73 MVP

 かこ、かこ、と下駄が鳴る。作務衣さむえに下駄といういでたちで学校へ行ってしまった江平えびらは、ほとんど同じ恰好で家路についていた。後夜祭の後とあって、当然帰り道は暗い。今日はもう、ほとんどの片付け作業は禁止され、生徒はなるべく早く帰るように、と通達されていた。もちろん女子が遅くなりすぎないためである。

 この服装は、江平が一番気に入っている姿である。ジャージよりも作務衣がよい。はかまも悪くはないが、やはり作務衣が気楽だ。下駄も、足が絞めつけられず、心地よい。多少空気が冷たくとも、裸足での触感が好きだ。この服装で体育祭に参加できればよいのだが。短距離走のタイムを1秒くらい縮められそうな気がする。


 落武者の仮装一式は、学校のロッカーに置いてきた。学祭は終わったのでもう持ち帰ってもよいのだが、さすがに今日は疲れてしまった。後日でよいだろう。それでも早めに持ち帰らなければ、ロッカーの容積を圧迫するだろうけれども、今日はもう勘弁してほしい。かわりに、風呂敷ふろしき包みを片腕で抱えている。一馬かずまが使ったジャージが包んであるのだ。自分が(勝手に)拝借したのだから洗って返す、と言う一馬から、江平はジャージを取り上げた。


「お前は私を助けるために尽力してくれたのだ。これ以上の手間をかけさせることはできぬ」

「お前の方が大変だったじゃないか。それに、俺がお前のジャージを使ったって事実は変わらない」

「そーよ、使ったやつに洗わせときゃいーのよ」

「いや、これは絶対に譲れぬ。お前は私の恩人のひとりだ」

「所有者がそこまで言ってんだから、洗うのもまかせとけばぁ」

「どうでもいいが、その小難しい言い回しはなんとかならないか」

「そんなこと言ったってねぇ、これがエビらんの個性でもあるからねぇ。まあ、所有者がいいって言ってんだから、いいんじゃないのぉ」

「さっきからぐちゃぐちゃうるせえぞ木坂きさか麗人れいと!」

 話をひっかき回す約一名を殴り倒した一馬だったが、江平が頭上に差し上げた物を取り戻すのは、物理的に不可能である。こうして江平は、他人が使用した自分のジャージを持ち帰る運びとなったわけであった。江平本人は当たり前のことだと思っているが。


 そしてもうひとつ。江平は帰り道で、とある店に寄って、買い物をしてきた。一歩一歩踏み出すたび、下駄の音と呼応するように、片手にぶら下げた白い袋ががさ、がさ、と音を立てる。これはいわば、4人分の買い物であった。3人からはすでに金を受け取っている。


 ……ようやく、直角に折れた道を曲がる。今日はどうやら、祭りの用意で夜まで騒がしいということはなさそうで、辺りは静かに夜の中に横たわっていた。

 もう、異常はないはずだ。いつもと同じように行き帰りしていたが、ここ数日はこの周囲で異常事態が起こっていたのだ。――もう大丈夫のはずである。

 江平は駐車場に入った。もう一度取り換えた南京錠を開けて、離れ屋に入る。早く新しい鍵をつけてもらおう。荷物を下ろし、戸棚の奥から小さな皿を取り出すと、白いビニール袋だけを手に残して、再び外へ出た。ガレージの前で立ち止まると、袋をがさごそとさぐる。なーん、と小さく声が上がる。ガレージの後ろから、フクが顔を出して、てこてこと近づいて来た。江平は取り出した缶詰めの蓋を、ぱこ、と開ける。普段は江平家ではご飯をあげていないが、近所の家で出されて、缶詰めを開ける音とその意味を知っているのだろう。開けた瞬間から匂いも広がるのかもしれない。

 江平はしゃがみこむと、缶をひっくり返して、皿に中身を乗せた。フクは行儀よく座って、待ち構えている。江平は右手をのばし、フクの頭をなでた。


「そなたに助けられたな。ありがとう」

 なーん、とフクは小さく鳴いた。江平はフクから右手を離し、左手の皿を下ろした。

「4人分の礼だ。あの3人からも、そなたによろしくとのことだ」


 フクは遠慮なく、もぐもぐやり始めた。守銭奴の江平が、金額に糸目をつけず、店で売っている最高級の猫缶を買って帰ったものである。ご近所でもここまでの高級品は、そうそう食べさせていないだろう。もぐもぐする様子を江平は数秒間眺めていたが、やがてそっと立ち上がった。


「邪魔はせぬ。ゆっくりしていってくれ」

 フクは咀嚼そしゃくに忙しく、返事はなかった。江平は満足げに、かこかこと下駄を鳴らしながら、自身の離れ屋へ戻って行った。いつも通り、母屋おもやで風呂に入る用意をするために。たまにはこうした金の使い方も悪くはないものだと、殊勝なことを心中につぶやきながら。


 今日のMVPは、もう江平を振り向くこともせず、報酬に夢中になっていた。

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