間違いだらけの犯罪
森本 晃次
第1話 月明かり
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和5年10月時点のものです。とにかく、このお話は、すべてがフィクションです。疑わしいことも含んでいますが、それをウソか本当かというのを考えるのは、読者の自由となります。
昔は、火葬と土葬など、人が死んでから、葬る時には、いろいろあったものだ。中には、海の中に、骨の粉末をまくなどという話も聞いたことがあるあ¥が、今は火葬が、当たり前だ、
葬儀が終わってから、火葬場で火葬にされて、その一部のお骨を拾って、それを、墓に埋葬するというものだろう。
人が死ぬと、
「24時間以内の埋葬はできないことになっている」
ということであるが、それは、迷信なのか、それとも、医学的見地からなのか、
「蘇生する可能性があるからだ」
と言われている。
実際に、蘇生する可能性がどれだけあるのかということは、正直分からないが、過去には、何度かあったと言われれば、恐ろしくて、火葬になどできるものではない。
「じゃあ、土葬なら?」
ということも考えられるが、それこそ、こちらの方が恐ろしい。
気を失っていたが、気が付けば、棺桶の中で、二度と出られないように、密閉され、土の中に埋まっているのだ。
しかも、まっくらで、暑さも寒さもまともにくるというもの。想像を絶するとは、このことであろう。
考えただけでも、恐ろしいが、これであれば、まだ火葬の方がいいだろう。
昔の火ならいざ知らず、今の火葬場であれば、
「数分で、骨だけになってしまう」
ということであれば、目が覚め、蘇生したとしても、一瞬のことだろう。
それこそ、
「あっ」
という間に、また意識がなくなり、
「熱い」
ということすら、自分でも分からないに違いない。
そんな恐怖が襲ってくるということであろうが、そんなことは、考えようと思えばいくらでも考えられるのかも知れないが、考えれば考えるほど、精神がおかしくなり、
「見えない何か」
に追い詰められているかのように感じるのだ。
年寄りが、よく若者に、説教というか、訓示のようなものを垂れているが、確かに、言っていることは間違っていないのかも知れないが、
「相手のためだ」
といって話をするのは、それが、相手を追い詰めることになっているということを分かっていない。
特に今の時代は、
「セクハラ」
であったり、
「パワハラ」
というものが許されない時代であり、いくらいいことなのかも知れないが、相手が追い詰められるような言い方をすれば、それは、すべて、
「パワハラ」
になるのではないか?
ということである。
人間というのは、人から追い詰められたりすると、反発できるのであれば、それでいいが、どうしても、真面目に話を聞いてしまって、結局、
「自分で自分を追い詰めるようなことになってしまうと、精神疾患に陥ってしまうのが、今の時代ではないか」
と言われる。
特に、会社などで、上司が部下に対して、
「自分の経験から」
ということで話をする時というのは、ほとんどが、自分の世界に入っているということである。。
それは、自分の世界に相手が入ってこないと、それは、相手が悪いのであり、
「どうして、自分の話を聞かないのか?」
という、押し付けという意識に欠けていることで、そこで、お互いに、
「交わることのない平行線」
であることが分からないのだ。
若い人は、そのうちに気づくだろうが、最初に言いだした、年寄りは気づかない。
「せっかく教えてやろうといっているのに」
ということが、押し付けであり、ひいては、
「パワハラに当たる」
ということであり、さらに、
「相手を否定することになる」
ということである。
考え方は、人それぞれあり、ましてや。年代が違えば、それは当然、考え方も価値観も違ってくる。
確かに。いずれは、その老人のいう通りになるのかも知れないが、今の老人が、若者に話をしているのは、本人は、
「相手のためだ」
と思っているかも知れないが、聞いている方は、
「聞かされている」
ということになる。
そしてその内容は、
「自分が勉強してきたことを、ひけらかしたいだけだ」
としか思えない。
そう思われてしまうと、何を言っても同じで、しかも、話を聞かない相手に、
「話を聞け」
と説教するのだから、どうしようもないというものだ。
要するに、自分の言いたいことを言って、自慢をすることで、マウントを取りたがっている連中と変わりはない。それこそ、形は違うが、
「パワハラ」
というものではないか。
それが、相手を否定しているということになり、追い詰めているということが分からないのだ。
そんな年寄りに限って、脅すような言い方をしてくる。若者も、それくらいのことは分かっているので、本来なら聞きたくないことだ。だが、年寄りのいうことにも一理ある。やはり、
「交わることのない平行線」
としか言えないだろう。
オカルトや、ホラー小説を読んでいるよりも、よほど、リアルで恐ろしいといえるのではないだろうか。
しかも、こういう話を聞く時は、老人よりも、若者の方が、頭が柔軟ではないだろうか。確かに、老人のいうことには、一理があり、若者の言葉よりも、
「相手のためを思って言っている」
ということが分かるのだ。
しかし、それも、相手の立場や考え方を分かってであれば、いいのだが、あくまでも、自分が、
「人生の先輩だ」
などという態度に出て、
「自分の考え以外は認めない」
などということになると、それ以上のことはないだろう。
だから、大人でも、引きこもりが多いのだ。
会社での、
「パワハラ」
などが、その大きな理由なのだろうが、
そういう意味では、昔からの、
「年功序列」
というのは、よかったのかも知れない。
きちんと、自分が経験してきたうえで、一定の年月がくれば、昇進していく。
そのたびに、今までの経験を活かし、
「部下を育てる」
というノウハウが生まれてくるのだ。
「主任が課長になり、いずれは部長に」
という年功序列は、
「部下の気持ちが分かる上司」
ということで、部下からも慕われる、そんな上司が生まれやすい。
今のように、そういう上下関係が、不安定であるからこそ、
「パワハラ上司」
というのが生まれ、
「部下の自主性を阻害しているのが分からないのか、自分の価値観だけを押し付ける」
そうなると、
「部下の考えていることは、少しでも自分と違えば、それは、否定の対象になる」
ということで、
「人それぞれ違う」
というのが当たり前なのだから、上司の要望に100%答えられる人などいるわけはない。
上司も、そういう部下を望んでいるのだろうが、自分が分かっていないのだから、結局。自分の中で、
「考えが狭くなってきて、中には、自分の中にこもってしまう上司もいるだろう」
ということだ。
「上司が引き籠れば、部下も引き籠る:
そんな状態で、
「交わることのない平行線」
というものが、さらに確立し、お互いが、自分のジレンマの中で、苦しむという、
「百害あって一利なし」
ということになるのだろうが、どちらが歩み寄ればいいというのだろうか?
「相手の言っていることすべてが、皮肉に聞こえる」
と若者は考えてしまう。
そう思われるということは、言っている方としては、
「皮肉を言っている」
とは思っていない。
皮肉をいうことがどういうことなのかということを考えると、それは、
「自分の主張が正しい」
と相手に思わせたいということではないだろうか?
もし、それが、当たっていることであれば、相手の気持ちに刺さることなのかも知れないので、それはそれでいいのだろうが、しかし、それも度を越してしまうと、皮肉は、相手を追い詰めたり苦しめたりすることとなり、逆効果どころか、二人の間に、
「決定的な溝を生む」
ということになることだろう。
「過ぎたるは及ばざるがごとし」
と言われるが、まさにその通り、
「相手がせっかく、話を聞こうと思って、その態勢になっていたかも知れないところを、余計なことを言ってしまったり、皮肉が、皮肉を言っている人の、自己満足に見えてしまうと、相手が聞く耳を持たなくなる」
というのも当たり前だということになるだろう。
これは、子供同士の、
「いじめ問題」
にも絡んでくることなのかも知れない。
苛めというのも、昔の苛めと今の苛め。いや、
「苛め」
という言葉が社会問題になり、
「引きこもり」
ということが言われ出した頃のことであろう。
「昔の苛めは、もう少し、考え方が大人だった」
という人がいる。
「ここでいう、大人って何なんだ?」
と考える人が多いだろう、
大人というのは、
「相手のことを思いやれる人のこと」
という人がいたが、だったら、苛めなどする人間に、
「相手を思いやる気持ちがある」
という理屈が分からない。
「相手を思いやる」
というのは、相手の立場や、考えを尊重できる人だ」
と言われれば、
「なるほど」
と思うのだが、だったら、今の大人のように、
「自分の意見を押し通して、子供が自分の意見を言った時、否定してしまう」
という考えはどういうことになるのだろうか?
それこそ、
「一方通行」
というもので、本人は、
「相手の意見を聞いているつもりだ」
というかも知れない。
確かに、
「全否定」
というわけではなくて、認めてくれるところは認めてくれるのだが、子供の方としては、
「絶対に譲れない」
というところを、否定されてしまうと、
「全否定されているようだ」
と思ってしまうので。それが、結局、
「交わることのない平行線」
というものを描いてしまうのであった。
それが、ジレンマとなり、さらにトラウマとなり、お互いの精神を苛んでしまい、精神疾患や、ひき小森が増えてしまうことに繋がるのであった。
その日は、ちょうど、上司から嫌味を言われた日だった。嫌味を言われるのは、その
日だけではなく、少なからず今までにも何度かあり、それを言われることで、胃が痛くなったりしていたものだ。
実際には、
「パワハラなのではないか?」
と思っていたが、自分の中で、
「上司が言っていることにも一理ある」
という気持ちにもなっていたのだ。
だから、上司には、逆らえないという気持ちにもなるのだが、そうなると、今度は、
「自分で自分を否定してしまっている」
という自分を感じる。
自分で自分を否定するということは、
「人にされて一番嫌なことを自分でしてしまっている」
ということになり、理不尽な気持ちが、増幅するのは、自分にも原因があると思うと、
「上司だけに文句が言えるわけではない」
と感じるのだ。
そうなると、ジレンマに陥ってしまう。
ただ、いくら相手が正しいのかも知れないが、百歩譲っても、許せないところがあるのだ」
というのは、
「すべては、自分が正しい」
ということで、まるで、まわりの人間を、
「自分が導かなければいけない」
とでも思っているのか。それこそ、
「新興宗教の教祖」
のように、上から目線で、しかも、相手にとっては、
「耳が痛い」
と思うようなことを、言われれば、
「ひと時たりとも、話を聞きたくない」
と思うのは当たり前ではないだろうか?
正しいかも知れないとはいえ、自分が追い詰められたり、苦しめられなければいけないような話を、
「姿勢を正して聞かなければいけないのか?」
ということである。
いくら、相手に、
「それは、人それぞれで、感じ方も違えば、受け取り方も違う。だから、同じことを聞いても、感じ方が違うのだから、受け取る姿勢だって違って当たり前だ」
と訴えても、相手は聞く耳を持たない。
だからこそ、
「まるで、新興宗教の教祖のようだ」
と表現するのだった。
ただ、相手の言っていることも、間違っていないと思うことで、逆に相手に近づけないと思うのは、
「これほど辛いと思うこともないのかも知れない」
これが会社の上司であっても、そうだし、自分の親であっても。そうだろう。親だからといって。なんでもかんでも、
「しつけ」
だったり、
「教育」
ということで片付けてしまうというのは、違うだろう。
今はそのことで、
「親による、幼児虐待」
というのが問題になっている。
逆らうことのできない子供を、自分の傀儡にでも仕掛けて、それを身体に覚えこませるということでの発想は、それこそ、やっていることも、そのすべてが、
「虐待」
ということになったとしても、それは、しょうがないことだといえるのではないだろうか?
虐待ということを、親も子供も分かっていない状態で、進行していくと、子供はそれが当たり前だと思って育ち、自然とトラウマになってしまったことが、今度は、
「他人にしてもかまわない」
ということになり、この問題は、どんどん大きくなることであろう。
その日は、そんな感情をもって帰宅していた。
彼は、名前を青山といい、年齢は35歳の、サラリーマンだった。
会社に入社して、10年とちょっと、新人の頃は、少し、
「五月病」
と呼ばれるようなことがあったが、その病気に関しても、数か月で克服し、研修期間も終えて就いた仕事が自分に合っていたのか、結構、
「やりがいのある仕事」
と受け止め、真面目に仕事をしていた。
もちろん、上司の小言のようなものも、ストレスに感じたりはしていたが、それ以上に、仕事が楽しいと思えるような状態だったことが幸いして、第一線での数年間は、
「三度の飯よりも楽しい」
というのが、大げさではないほどに、楽しんで仕事をしていた。
青山が、今までに生きてきた中で、
「いつも何かがあっても、最後には、自分が一生懸命になれるような何かが見つかったことで、それまでの苦労も吹っ飛ぶ」
といえるくらいのこともあったりしたものだった。
中学時代であれば、部活でやっていたバスケットで、キャプテンを務めるくらいであったが、高校生になると、ケガをしてしまって、
「選手としては、なかなか難しい」
ということを言われたので、その後は引退して、最初は、
「マネージャーとしてでも、バスケットに携わっていこうか?」
とも思ったが、
「好きなものができなくなった時点で、しがみついていても、自分が成長できない」
とも感じ、それ以上に、
「自分のストレスの発散ができないのではないか?」
と感じたこともあり、バスケットをスパッと引退した。
だから、それ以降は、好きではあるが、あまりその話題を出しているところに近づく気もしないし、どうかすれば、
「バスケットは嫌いだ」
という風に言ってきた。
だから、それ以降、つまり高校時代以降で、他にもいろいろなことを好きになった。
そして、その時々で、自分なりに楽しんだり、活躍したりしてきたつもりだったが、バスケットの時と同じように、続けられなくなるという時が訪れるのだった。
それを、
「これって、私の運命なのかしら?」
と思うようになっていたが、ただ、これも、
「物は考えよう」
ということで、
「好きになったものが、いつも数年で挫折を迎える」
というのは、自分にとっては、
「悪いこと」
であり、逆に、
「挫折をしても、すぐに新しいものが目の前に現れるのは、自分の人徳なのかも知れないな」
と感じるが、そうではなく、
「自分の前向きな性格が、目の前にあるものに気づかせるのではないか?」
と考えた。
どちらも、似たようなものだと思うかも知れないが、冷静に考えると、まったく違っている。
「意識をしていないことを、他力本願のように引き寄せる」
ということと、
「前向きにいるということを意識しているから、引き寄せられるものがあるということで、あくまでも、自分の性格によって引き寄せる」
ということとでは、
「意識の持ちよう」
ということであったり、
「性格的なもの」
なのか、
「本能に近いものなのか」
ということになるのだろう。
いつものようにバスを降りて、家に向かう途中には、田舎道であることもあって、恐怖を感じさせるところがいくつかあったのだが、何が怖いといって、その途中に、小規模であるが、墓地があったのだ。
「逆に小規模だからこそ、恐怖を感じさせるのかも知れない」
青山は、いつも、そう思って歩いていくのであった。
家に向かうまでに、その墓地があることから、今でこそ、慣れてはきたが、中学生、高校生の頃は、懐中電灯を照らしていたものだった。
途中に街灯がないわけではない。だが、
「墓地がある」
と思うだけで、街灯がある方が却って怖い気がするのは、気のせいであろうか?
この帰り道を歩いていると、どうしても、思い浮かぶ光景がいくつかあるのだが、その光景は、子供の頃に読んだ本であったり、マンガだったりするものだった。
一番最初に、恐怖を感じたのは、なぜか、
「ドラキュラの話」
であった、
あれは、外国の話であるし、墓場があるといっても外人墓地なので、横浜か、神戸にでも行けば、日常的に見れるのだろうが、田舎町などには、皆無であっただろう。
ただ、もし想像の中で、一緒の発想が許されるのだとすれば、それは、
「月明かり」
ではないだろうか?
月明かりからの申し訳程度の明かりのはずなのに、その光の強さは、その光をどれだけ強く感じさせるかということが、まるでテーマであるかのごとく、想像を掻き立てられるのであった。
墓地の近くに来ると、なぜか、墓地を意識する時というのは、月が目の前に見えている時で、決して、背後から照らされるという、そんな感じではなかったのだ。
それを想像すると、
「月明かりというのは、その向こうに見える光景から、影を意識するわけではなく、シルエットに見えることで、幻想的な感じを受けさせるのだろう」
逆に、背後からの月光であれば、今度は、墓石から伸びる影に意識が言ってしまい、その本体というよりも、影の長さに気を取られることで、今度は、
「どっちが明るいんだろう?」
と、月が目の前にある時か、背後からの時とで、意識が変わってくる。
しかも、それがいつも満月だとは限らないことが多く。背後からの意識とすれば、却って、三日月のような時の方が、強く感じられるのであった。
「ひょっとすると、満月は、前からしか見えないのではないか?」
と思ったが、ただ、考えてみると、満月を意識した時、
「いつも同じ方向だ」
とは思えなかった。
それは、見える高さにしてもそうだった。
「地平線に近い時」
というのもあるし、逆に、
「空の真上にあって、首が、後ろにつくくらいに見上げなければいけない」
と思うくらいのことだってあっただろう。
それを考えると、
「俺は、満月と三日月のどっちが好きなんだろう?」
と思えてきた。
正直にいえば、三日月の方が好きである。
最初に、感じたのは、子供の頃にやったゲームで、三日月のようなブーメランのような武器を使っての、ファイトがあったのを見た時だった。
まるで、三日月のように光り輝いて、黄色く飛ぶその武器に、感動したのだった。
その次は、これもゲームであるが、
「戦国シミュレーション」
のようなもので、東北の雄である、
「伊達政宗の兜の前立て」
というものが、
「独眼竜」
と言われる眼帯とセットで、
「格好いい」
と感じたからだった。
「ほぼ、一か月に一度の周期が、月の周期で、それこそ、月齢というものであろう」
それを、
「太陰暦」
というようで、それはそれで、生活に密着した暦だったといってもいいだろう、
何よりも、月の影響は地球の環境であったり、人間の身体に対して、大いに影響のあるものであろう。
「地球の環境」
つまりは、自然現象として、海における、
「潮の満ち引き」
というのは、月の引力に関係しているということだ。
さらに、身体という意味では、女性特有ではあるが、
「月経」
というものの周期が、女性の身体のメカニズムを形成していて、
「子供を産む」
ということに大いに関係していることで、
「排卵日」
などというのも、同じように、関係の深いことなのであろう。
ただ、どうしても、月というと、普段の生活をしていない時間帯。つまり、夜の世界の主人公である。どうしても、昼の世界の、太陽に敵うわけもなく、太陽というものが、季節に与える影響であったり、一日の人間のリズムに影響することで、
「太陽暦」
というものが採用されたのも分かるというものである、
昔から、月というものには、
「神秘的なもの」
という印象が強く、
「日本最古の物語」
と言われる、
「竹取物語」
というのも、設定としては、
「月の使者」
という雰囲気が多かったりする。
考えてみれば、世界の話にしても、日本国内にある話にしても、
「主人公が、地球外生物」
という発想は、それほどあるわけではない。
「浦島太郎」
のお話としては、主人公ではないが、ヒロインといってもいい、竜宮城の乙姫様というのが、
「海の中の世界」
である、竜宮城の姫という設定で、浦島太郎が、
「竜宮城から、自分の世界に戻ってくると、すでに知っている人は誰もいなくなっていて、景色もまったく一変している」
というのだ。
だから、相対性理論という考え方から、
「竜宮城というのは、宇宙空間にあったのではないか?」
ともいえる。
「海の底では、水の中なので、宇宙空間と同じで、空気のない世界だ」
と考えれば、宇宙空間とも言えなくもない。
ただし、
「竜宮城を、宇宙空間だ」
という発想で考えれば、辻褄が合わないところがあるというものだ。
「今の人間だから、宇宙空間が、海と同じように空気がない」
という発想が生まれたのだろうか?
空気がないという発想があるから、海の中を宇宙空間に見立てて、相対性理論に結び付けたとすれば、100歩譲って、ありえなくもないだろう。
何しろ。竹取物語が書かれたのが、
「平安時代初期だ」
というではないか、今から。1200年以上も前の発想であり、
「地動説」
というものが、言われた時代を考え、
「まだ500年くらい前だった」
と思えば、竹取物語のように、
「かぐや姫が、月からやってきた姫だった」
などという発想は、すごいものだといえるのではないだろうか?
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