43 江平、監禁(承前)

「ええ? 返してもらったんじゃねえのか」

 作務衣さむえの襟もとを乱暴に引っ張られた。


「か……返されて、おらぬ」

 部分的に締められる状態になり、江平えびらの声は苦しげなものになった。男の臭いのせいもある。


「小道具係に、あれは何だと聞かれなかったのか?」

「聞かれなかった!」

「ちッ」


 男は舌打ちして、江平の襟を放すと同時に突き飛ばした。江平の背中と後頭部が和ダンスにぶつかった。引き出しの取っ手が縦に並ぶ配置なので、凹凸おうとつが鋭い。

「うぐっ」

「その小道具係がネコババしたんじゃねえだろうな」


 江平の胸中を、冷たい光が走った。……もしこの男が、小道具係の野島のじまと接触したら……。


「その、カプセルとは、何が入っているのだ」

「お前の知ったことか!」

 男は苛立たしげに右手を振った。とっさに江平は顔を引いたが、左あごに小さく鋭い痛みが走った。ナイフの先がかすめてしまったらしい。おそらく男は、伏せようとしていたカプセルの存在を、自分でうっかり口走ってしまったことに腹を立てたのだろう。はっきりといらついていた。


 江平は男の顔を改めて見上げた。自分のこめかみあたりに、おかしな汗が浮かんでいる感触がある。男には、江平の表情は恐怖と苦痛によるものとしか思えなかった。しかし実際に江平の胸中を占めていたのは、疑念と悪臭の割合がはるかに大きかった。


 奇妙な話である。遺失物があるなら、なぜこの男は交番に相談しないのか。今、学校にあると話したのだから、学校に直接連絡するというやり方もあるではないか。なぜこいつは、こんなやり方をする? 高校生を威嚇いかくし、人の部屋に土足で踏み込んで……土足で……。


 ――昨日うちに入った泥棒は、この男ではないのか?


 そもそもなぜ、住宅地の奥も奥へのこのこやって来て、落し物などしたのか?

 警察に相談しないのは、……うしろ暗いところがあるからではないだろうか?

 どう考えてもうしろ暗いだろう。ナイフばかりか拳銃を持っているのだから。見分けられないが、もし拳銃が本物だとしたら……。


「こいつはお前のケイタイか」

 ナイフをしまい、男は旧式の二つ折り携帯電話を目の前に突き出してきた。

「そうだ」

「若いくせに、えらく古いもの使ってやがるな」

 初めて男が、歪んだ笑みを浮かべた。余計な世話だと言い返したかったが、我慢した。どうやらこの男はあまり刺激しない方がよさそうだ。――木坂きさか麗人れいとなら、減らず口を連発して、相手の隙を誘いそうだが。自分にはあの男のような芸当はできない。ガラでもないことは無理にしない方がよいだろう。


 あの男なら――。


「電話しろ、小道具係に、今すぐ」

 男は思い直した。どのみちカプセルの存在を伏せたまま、ことを進めるのは不可能だと。


 ……江平は懸命に頭を働かせた。この男は危険だ。うかつに同級生に接触させるわけにはいかない。

「小道具係は複数いる。誰に渡したか忘れてしまった。彼らの携帯番号も登録しておらぬ。そう頻繁に連絡をとる間柄でもない」

 とっさに嘘をつく。


「嘘をつけ!」

「ここで私が嘘をつく利点がどこにある」

 あるのだが、さらけ出すわけにはいかない。口上を考えるのが精一杯で、表情を作る余裕はなかったのだが、演技がなくとも結果的に問題はなかった。ここまでの状況で、江平は困惑も狼狽もしていたし、抗弁する声はかすれて弱々しく響いた。こしらえ話は苦手だが、どうやらそうも言っていられなくなってきたらしい。拳銃を持ち、ナイフを握って激昂する相手に、ここは一世一代の大芝居をうつしかないのだ。せめて突破口が見えるまでは。神も仏も、大目に見てはくれないだろうか。

 それになにより、この男は臭い。すえた匂いが鼻腔に突き刺さり、目にしみる。これは演技でも嘘でもない。


「よし、じゃあ、誰でもいい、学校のオトモダチに連絡しろ。そいつに、カプセルを捜してここまで持ってくるように言え、今日中にだ。今日は体育祭らしいな。それと、てめえは今日は学校を欠席する、とな。余計なことは一切しゃべるな」

「私も出場するのだが」

「知ったことか。日が暮れるまでに持ってこなかったら、お前の命も日没だ」

 気の利いた冗談でも言ったつもりだったのだろうか。男はまたしても歪んだ笑いをにじませたが、江平の反応が思ったものではなかったのか、おもしろくなさそうに笑みを消した。


「……欠席の理由を聞かれたら?」

「そのくらい自分でごまかせ。他人にむやみにしゃべって回らないよう、釘を刺しておけよ。警察なんて論外だぞ」

「……………わかった。だが、この手では携帯電話が操作できぬ」

「そのくらいはやってやるよ。いいか、余計なことを言ったらすぐ、お前の喉を切ってやるからな。……くそ、旧式にもほどがあるぜ。……ほれ、誰にかけるんだ」


 男が「前時代の文明の利器」と格闘している間にも、江平の思考は大忙しだった。どうする。どう話せばいい。窮地きゅうちを伝えることはできないだろうか。


 ――あいつなら、何か気づいてくれはしないか?


「……画面を見せてくれ」

 男はじろりと江平を見たが、無言のまま携帯電話の画面を江平に向けた。スマホとは異なる操作に辟易しているらしい。

「ひとつ下にカーソルを合わせて、そこで決定ボタンだ。……決定というのは、その中央の大きなボタン……」

「うるせえ、そのくらいわかる……ほれ、これは電話帳のリストだな?」

「……その、もっと下の方……止めてくれ。ひとつ上だ。……そいつだ。決定ボタンを押せば電話がかけられる」

「…………木坂、か。いいか、くれぐれも、余計なことを言うんじゃねえぞ。スピーカー切り替えはどうすればできるんだ」


 プルルルル、と鳴る携帯電話が口元に近づけられた。そして、男のナイフも江平の喉のそばに、すっと寄って来る。

『あーら、エビらん、おっはよー』

 明るくのんきな声が、スピーカーからこぼれ出る。

 学校を休むと言えば、どうして、と聞いてくるだろう。


 ――頼む、何かおかしいと気づいてくれ、木坂!


 一縷いちるの望みをかけて、江平はある嘘を、麗人に伝えた。麗人が聞けば、なんでそんな嘘をつくんだろう、と疑問に思うような嘘を。そしてこの、目の前の男には絶対にわからない嘘を。その後、男の要求通り、カプセルを捜すよう依頼する。あたりさわりのない由来を付け加えて。本当は、この男が耳をそばだてているところで野島の名前も出したくはなかったが、どうにも仕方がない。麗人に、カプセル捜索の糸口をまったく出さないわけにはいかないのだ。


 ……携帯電話のスピーカーから、ひび割れかけた声が返ってきた。


『なるべく急いで行くからね。気をつけて、


 ――わかってくれた、だろうか。


 江平は答えた。渾身の願いをこめて。

「……うむ、頼むぞ」


 気づいてくれ。ここで何かが起こっていると。


 指の動きによって、回線は切断された。

「覚えてんじゃねえか。小道具係の名前」

「たった今、思い出したのだ」

「ちっ」

 男は携帯電話をたたむと、乱暴にも、床へ放り捨てた。がつん、と嫌な音がした。江平は、抗議の声を歯ぎしりでかみ殺した。


 ――人の所有物を乱雑に扱うとは。今に神罰も仏罰も下ろうぞ。


 しかし、今はまだ、どちらも下される時期ではないようだ。

 男は、ハンカチか何かを取り出し、江平の口にかませるようにして、後頭部で縛った。声を出させないためだ。江平は憤激を鼻からの呼気でまぎらわせた。この男に罰が下されるまでは、生きていたかった。生き延びなくてはならなかった。

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