第2話 埋葬
墓地を横目に、いつものように歩いていると、前述のような光景を見ながら、最近は、
「この道も、そこまで怖いとは思わない」
と感じながらも、怖さを感じずにいられるのは、怖い道を歩きながら、他のことを考えられるようになったからであろう。
昔は、こんな恐怖の道を歩いているのに、
「考え事しながら歩くなんて、恐ろしくてできない」
と思っていた。
特に、墓地の近くを歩いている時など、
「余計なことを考えていて、自分の防御がおろそかになると、幽霊に乗り移られる」
と思っていたほどで、真剣に、そんなことを信じていたのだ。
特に、月明かりの時は怖く、
「ドラキュラが出てきて、血を吸う」
あるいは、
「オオカミ男が、満月を見て、オオカミに変身する」
などという妄想があった。
しかし、冷静に考えると、
「ドラキュラが血を吸うのは、あくまでも、
「若い女性の血」
というだけで、オオカミ男が出てきて、
「オオカミ男に変身する」
と言ったところで、
「変身したからといって、何があるというのか?」
ということであった。
そもそも、オオカミ男というものが、
「満月の夜に変身するからといって、何をするのか?」
ということを、詳しく知っているわけではない。
そう思っていても、やはり、墓地の隣を歩くのは、気持ち悪いだけだった。
幸いにも、墓地の近くに、竹林があるわけでもない。
そもそも、竹取物語が、
「恐怖物語」
というわけではないではないか。
かぐや姫に、求婚した人たちが、その難問にこたえて、かぐや姫をゲットしようとしているだけで、実際には、
「達成できるはずもない難題を吹っかけて、相手をあきらめさせよう」
という考えではなかったか。
別に、青山には、今のところ、自分にとっての、
「かぐや姫」
がいるわけではない。
かといって、彼女がいなかったというわけでもなく、逆に、これくらいの年齢になると、
「結婚適齢期」
というのも、通り過ぎていて、ある意味、結婚に対して、
「気分的な倦怠期に入っている」
といってもいいのではないだろうか?
気分的な倦怠期というと、そもそも、
「結婚適齢期」
などというのが、存在するのか?
というところが問題であり、昔であれば、男性なら、25歳くらいから、35くらいまでという雰囲気があったが、今はそんなこともないだろう。
確かに、どこかの年齢で、
「結婚したい」
という時期があるようだ。
昔であれば、
「そう思った時に、結婚しないと」
と思ったかもしれないが、この年になると、
「半分は、あきらめの境地もあるようで、結婚できないのであれば、このまま、しばらくは独身」
と考える人が多かったのではないかと思うのだ。
今の時代は、
「離婚というものが、そんなに恥ずかしいことではない」
と言われるようになった、
一つは、昔流行った言葉で、
「成田離婚」
というのがあるが、これを考えると分かってくることもあるだろう。
成田離婚とは、その名の通り、
「新婚旅行から帰ってきて、成田空港に降り立った時点で、離婚を決意する」
というものであった。
その頃は、すでに、昔のように、
「結婚するまで、お互いに貞操を守ろう」
などと言ったことや、
「同棲しての結婚」
などというのも、考えられるようなことではなかったのである。
だが、そのうちに、結婚してからというもの、一緒に暮らしてみると、相手の見えなかったものが見えてきて、
「すぐに離婚」
ということが多かった。
ややこしいのは、
「同棲していた時には、分からなかったり、気づかなかったりすることがあったようで、新婚旅行では、気が付いた」
ということである。
それは、問題点が、
「一緒に暮らす」
ということではなく、
「相手が、伴侶だ」
という意識をしたことで、自分の中で今まで許せていたことが、許せなくなるのだろう。
ということは、結婚する前であれば、自分の中にあった、
「相手を客観的に見ることができる精神的な余裕」
というものがなくなってしまい、ガチな部分で相手を見てしまうと、
「今まで許せていたことが、自分の中での結界を破ってしまう」
ということになるのであろう。
だから、
「成田離婚」
というものが流行り、そのうちに、
「離婚なんて、別に恥じることではない」
ということになった。
「我慢できないことがあるのに、それを我慢して一緒にいる理由がどこにあるというのか?」
ということであった。
今の時代であれば、昔から、
「日本人の美徳」
というようなことを言われていた、
「我慢」
ということをする必要がなくなってきた。
会社などでも、
「コンプライアンス違反」
というものがあれば、社会問題になるくらいのもので、昔であれば、
「上司のいうことは絶対」
と言われていた時代には、
「それは間違っている」
と誰にでも思えることでも、
「我慢しないといけない」
ということになり、
「泣き寝入りするしかない」
ということであったのだ。
それは、家庭を持ってしまうと、
「上司が嫌だから」
といって、簡単に会社を辞めるわけにはいかない。
もし、辞めてしまうと、
「家庭もあるのに、簡単に辞めてしまって、どうやって、養っていくというの?」
と言われたものだ。
そして、その後に、必ず、
「我慢が足りないのよ。そんなんじゃ、どこに行っても通用しないわよ」
ということを言われるのだ。
つまりは、
「簡単に会社を辞めるというのは、我慢が足りない」
ということが前提で、
「どこも、上司というのは、似たり寄ったりなので、一つで我慢できずに辞めてしまうということになるのであれば、どこに行っても通用しないという言葉で片付けられるというのも当たり前のことであろう」
そんな時代であれば、実際に社会が見る目は、
「辞めた人は、忍耐力がないから、ダメなのだ」
ということになる。
本当にそういうことなのだろうか?
昔から、
「パワハラ」
であったり、
「セクハラ」
などという、
「それらまがい」
のことはたくさんあっただろう。
そもそも、
「我慢しなければいけない」
という発想は、今でいう。
「パワハラ」
というものが存在するから、それに対して、
「我慢をするか」
それとも、
「許せないことに対して、反発するか?」
ということである。
そのどちらであっても、大きなリスクとなる。
「我慢をする」
ということは、自分の中に、ストレスをためてしまい、精神的、肉体的に、自分の身体を蝕んでしまい、
「下手をすれば、精神を病んでしまう」
ということになるだろう。
実際に、その頃から、精神疾患の患者が増えてきたのか、
「自律神経失調症」
であったり、
「双極性障害」
などと言われる、精神疾患が叫ばれるようになってきたではないか。
我慢をし続けた結果、神経を病んでしまい、ストレスが、身体に影響を与えるようになってくると、神経内科の先生から、
「ドクターストップ」
を掛けられることになり、働けなくなった分。障害認定をもらって、病院に通院しながらの、
「年金暮らし」
という人も多いことだろう。
それこそ、
「社会の理不尽さ」
というものを物語っているといってもいいだろう。
「上司というのは選べない」
これは、生まれてくる時から、その人の運命であり、
「生まれてくる時、親を選べない」
というのと同じであった。
青山が社会人となった頃は、すでに、時代は変わっていて、昔から会社で言われていたような、
「終身雇用」
であったり、
「年功序列」
などという言葉は、すでに、
「昔のこと」
ということで、却って今との比較対象で言われるようになったのかも知れない。
青山は、
「時々自分のことが嫌だ」
と思うことがある。
それは、結構あるが、その時考えていたこととして、
「俺は、社会人という言葉が嫌いなのに、表現する時、文章に書いたり、会話にて話をする時には、どうしても、社会人といってしまう。他にいいようがないからなのだろうが、そんな自分なので、言わなければいいのに、と思いながらも表現してしまうことからだった」
なぜ、
「社会人」
という言葉が嫌いなのかというと、嫌いな上司が部下への説教で、口にするからであった。
その時に一緒にいう言葉が、
「一般常識」
などという言葉と一緒に使うからである。
そもそも、
「一般常識」
がなんだというのだ?
「一般的な常識って、何なん?」
ということである。
それこそ、
「一般的」
という言葉を使って、人に押し付けているだけではないのだろうか?
そもそも、その人が言っている一般的な常識を、
「その人自体が分かっている」
ということなのだろうか?
「一般的」
ということを口にするのであれば、
「どこからどこまでが、一般的だ」
ということを、すべて把握できている人間が使うのであれば、まだ許せる。
しかし、本当に、
「一般的なことと、それ以外との結界を理解して、人に説明できる人などいるのだろうか?」
分かっていると思っている人は、
「俺が説明してやるから、それが分からないのであれば、一般的ではない」
というレッテルを相手に勝手に貼っているだけではないだろうか。
考え方や、モノのとらえ方というのは、人それぞれで、
「人間の数だけ、そのパターンはある」
ということであり、それを、
「十把一絡げ」
にしようなどというのが、そもそもの間違いであり、、そんなことを考えるから、
「押し付け」
と言われるのであり、今では
「パワハラ」
ということになり、社会問題となるのだ。
それだったら、まだ、新興宗教で、信者になった人を洗脳している方が、まだマシなのかも知れない。
騙されているのかも知れないが、本人は、少なくとも、
「それが正しい」
と思っているのだから、そこから先は問題となるかも知れないが、教祖の話を聞いて、その人が信じている間は、
「パワハラ」
というものよりも、まだよほどましなのかも知れない。
上司がいうところの、
「一般常識」
というのは、何なのだろう?
普通に考えれば、
「モラルを持った行動」
ということになるのだろうが、確かに今の若い連中の中には、
「モラルなど、まったく無関係」
ということで生きている人もたくさんいる。
しかし、逆に、
「モラルというものを、自分でちゃんと理解して生活をしている人もたくさんいることだろう」
そんな人たちは、ちゃんとまわりの人に、
「敬意を表して」
いるのであり、昔の人のように、
「モラルというものが存在するので、それに違反しないようにしないといけない」
と考えながら生きている人から比べれば、今の人の方がよほどわきまえているといっても過言ではない。
なぜなら、
「モラルという一定の考え方はあるが、それを曖昧なものと位置づけ、一般常識などという言葉を、死語にするくらい皆、独自のモラルというものを持っているのだろう」
といえる。
だからこそ、モラル違反をする人間が目立つのだ。
昔のように、タバコをどこでも吸えたという時代ではなく、今は、
「自分の家以外では、基本的には吸えない」
という状態になっていることで、余計に、
「喫煙者のマナーの悪さ」
というものが、表に出ている。
といってもいいだろう。
「受動喫煙禁止法」
によって、禁煙車のほとんどは、
「タバコは、害悪だ」
と思っていることだろう。
それは、
「喫煙者が、皆ルールを守れば、悪いという思いはない」
ということであろう。
だが、実際に、ほとんどいなくなった喫煙者のマナーの悪さが目立つようになった。
つまり、
「喫煙者は、マナーを守らない」
という目で見られるのだ。
中には、ちゃんとルールを守って吸っている人もたくさんいる。しかし、ほとんどの喫煙者は、
「どうして俺たちがこんな、迫害されないといけないのか?」
としか思わないだろうから、結果として、開き直ってしまい、
「マナーなど守る必要はない」
と思うことだろう。
しかし、そんなやつらが一番誰から疎ましく思われるかというと、
「マナーを守って、違反することもなく吸っている。本当に肩身の狭いと言われる人たちだ」
ということだ。
彼らがなぜ肩身が狭いかというと、
「ルールを守らない連中のせいで、俺たちまで、白い目で見られるというのは、それだけで迷惑だ」
ということになるのだ。
「開き直った連中は、そのことを分かっていないんだ」
ということで、敵がそんなに近くにいるなど、あいつらにとっては、
「灯台下暗しだ」
といってもいいだろう。
「マナーを守る」
ということが、どれほど、自分だけではなく、人に与える影響が大きいのかということを分からない連中だからこそ、
「社会から孤立する」
といってもいいだろう。
「自分の城跡が、世の中の非常識」
という言葉があるが、まさにその通りだということなのであろう。
だが、やはり、自分が、
「社会人」
であったり、
「一般常識」
というものに対して。キチンとした認識を持っている人間だという思いがあることで、必要以上に気にしている自分がいるのを感じると、
「気分のいいものではない」
と考えてしまうのだった。
本当なら、嫌いだと思っているのに。気が付いたら、そのことを考えているというのは、それこそ、
「勝手な思い込みをしているのは、自分ではないか?」
と思うのだった。
時々その感情を、自分の中で、
「自分で自分に考えを押し付けているのではないか?」
と考えると、それは、
「上司に対しての、反発から考えていることであって、誰よりも自分が考えさせられているというのは、洗脳されているのだ」
といってもいいのかも知れない。
自分で自分の考えを押し付けるのであればいいのだが、自分の考えなのだから、押し付ける必要というのもないはずだ。
そうなってくると、
「人に押し付けるのは、一般常識であり、それが自分のものではない」
ということが分かっているから、押し付けることになる。
と考えると、それこそ、
「上司がやっていることと同じではないか?」
と思い、それが、
「自己嫌悪にさせてしまい、自分の中の考えを、表に出すことで、自分を納得させる必要があるのではないか?」
と感じるのであった。
そんなことを考えながら歩いていると、すでに、墓地の半分くらいまで来ていて、普段であれば、
「決して、墓地の方を向かない」
と思っているのに、その時は、墓地が気になって、無意識に覗いてしまった。
すると、墓地の奥の方から、
「ザクッ、サクッ」
というような音が聞こえてきた。
土を掘っているのはすぐに分かり、そこに金属音のような乾いた音が響いてきた。
前日、雨が降ったので、湿気を帯びた空気が淀んでいるような気がしたので、聞こえてきた金属音が、乾いた音だったことで、余計に響いたのだ。
湿気がある空気というと、
「まるで、大浴場にいるようだ」
と思えるほどで、その向こうに見えるのは、
「金属音というものを、そこから反対方向に向ける空気が働いているようで、それを制御しているのが、月の光ではないか?」
と感じさせられた。
まだ、その金属音の正体を確認できていないが、さぞや、月明かりに照らされて、
「さぞや、光輝いて見えることだろう」
と感じさせられたのだ。
よく見てみると、
「明らかなシルエットになっているようで、まるで、そこで田植えをしているように見えるその男は、まるで紙芝居の影絵のように、やせ細っているのが分かった」
影絵というものを、子供の頃に、
「指人形」
と混乱しながらも、手品師のように、狐を作ってみたりと、いろいろな形にしているのが面白かったのだ。
そんな湿気を帯びた空気の中で、一人の男が、墓場を掘り返そうとしている。
それは、今の時代では、見ることのできない光景で、昔の土葬などの時代では、
「墓を暴く」
などということで、探偵小説の中にはそんなこともあったかも知れない。
しかし、墓石も上部で、墓の近くを掘り返すなどできるわけもないようなところで、そんな行動は、
「何かの映画の撮影か何かな?」
とも思ったが、いくら撮影であっても、そんな、
「バチ当たり」
なことができるはずはない。
さすがに、撮影するとしても、敷地使用の許可がいるだろうし、当然、立ち合いの問題であったり、墓場などは、管理は、お寺がやっているといっても、その墓地の土地は、所有者がいるわけであって、勝手なことはできないだろう。
それを考えると、どうにも納得がいかない。
「俺は夢を見ているんだろうか?」
と考えてしまうが、まさに夢を見ているということ以外考えられない状況で、夜の静寂のこの中で、
「それを確かめるというすべ」
の、何を持っているというのだろうか?
とにかく、
「こんな怖いところは、一刻も早く逃げ出すに限る」
ということで、急いで、墓地から離れていった。
遠くの方から、犬の遠吠えが聞こえてきた。普段であれば、
「いつものこと」
ということで、意識はしないことだろう。
しかし、その時は、とてもいつものことだとして考えることができず。その気持ち悪さを感じたことで、さらに汗が噴き出してくるようで、だいぶまわりが涼しくなってきているのに、メガネが曇ってきているのを感じると、
「やはり、湿気がすごいんだな」
と感じると同時に、見えているものが、ぼやけて見えてくるようになると。今度は、
「真っ暗だったはずなのに、さっきよりも、明るい部分と暗い部分がハッキリとしてきたような気がする」
と感じたのだ。
さっきは、メガネをはめていることで、その明るさも、見え方も、毎日通っている道なので、
「見えなくとも分かっている」
という感覚からか、
「真っ暗で見えなくとも、何がどこにあるかということも、熟知しているということで、真っ暗だということを自分で納得しながら、見えないものが見えている」
と思っていたのだ。
だから、
「見えなくて当たり前」
と思っていたのが、今では逆に、
「目が慣れてきて、見えたさっきのシルエットが恐怖だったので、さっぱり見えない方が安心だ」
と思っていたくせに、今度は、湿気からメガネが曇ったせいで、
「中途半端な明るさが感じられる」
と思うと、その明るさが恨めしく感じられ、
「メガネを外してみるか?」
とも思ったが、
「メガネを外しても、結局同じようにぼやけているのだから、同じことに、相違ないではないか」
と感じた。
実は。ここでメガネを外すというのは、本当は正解だったのかも知れない。メガネを外して見えない状態であれば、湿気からか、メガネをはめていてぼやけているとは違い、メガネを外せば、少しでも見えやすいように、
「目を凝らす」
ということをするだろう。
そうした時、見えてくるものは、
「よりまじかに、何かが近づいてくるように見えてくるように感じる」
ということであるが、結局は、真っ暗な状態になるのではないだろうか?
ただ、目が慣れてくるスピードは裸眼の方が早いと思っているので、
「やってみる価値はあったかな?」
と考えさせられるのであった。
その日見た、
「幻のような光景」
というのが、
「墓を暴いているのか?」
それとも、
「埋葬だったのか?」
と考えたが、結論など出るわけはない。
ただ、自分で、強引にでも結論付けて、忘れたいと考えるのであれば、
「埋葬ではないか?」
と思うのだった。
もちろん、その理由があるわけではないし、実際に、どちらかなのか、分かるわけはないので、あくまでも、
「自分で忘れるための結論」
ということであれば、
「強引にでも」
ということであれば、その結果としては、
「埋葬」
ということにしかならないだろう。
そっちの方が後になっても、自分を納得させることができるとすれば、
「埋葬」
ということでしかないと、思ったからであった。
だが、その日、
「そのまま帰ってしまってよかったのか?」
ということが頭をよぎったのは、一瞬のことであった。
しかし、実際にそのことを感じるのは、もっと後になってのことだった。なぜなら、次の日に起こったことを、青山が知るのは、少し経ってからのことだったからである。
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