33 いささか深刻な事態

 黒川くろかわが4組に戻ってきたのは、ほとんどホームルームの直前だった。担任の余村よむら先生が「席につけよー」と声をかけ、生徒たちがとりあえず作業の手を置いて着席し始めたさなかだった。いつもと同じ表情ながら、なにやらふさぎこんでいるように、麗人れいとには感じられた。


 一方、このホームルームで余村先生は、別の衝撃を呼び込んだ。

「今日、2年1組で、生徒の財布がいくつか、行方がわからなくなった」

 えっ、と誰かが息をのんだ。わやわやとした祭りの余韻が、急速に冷え込んだ。


「全員、自分の所持品を調べろ。身に覚えがなくても、ほかの誰かが勘違いとか悪ふざけで、ひとの荷物に突っ込んでいるかもしれん。いたずらなら、そろそろ返してやれ」

 生徒たちはごそごそし始めた。少し間をおいて、隣のクラスからも似たような音が聞こえてきたので、同じ話になったのだろう。


 結局、何ひとつ解決しないという結果が出ただけだった。そればかりか、御厨みくりやという男子が財布を、沢木さわきという女子がスマホを、それぞれなくしていることがわかった。御厨は財布を、ちょっとの間という認識でロッカーに放り込んでおいたのが、いつの間にかなくなっていたということらしい。沢木の方は、午前中に「シャングリラの客が増えたから応援お願い」とのやりとりを友人と電話で交わしたのを最後に、どうしたか覚えていない。なぜ身につけるか職員室に預けるかしなかったかと余村に説教され、ふたりともうなだれていたが、今の段階でどうしようもない。


「ふたりとも、放課後少し残れ。落とし物なら、時間差で職員室に届いているかもしれん」

 余村はそうは言ったが、内心では望み薄だと感じていた。学祭に失せ物はつきものである。現に、このホームルーム直前に、職員室で落とし物の申し送りがあり、財布やスマホといった定番の落とし物もいくつかあった。しかし、このふたりのなくし物とはどうやら特徴が合致しそうにない。そして、なくし物が結局出て来なかったという事態も、ままあるのだ、残念なことに。

 せめて、貴重品の管理くらいは、高校生なのだから各自で考えてほしいところである。

 生徒たちの間には疑心暗鬼が深まるばかりだった。しかも今日は外部の人も校内をうろついていたのだ。


「ドロボーでしょ、ドロボー」

 ついに、その言葉を発した者があらわれた。生徒たちの不快そうなまなざしを集めて、渡辺わたなべ統吾とうごだけがひとりにやついていた。

「犯人コイツっしょ~、コイツ」

 その上、軽いというより薄い口調で、彼は無造作に、木坂きさか麗人を指さした。


 生徒たちがざわついた。おい、と誰かがたしなめるような声を上げたが、弾劾というにはふざけすぎる弁舌は止まらない。


「自称マジシャンだもん、人サマの財布とかスマホとか、盗んで隠すのなんか、お手のモンでしょ~。見つかったって、理事長のジーサンにもみ消してもら……」


 渡辺の薄っぺらな口上は、途中でぶった切られた。襟を引っぱったのは、麗人ではなかった。ぐえっ、と喉からしぼられた声は、高校で堂々とサングラスをかける男の苛烈なまなざしに遮られた。


「表へ出ろ」


 黒川のバリトンは大きくも荒くもなかったが、その分だけ鋭かった。サングラスを、怒気にあふれた眼光が貫通して、渡辺を射すくめる。ひッ、と息を吸い込む奇妙な音が高く響いた。昨日痛めつけられた左肩が、急にうずきだした。昨日のあれが黒川にとって本気でも全力でもないことを、渡辺は腹の奥底から理解した。中途半端な笑みの残りかすが、処分しきれずに貼りつく。


 余村はひとつまばたきすると、重心のすわった声を発した。

「渡辺、根拠もなく人を犯罪者呼ばわりするものじゃない。黒川も放せ」

はるかちゃ~ん、放してやりなよ。そいつなぁんにも知らないんだから」


 麗人が苦笑まじりにひらひらと片手を振る。黒川は、教師よりも麗人の言葉で、渡辺を放した。まるでゴミを捨てるように。渡辺はまだ薄ら笑っていたが、黒川への恐怖でひきつっていた、という方が近い。きまり悪く、目線をさまよわせた。

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