61 思わぬフク兵

 ……バイクのエンジン音が遠くから近づき、ややおさまり、調子を変えた。速度を落として駐車場に入ってきたのだろう。エンジンが止まった。おそらくガレージの向こうがわだ。男は、江平に油断なくナイフを向けたままでいた。かすかな物音がいくつか続き、やがてアスファルトと砂粒と靴底がこすれる音が繰り返され、調子の外れた古いチャイムが鳴った。男はあごをしゃくって、無言で命じた。


「はい」

 江平は返答した。声がひび割れ気味だったのは演技ではない。疲労と緊張と極限状態とで喉がからからに乾いていたのだ。悪臭もきつい。半日ほどもこの男と一緒にいるのだが、どうしてかこの臭いには慣れない。


「エビらーん、アレ、持ってきたよ。具合どお?」


 能天気としか聞こえない、江平にとっては慣れた声が、ドアの向こうから届く。男も、今朝江平が電話をかけた相手と同じ口調であることを、悟ったはずだ。バイクに乗っていたのは黒川くろかわだろうに、どうやってここまで来たのだろうか。


「うむ、まだどうも、起き上がれぬ。すまぬが、ドアノブにでも引っかけておいてくれ。頼んだ立場でありながら、すまぬな」

「はいはーい。……あ、そーそー、ここに来る途中でご近所さんに、お寺への届け物頼まれちゃってさあ。ちょっとお寺に寄ってから帰るね。帰りは声かけないから、お大事にー」

「うむ、ありがとう」


 こと、とドアに軽く何かがぶつかる気配がした。ほどなく、若い男と思われるシルエットが、障子の窓とガレージの間を通り抜けて行った。男は素早く、江平の口を縛りあげた。すぐに立ち上がると、道路と寺に面したがわの障子をわずかに開け、窓から外をそっとのぞいた。学校指定のものらしい体操服を着た、がひとり、細い道を渡って滴中てきちゅう寺の門をくぐっていく後ろ姿を確かめる。


 男は障子を閉めると、江平にちらと一瞥いちべつをくれて、音を出さないよう大またに歩き、玄関ドアに近づいた。すぐそばの学習机にナイフを置くと、右手でドアノブを回して少しばかり押し開け、隙間から左手を突き出して、外側のドアノブをさぐる。


 突然だった。男の左手を、外にいる誰かがつかんだのだ。引っ張られる。男は声を上げて踏ん張った。押して開けるドア、右手でドアノブをつかんでしまっているので、うまく踏みとどまれない。しかも外の人物は、こちらが力をこめて抵抗しづらい方角へたくみに左手を誘導しようとする。さらにもうひとり分、別の手が加勢に入ってきた。さすがに抗しきれない。男は踏ん張りつつ、右手を一瞬ドアノブから離し、ブルゾンの内側に入れて、ナイフではないものを探ろうとした。


 するん、と小さな影が、わずかなドアの隙間から足もとに入り込んできたことに、男は気づかなかった。身軽に腿に乗ってきたことにはじめて男は注意を引っ張られたが、さらに跳躍した影が前足を振り上げ、男の頬を引っ掻いていた。


「うわッ」


 反射的に男は、右手で顔をかばって影をはらいのけようとした。その隙が見過ごされることはなかった。外からの力でドアが大きく引き開けられ、左手首を引っぱり続ける力によって、男は一瞬で玄関から引きずり出されていた。誰かが見事なタイミングでドアの裏から足を出し、男はつまずいてつんのめっていた。視界いっぱいに地面が迫りくるわずかな時間に、男は気づいていた。――ドアの


 男の顔を攻撃した小さな影は、反撃を身軽にかわした後、すとんと着地した。猫のフクだった。


 男の左手首を引っ張っていたのは、スーツ姿の屈強なふたりの男だった。20代と30代。スーツの男たちが全員滴中寺に入ったと見せかけ、ふたりだけガレージの後ろに隠れて、その場にとどまっていたのだ。

 そして、ドアを開いて男の脚を払ったのは、もっと若い男だった。高校生くらい、学校指定のジャージを着て、柔らかな印象の顔立ちに、いたずら好きな活気が躍る瞳――男がその声を聞いた相手、木坂きさか麗人れいとだ。脚を払うという動作にはまったくもって不要な、意味不明のポーズをしている。が、ぴんと跳ねた。


 ホイッスルが吹き鳴らされる音に、ようやく気付いた。スーツの男のひとりが吹いているのだ。

 崩れ落ちる男の視界の端に、ジャージを着た2人目の男――岬井みさきい一馬かずまが、寺に入っていたスーツ姿の男たちを引き連れて、門からこちらへ駆けつけてくるのが映った。


 男はとっさに両膝と右手を地面についた。そうすることで、うつ伏せに倒れ伏すことを防いだのだ。再度、右手をふところに入れようとする。

 不意に麗人は、深くしゃがんだ。その頭上を躍り越えて、さらに3人目のジャージ男が――体育ジャージにサングラスという無茶苦茶な服装の高校生が、男の背中に跳び蹴りをくらわせた。黒川はるかである。蹴とばされた男はぶざまに倒れた。その左腕を握っていたふたりのスーツの男たちさえ、よろめく勢いだったものの、腕を放さなかったのはさすがといおうか。

 決まった、バイク乗りキック――などと、緊張感の欠乏した感想を、特撮番組好きの一馬は、さすがに内心でとどめた。体操着姿というのは締まらない気もするが、なりゆき上しかたない。


 さらに、黒川が男の背中を、麗人が右手を、容赦なく踏みつけた。ぐえっ、と男がうめく。手を踏むのは麗人の流儀ではないが、非常事態だ。この男が拳銃を持っている仮定で動いている。利き手を自由にしておくのは危険だった。流儀でなくとも、その程度の柔軟性はある麗人である。そのうえ、友人の江平が「たいへんに世話になった」相手なのだから、情をかける理由はない。


 スーツの男たちも態勢を立て直し、左腕をめたので、取り押さえられた男はとうとう完全に自由を失った。

「警察だ、観念しろ!」

 スーツの男のひとりが、最後通牒をたたきつけ、勝敗は決した。



 駆けつけたスーツの私服警察官たちが、男を取り囲んだ。彼らと一緒に戻って来た一馬は、離れ屋の中に飛び込むと、奥の和ダンスの前に座りこんだままぐったりしている友人を発見する。


「江平! 無事か」

 作務衣さむえの大男が、疲れ果てた頭を、どうにか起こす。一馬は走り寄り、口をふさぐ布をほどいてやった。

「岬井! お前も来てくれたのか。……大事ない、無事だ。だが身動きがとれなくてな」

 話す間にも、一馬は江平の後ろ手を覗きこんで、ロープをほどこうとする。


「お前、顎が……」

「かすっただけだ、大事ない」

「……だめだ、切っていいか」

「無論だ。机の引き出しの1段目に、カッターナイフが入っている。……上に置いてあるのはあの男のものだ、うかつに触れぬがよいぞ」

「うえっ」

 引き出しを開けながら、男の残したナイフを見て、一馬はうめいた。こんなナイフで脅されたら、心身ともぐったりするのは当然だろう。いや、江平のケガはこれでやられたんじゃないのか。万が一激高した犯人がこのナイフで……考えるのはやめよう。工作用のカッターナイフを取り出し、どうにかロープを切断する。大男の江平がよろめきながら起き上がるのに肩を貸して、玄関から連れ出した。


「あーら、無事でなにより」

 麗人がひらひらと片手を振って合図した。この場で固有名詞を出さないのは、男に聞かれないための配慮である。その間に私服警察官たちは、男の顔と左腕を確認していた。タトゥーが入っているらしいが、どんな図柄なのかは、警察官たちの頭に遮断されて、黒川以外にはほとんど見えなかった。

「間違いないな。奥菜おきな康弘やすひろ、イイジマ宝飾店強盗事件の犯人グループ、最後のひとりだ」


「宝石強盗……」

 そうか、と江平は思い当たった。あの夜、自分自身が警察の検問を受けたではないか。左腕に特徴がある男を捜しているのだと。


 それにしても。江平は呆然と、麗人を眺めた。自称マジシャンの卵は驚いた様子もなく、男――宝石強盗犯の手を踏みにじりながら、してやったり、という笑みを浮かべている。……江平がSOSを秘めた1本の電話から、コイツはいったいどうやって、ここまであぶり出せたのだろうか。

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