調が悪い時であれば、

「雑音が、下がって聞こえるようなことはないんだけどな」

 と思った。

 雑音であっても、普通の音であっても、基本的には、変わりはなく、変わりがあると感じるのは、自分の体調が悪いからだ」

 と感じるからに違いなかったのだ。

 それを思うと、

「今日は、普段聞こえない音が聞こえてきそうな気がして、おかしいな」

 と思った。

 すると思い出したのが、先ほどの墓地での光景だった。

 あの光景で、覚えているのは、

「ザクッ、ッサクッ:

 という穴を掘る時に土を掘り返している音だったのだが、その音も、今思い出せば、

「キーン」

 という雑音交じりだったような気がする。

 というよりも、

「雑音交じりでないと、思い出せるわけのない音の気がする」

 ということであった。

 それは、本当にしていた音なのかどうかは関係なく、

「ただ、自分に都合のいい音が聞こえていたかどうか?」

 ということだったのだ。

「都合よく聞こえたから、あんな光景が見えたのか?」

 それとも、

「あんな光景が見えたから、自分に都合よく解釈するようになったのか?」

 ということである。

 そして、今の体調の悪さを官は得ると、

「後者ではないか?」

 と考えるのだが、よく考えてみると、いつも、体調の悪い時だけ、異常な感覚になるということを考えると、

「前者であっても、不思議はない」

 と感じるのだ。

 それは、あくまでも、体調の悪さというものが、自分を都合よく導くための、手段と言えばいいのか、

「そこにたどり着くための、準備段階をたどっているのかも知れない」

 と感じるのであった。

 夏になると、頭がボーっとしてきて、特に、

「体調の悪い時というのは、都合よく考えるようになった」

 と思っていた。

 冬のように、意識が朦朧としないかわりに、身体が、敏感になってしまい。ちょっとした熱でも、まるで、

「まるで、40度近い熱があるかのように感じる」

 ということで、

「意識が朦朧としなくても、高熱の時はあるのではないか?」

 と思ったが、熱を測ると、ほとんど、熱はない。

 そういう時の方が却ってきつかったりするものである。

 さすがに、翌日になって、早朝はそうでもなかったが、いつもよりも早く目が覚めたことで、

「あれ? 何かおかしいな」

 とは思ったは、熱が一気に上がらなかったことで、

「目が早く冷めたのは、体調とは関係ないのかな?」

 と思っていたのだが、目が覚めてしまうと、昨日は感じなかった。

「頭がボーっとする」

 という感覚があったのだ。

 それは、夏風邪の時には珍しいものだったので、なんとなく嫌な予感というものがあったので、体温計を使って熱を測ってみた。

「げっ」

 と、思わず叫んだのだが、体温が、39度を超えていたのだ。

 それを見た時、一気に身体の力が抜けていき、身体から、生気が抜けてくる気がしたのだ。

 要するに、熱が高くなってきたのを見た瞬間、

「我に返った」

 ということなのだろうか?

「それまでがまるでウソだったような気がする」

 と感じたほどで、頭がボーっとしていたのも、当たり前のことであった。

 熱の高さを見て。さすがに、解熱剤を服用し、その影響か、眠気が襲ってきたので、

「それに任せて、眠ってしまおう」

 と思った。

 もちろん、会社には、

「今日の休み」

 を願い出て、その了承はもらっていた。

 解熱剤を飲むと、

「飲んだ」

 ということで安心するのか、その安心感の表れが、

「睡魔」

 というものであった。

 頭がボーっとしているのは変わりないが、父子微視の痛さであったり、寒気などは、薬の影響委よって、感覚がマヒしてきたことで、

「だいぶ楽になってきた」

 ということであった。

 熱が下がれば、少し体調もいいのか、再度熱を測ると、とりあえず、38度以下になっていた。

 それでも、まだ熱の高さは、予断を許さない感じだったので、少し様子をみると、昨日と打って変わって、今日は、食欲が出てこないのであった。

「これはさすがにきついか」

 と感じたので、

「とりあえず、病院には行っておこう」

 と思い、すぐそばにある内科に行ってみることにした。

 歩いて、5分くらいのところで、その病院は、近くの住宅街の中にある、小さな

「個人病院」

 という感じで、昔でいえば、

「町医者」

 といってもいいようなところであった。

 今までに、何度か行ったことがあったが、内科、外科、小児科ということで、それなりに揃っているところであった。

 ただ、時間帯的にも、時期的にも、どうしても、子供が多かった。

「さすが、小児科」

 と思えるところであり、以前に来た時も同じであったが、今回も、子供が多くて、閉口してしまいそうだ。

「体調が悪い時、一番子供が嫌だ」

 と思っていた。

「とにかく、あのうるささは、たまったものではない」

 と思っていたのだ。

 前に来たのは、確か、半年前くらいだったかな?」

 と思ったが、実際に行ってみると、

「久しぶり」

 という感覚はなかったのだ。

 病院の待合室で、雑誌を読んでいた時だった。隣の奥さんが、他の知り合いの奥さんを見つけたのか、急に立ち上がって、そっちの方に行ったのだった。

 それを見た時、

「さっきまで、皆と同じように、表情が前と一緒だったのに、まったく変わってしまったことに気づいて、その表情は、まるで、

「地獄に仏」

 という感じであった。

 他の人と同じように、暗い雰囲気にいることを、たまらない思いで見ていたのだろう。

 そもそも、こういう、まわりに合わせて暗い雰囲気になるのが嫌だったように思えるが、だからこそ、仲間を見つけて、有頂天になったのだろう。まわりの雰囲気を意識することなく、顔を近づけて、今度はまわりをキョロキョロしているのが分かると、その顔を見て、その友達と、今度は顔を見合わせた。

 そのタイミングが、見事に一緒だったというのを感じると、

「私は、本当に、この雰囲気が嫌いなんだ」

 ということを、いまさらながらに感じたのではないか?

 と思うのだった。

 よく見てみると、二人してまわりを見ているが、決して、同じ方向を向くということはなかった。

 お互いに違うタイミングで同じところを見たということは、逆に、

「実にうまくタイミングを合わせている」

 と言えなくもないだろう。

 それだけ、息が合っていなければ、お互いに分かり合えるわけはないといってもいいだろう。

 だから、逆に、この二人が、仲が悪くなろうとしても、何かの力がそれを押しとどめるかのように感じられ、見えているその雰囲気からは、

「二人の性格は似通っているのだろうが、決して、お互いが心を開くことがない」

 ということではないかと感じられた。

 一見仲がよさそうに見えるが、それは錯覚であり、かといって、仲が悪いわけではない。

 タイミングが合っているので、仲良く見えるのだが、その実、

「合っていないところが、タイミング的に合っているように見えるだけなのだ」

 と考えると、

「人と絡む時、相性と、タイミングのどちらが大切なのか?」

 と考えると、

「実は、タイミングなのではないか?」

 と思う。

 それはなぜかというと、

「逆も真なり」

 ということも含めて、タイミングが合う人は、まず、なかなかいないが、性格が合うという人は、結構たくさんいるだろう。

 ということであった。

 まるで、血液型のようではないか。

 普通に考えれば、ABO型でいえば、4種類しかないが、

「移植手術」

 などで、本当に必要な血液ということになると、そう簡単には見つからな。

 ということと、同じではないだろうか?

 確かに、血液型が同じ人でも、

「移植の際に適合する成分がどれだけあるか?」

 ということである。

 献血などの時、

「成分献血」

 というものがあり、これは、

「必要な部分だけをもらって。あとは、体内に返す」

 というやり方で、本当に必要な部分を保存して、必要な人にあげることになるのだろうが、献血には結構な時間が掛かり、前に一度行った時は、

「確か、1時間半くらいかかったのではなかったか?」

 ということを思い出した。

 なるほど、それくらいの時間をかけて行うのだから、それだけ貴重な血液だ」

 ということになるというものである。

 その二人が話しているのが聞こえてきた。

「私もね。まさかと思ったのよ」

 と言い出したのは、見つけてもらった方の奥さんだった。

 どうやら、その奥さんも、

「誰かに話したい」

 と思っていたようで、その相手が見つかったことで、

「よかった」

 と、ホッと胸をなでおろしたようにも見えたのだった。

 それを、探し当てた奥さんに対して、

「ありがとう」

 という気持ちと、

「自分の中で、抑えられない」

 という気持ちがあったのか、様子を見ている限り、その顔が安心感に満ちているように感じて、面白かったのだった。

 その時の奥さんは、

「自分の中でだけ抑えておくことがきつい」

 と思ったのか、本気で、

「よかった」

 という表情が、ホッとした顔だったのだ。

 だから、最初は、まわりを意識しているつもりだったはずなのに、すぐに話始めたところで、すぐに我に返って

「これではまずい」

 と感じたのか、今度は、

「ひそひそ話になったのだった」

 それは、まわりから見ていると、

「完全に、どこか不自然に感じられた」

 だが、この密室である、

「町医者の待合室」

 くらいであれば、必要以上に、何も言わないという感じになってしまっているのであった。

 それを思うと、二人は、顔を見合わせて、何かを言いたいと思いながらも、

「すぐには、声を発せられない」

 という感じになっているのであった。

 だが、見合わせた顔を外すと、前述のように、タイミングを合わせて、決して顔が合わないように、まわりをうまく気にしていたのだ。

「この二人は、今までにもこういう場を何度も経験しているんだろうな」

 と思った。

 会社では、会社のルールのようなものがあり、それは、昔であれば、

「家族になんか、分かるわけはない」

 ということで、

「家に帰ってから、会社のことは、特に仕事のことになると、顔に出したりもできないだろう」

 と言われていた。

 しかし、最近では、奥さんも、表で働いているので、

「社会の常識」

 という、モラル的なこと以外にも、例えば

「忖度する」

 などということも分かってきているようだ。

 だから、その分、人との交流の仕方もうまくなり。昔であれば、

「昼下がりの、井戸端会議」

 などと言われるものは、まわりのことを意識することもなく。

「いつもの場所」

 ということであれば、

「まったくまわりを気にしない」

 ということを、まるで当たり前のことのような態度を取っていたので、

「声の大きさが、完全に、オバタリアン」

 などという、死語で表現されたりしていたものだ。

 今の時代になれば、そんなこともなくなり、それは、奥さんたちが、

「まわりに気を遣う」

 という風になったことで、男女の間での差というのも、実質的になくなっていったといってもいいだろう。

 その奥さんは、少し態度が変わったが、

「何かを話したい」

 という態度に変わりはなかった。

 変わったというのは、

「最初から、話したい」

 と思っていたというよりも、どちらかというと、

「とにかく聞いてもらった方がありがたい」

 ということであった。

「ありがたい」

 というよりも、

「怖いと思っている感情を、分かち合いたい」

 ということだったというのが分かったのは、青山が、

「聞き耳を立てていた」

 ということもあったのだが、それ以上に、

「相手が聞いてほしい」

 というオーラをまき散らしているのを、

「青山が察知した」

 と言った方が正解ではないだろうか?

 青山は、前から、

「聞き耳を立てる」

 ということには長けていたような気がする。

 聞き耳を立てるというと、聞き捨てならないという印象が強いが、それよりも、

「人に対して敏感になっている」

 と言った方がいいかも知れない。

 そして、その内容が漏れ聞こえてきた時、結構早い段階から、その話に引き込まれて、自分が聞かずにおれないということを悟っていたような気がした。

「そこに、墓地があるでしょう?」

 というのが、その奥さんの第一声だったのだが、その瞬間から、青山は、その声から耳が離せなくなっていたのだった。

 この街において、近くにある墓地というと、ほとんどない。そして、

「この近くにある墓地」

 というだけで、すぐにどこか相手に分かるというのは、昨日通りかかった時に、まるで幽霊のようなものを見たと感じた、あの墓地しかないだろう。

 他の墓地というのであれば、もっと具体的な場所を言わないと、まず分かるはずがない。例の墓地以外のところで、

「墓地」

 というのは、本当に数か所しかなく、それは、

「私有地」

 のようなところか、あとは。

「納骨堂」

 のようなところしかなく、納骨堂をわざわざ、墓地と表現する人も。なかなかいないに決まっている。

 それを考えると、

「この街における墓地」

 のことが話題に昇れば、それは、間違いなく。

「昨日のあの墓地だ」

 といっても過言ではないだろう。

 そして、その奥さんがいうには、

「今朝なんだけどね。あそこで、死体が見つかったんですって」

 というではないか。

 昨日の墓地というと、この病院とは、自分の家からは反対方向である。

 ということは、この病院は、

「いつもの通勤路とは逆の道だ」

 ということであり、それだけ、

「この病院からは、少し距離がある」

 ということを言っているのと同じことであった。

 この二人の主婦が、どこに住んでいるのか分からないが、話題を出した主婦は、少なくともその墓地から近いところに住んでいることは間違いないだろう。ただ、

「なるほど、死体が見つかったということであれば、その話題を一人で抱え込んでおくのはきつい」

 といってもいいに違いない。

 ということは、

「昨日のあの光景は、幻ではなかった」

 ということになるのだ。

 ただ、あの光景を思い出してみると、穴を掘っていたように見えたので、

「じゃあ、あれは、一体何をしようとしていたのだろうか?」

 ということになるのだ。

 穴を掘っていたのだから、どこかから死体をもってきて、埋めようとしたというのであれば、分かるが、それもわざわざ墓場にもってきて、そこで捨てるというのはおかしいではないか?

 そもそも、

「死体が見つかった」

 ということは、

「犯人が、死体の発見をさせるために、昨日、死体を墓地に置いた」

 ということであり、

「隠そうという意志が最初からなかった」

 ということになるのだ。

 当然、死体が見つかったということは、第一発見者がいて、墓地の管理をしている寺の住職か、坊主のような、

「お寺関係者」

 なのか、それとも、

「墓参りに来た人になるのか」

 ということであるが、当然、夜が明けてから、それほど時間が経っていない間に発見されたに違いない。

 実際に、死体発見のその現場を、青山が見たわけではないので、何とも言えないが、本来であれば、

「あの場面で、警察に連絡を入れるくらいのことがあってもしかるべき」

 だったのかも知れない。

 しかし、

「不確実な状態で連絡を入れる」

 というのも、

「人騒がせ」

 ということになるだけで、しかも、その時は、最初から、

「通報はしない」

 と思っていたような気がするのだが、それは、

「すでに、体調が悪くなりかかっていて、それだけ、気分が悪かった」

 ということであろう。

 ただ、何かの気分が高ぶっていたのか、その時は連絡を入れるという感覚ではなかっただけで、意識はしっかりしていたのに、どこか、行動的になれない自分がいたのだ。

 それを思うと、青山にとって、何もできないでいる、その時だったということで、後悔はないつもりだったが、

「それを、いまさら知らされるなんて」

 と、仕方がないことではあるが、連絡しなかったことを後悔してしまった。

 だが、それは、

「きっと、あの場面に出くわした人は、警察に連絡を躊躇したのは、間違いないだろう」

 と思うのであって、

「青山だけのことではない」

 と思うと、少し安心した。

 安心すると今度は、急に身体が宙に浮いてくる気がして、意識が遠のいていくのだった……。


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