72 乾杯

 校舎の1階に、小部屋がある。引き戸の中には、6人くらいがかけられるテーブルと椅子、そして壁際に自動販売機が複数台並んでいる。扱われている品物はさまざまだが、缶やペットボトルの飲料が入っているものが一番多い。自動販売機の照明は強く、薄手のカーテンを貫いて、中庭にもはみ出している。つまり小部屋といってもそれだけの広さがあるというわけだが、教室にくらべれば小部屋だろう。


 ホッケーマスクをひっかけた黒川くろかわは、この部屋を占領していた。明かりはつけていないけれども、自販機が光を放っているのでまったく困らない。

 缶コーヒーをちびちび傾けながら、黒川はぼーっとたたずんでいた。余韻に浸っているという言い方もできなくはない。しかし散文的に言えば、少々疲れてぼーっとしていたのである。学校でなければ、酒が欲しい気分になっているかもしれない。未成年者だというのに。


「あー、いたいた」

 引き戸が開けられて、えらく明るい声が飛び込んできた。椅子に座ったまま手抜き殺人鬼が振り返ると、陽気な吸血鬼が、次いで「やれやれ」とつぶやきながら狼男が、そしてくたびれ加減の落武者が、入ってくる。その流れの中で、誰かがスイッチを入れたのか、ぱっと天井の照明がともる。

「ヒタっちゃってぇ。どーこ行ったかと思ったよ。ああいうトコロからは上手に消えるんだから」

「なんだ、女と踊ってたんじゃなかったのか」

「踊ってたけどさぁ、コッチもやっとかないと、と思って」

 麗人れいとが、くいっ、と杯を傾ける動作をしたので、黒川はにやっと笑って立ち上がった。さっそく麗人は、マントの内側からプラスチックのグラスを4つ取り出してテーブルに置く。


「で? ホントのところは、何考えながらぼんやりしてたの」

「ああ? 焼肉定食にはありつけなさそうだなと思ってな」

「焼肉定食?」

「うちのチームリーダーとの契約でな。おごるから、アイアンレースと対抗リレーとかけもちしてくれとさ」

「そんな契約アリなのか?」

「う、うらやましい……!」

 狼男と落武者が目をぱちくりする横で、吸血鬼は声を出さず、静かに笑った。

「対抗リレー出られなかったからな。パァだ、畜生め」

「なるほどね」


 けッ、とつぶやく殺人鬼のそばで、吸血鬼は続いて、かわいらしいキャラクターのパッケージを取り出した。

「とりあえず、ドンペリ、いっときましょ」

「おいおい、ずいぶん粋なドンペリじゃねえか」

「ガッコの中だし、他校生もいるからね。今日くらいは品行方正に、ね」

 ぽん、と開栓して、ピンク色のシャンメリーが、グラスに注がれる。


「えー、それでは――」

 それぞれグラスを手にした中心で、麗人は軽くせきばらいした。

「――明洋めいよう高校、今年の学祭のフィナーレ、そしてエビらんの無事を祝って――」

「あと、岬井みさきいと、それと体育祭の穴を最小限でとどめて、学祭を守ったお前もな」

 黒川が軽くグラスを振った。


 ――確かに。前半はともかく、後半は一馬かずまも認めざるを得なかった。麗人自身はかなり迷っていたようだが、結局彼は、自分たちだけが出場を放棄しただけで、体育祭を台無しにする事態を避け、江平えびらの救出に成功したのである。きわどい判断で、また相手が拳銃を持っていたという危険もあったのだが……。


 ――コイツも、迷うんだよな。悩むんだよな。

 つくづくと一馬は思い、小さく頭を振った。俺はいったい木坂きさか麗人を何だと思ってるんだ、と。

 コイツはいつも飄々ひょうひょうとして、崩れることがあんまりなくて、大胆で繊細で……でも、俺と年齢は同じはずなんだ。中学で、同じクラスにいたことあったじゃないか。

 ――当たり前、だよな。

 少しだけ、ほんの少しだけ一馬はほっとした。眉と眉の間がほころぶのが、自分でわかった。


 麗人は誇った様子もなかった。

「結果論でしょ。あと、それを言うならここにいる全員と、クールビューティーなフク姫」

「ああ、フクな」

 宝石強盗犯に必殺の一撃を見舞った、かわいらしいMVPの姿が、全員の脳裏でころんと寝そべった。

「カズちゃんもね、ありがとー」

「……別にお前のためじゃねえよ。江平が心配だっただけだ」

 麗人から面と向かって言われることに戸惑い、一馬はぷいっと視線をそらした。

「そう、エビらんがね。あのSOSは秀逸だったね、蕎麦そばの食いすぎ」

「そうか? とっさにあれしか思い浮かばなくてな」

「それと、アレよね、例の…………官能書院文庫」

「笑うな! その話はもうよかろう! ……お前たちも笑うな!」

「いやいや、江平、あの奥の文庫は大事にしろよ、麗人が違和感に気付いたきっかけだからな」

「まったくだ、どんな趣味嗜好が命を守ってくれるか、わかったもんじゃないな」

 黒川と一馬も、無責任にげらげら笑う。

「まぁま、話はつきないけど、ここらで一回締めておきましょーや」

 江平をイジった張本人が、涼しい顔でまとめにかかる。


「……では追加して、我々4人、そしてフクの、華々しい戦果を祝して! はいオッパイ!」

「オッパーイ!」

 弦楽器のような、つややかなテナー。高音がかすれ気味のテナー。純度の高いバリトン。豊かに響くバス。仮装した4人の男子高校生のな唱和とともに、4つのグラスの中でピンクの「ドンペリ」が揺れた。

 珍しく、一馬がツッコまずに同調したのは、まだステージの高揚感が冷めていなかったからかもしれない。


 喉がかわいてたまらなかったので、いいタイミングだった。1杯目を飲み干し、ふと一馬は、奇妙な思いに意識をつつかれた。

 ……コイツらが後夜祭の盛り上げ役を買って出たのは、江平に、最後だけでも楽しい思い出を作らせてやるための、思いやりだったのだろうか。……まさか。男相手にそんな気を回すやつらじゃない。せいぜい、今回の事件で暴れ足りなかったから、くらいのことだろう……いや、それはそれでとんでもないことだが。

 それに、さっきの後夜祭で演奏した曲。最初の曲は、一馬の大好きなマイケル・ジャクソンだった。あれにしようと言い出したのは、麗人だ。まさか……そこも、気を遣った選曲、なんてことは……まさか、な。


 唱和した直後に赤面してしまった江平はようやく、甘すぎるシャンメリーをちびちびと喉に通す余裕ができて、小さく息をついた。――それにしても、ずいぶん無茶苦茶な学祭になってしまったものだが、まあ仕方がない。来年また新たに楽しめばよいのだ。来年を楽しみにできるというのが、どんなにありがたいことかを、江平は改めてかみしめていた。


 ――それに、あれほど感動する奇術は、そうそう味わうことはできまいな。



「ついでに写真も撮っちゃおうよ」

 2杯目を注ぎながら、吸血鬼が提案する。

「写真?」

 狼男がけげんそうな声を上げた。

「体育祭と後夜祭の間の時間で、みんな記念写真撮ってんのよ。文化祭で使ったもの、中途ハンパにしか片づけてなかったでしょ?」

「ああー……そういえば」

 今日の午前中、明洋高校の校舎内を走り回った光景を記憶から引っ張り出し、一馬はこくこくと首を縦向きに振った。

「あれはそーゆーこと。ハジけて写真撮るためなのよ。でもオレら、後夜祭の練習で、それどころじゃなかったからね。もうここで、オレらだけで撮っちゃおう」

「あ、じゃあ、俺がカメラマンやるよ――」

 他校生という自覚のある一馬が、麗人の取り出したスマホに手を差し出そうとしたとき、その襟首を黒川がひっつかんで、無造作にぐいっと引き戻した。

「みんな、自分のスマホは自分で責任もって撮ってね。じゃ、まずオレから。――カズちゃんもっと寄って。エビらんちょっと縮んで。はるかちゃん、カッコつけすぎ」

「うるせえ」

「はい、いくよー」



 ――こうして順番に、何度も写真は撮影された。タキシードの決まった、陽気でにこやかなな吸血鬼。ちょっと斜に構えた、ホッケーマスクだけの手抜き仮装の殺人鬼。遠慮をひとまず棚上げしつつも、少し照れたような狼男。珍しくはっきりと相好を崩した、巨体の落武者。かっこつけたりはしゃいだりふざけたりした写真データを、一馬はスマホに大切に保存した。後年、スマホを買い替えることになっても、このときのデータは移し替えて、手元のスマホに保存し続けた。憎たらしくて面倒なやつらと一緒になっている写真なのに、なぜか大切な思い出のような気がして、一馬は高校を卒業してからも、よくこの写真をながめていた。他校の学祭がこんなにも印象深かったのは、後にも先にもこの一度きりだった。

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