42 江平、監禁

 ……時刻は少しさかのぼる。



 蕪屋かぶらや神社と滴中てきちゅう寺の共用となる駐車場。切り立つ山肌のそばに建つ、離れ屋の照明は消えていた。すでに照明の必要がないほど明るく日が差しているし、そもそもこの部屋のあるじはもう出かけていてもおかしくないタイミングでもある。


 しかし……。


 現在、江平えびら弓弦ゆづるは、部屋の一番奥にある、腰の高さの和ダンスの前に、不本意そうに座りこんでいた。彼の両手首は、ロープによって背後でまとめて縛られ、さらに和ダンスの引き出しにあるリング状の取っ手のひとつにくくりつけられていた。力を入れにくく腕が痛くなる、微妙な高さの引き出しが選ばれている。


 物理的には、引き出しを引っこ抜けば、身動きができる。しかし和ダンスの引き出しは、左右両側の取っ手を同時に引いて開けるのが前提なので、この体勢で片方の取っ手だけを用いて引き出しを引くのは困難だ。仮に引き出しごと和ダンスから離れることができたところで、後ろ手に縛られたまま、重い引き出しを引きずって動かなくてはならない。……この男の目を盗むことなど、できるはずがなかった。


 そう、ここにはもうひとり、招かれざる客がいた。作業着のようなブルゾンのような衣服は汚れていて、元は何色だったのかよくわからない。顔も髪もひげも不潔そうで、しばらく風呂に入っていないと思われる異臭を放っている。体つきも、本来は引き締まっていたように見えるが、げっそりとしたやつれ方の方が強烈な印象を与える。眼光だけが、不釣り合いに鋭い。30代くらいだと思われるものの、あまりはっきりわからない。江平は、家業の都合もあって近所の人たちの顔も名前もだいたい覚えているが、どう考えても見覚えのない男だった。


 江平は完全に虚を突かれたのだ。離れ屋を後にして、朝の掃除や朝食などをすませている間に、この男は離れ屋の鍵を開けた。戻って来た江平は、またしても泥棒に入られたのかと驚き、そっと中の様子をうかがったのだが、その反応を予想していた男は、離れ屋の中ではなく外に潜んでいて、彼を背後から襲ったのだ。おそらくガレージか植え込みの影に隠れていたのだろう、江平の注意が屋内に向けられた隙に、後ろから突き飛ばした。とっさの判断で江平は受け身をとったが、起き上がったところへ拳銃を突き付けられ、抵抗の意欲を削ぎ落されてしまった。こうして男はあっという間に江平を監禁してしまったのである。その後、開けたままの南京錠をドアの外の金具に引っかけるという、小細工も怠らなかった。通りすがりにぱっと見た程度になら、ちゃんと鍵がかかっているように見え、気にも留められることはないだろう。


 自分がなぜ、こんな事態に巻き込まれたのか。それがまだわからない。

 鼻先に突きつけられていた拳銃は一旦取り下げてくれたが、かわりに禍々しく光るナイフを手にしている。そしてかなりいらついているらしく、ちゃぶ台を押しのけたり、落ち着きなく歩き回ったり、好き放題に当たっている。もちろん土足でだ。


「そらっとぼけてんじゃねえ」

 荒れた低い声で、男はすごむ。

「どこへやったんだ、あの風呂敷ふろしき包みを」


「だから、何のことなのだ」

 江平は正直に答えた。声に張りがないのは、言いがかりへの困惑、そして男の悪臭によるものだ。もちろん、取り下げられたとはいえ、この男が拳銃を持っているという事実は、脳裏に深く焼き付いてしまっている。


「そなたの荷物を、私がなぜ知っているというのか」

「なんだと」

 押し殺したボリュームで、男はプレッシャーをかけてきた。さすがに騒いではまずいとは思ったらしい。


 江平の選択肢は「困惑」しかなかった。道理がまったくわからないし、自分が悪いことをしたとは思えないのだ。これはどういうことだ。なぜ自分がこんな目に遭わなくてはならないのか。ナイフや拳銃で脅されてまで。


 そもそも、こんなとんでもないものを持ち歩くこの男は、何者なのか。


「その風呂敷包みとやらを、私の部屋のどこに置いたのだ。いつこの部屋に入ったのだ」

「うるせえ。用もなくこんな部屋に入るか。この家の庭のどこかにあったはずだ、それで十分だろう。黄色の風呂敷だよ」


「…………あっ」

 小さな声が江平の喉からもれた。


「思い出したか」

「あれは……」


 違和感の正体に、江平はようやく思い当たった。帰宅途中、警察の検問を受けたあの夜だ。離れ屋の玄関先、ガレージのそばに、丸い風呂敷包みが落ちていたのである。江平はあれを、木魚が包んであるものと思い込んでいた。両親に「文化祭で使うので、なくなっても惜しくない木魚を貸してほしい」と頼んでいたため、なんの疑いも持たなかった。おそらく母親が、風呂敷に包んで離れ屋のドアノブに引っかけてくれたのが、落ちて転がっていたのだろうと。大きさも木魚として違和感がなかった。自分はそれを、拾って……そう、木魚と思ったのなら、あそこに入れたはずだ、机の横に置いていた紙バッグに。


 あれは木魚ではなかったのか。


 だが……文化祭で木魚は、間違いなく使っていたはずである。風呂敷をほどいて、木魚でないものが入っていれば、その時点ではっきりわかるはずなのに。


「そうか!」


 自分は母から木魚を受け取ったのだ。あの風呂敷包みを拾った翌朝に。朝食の席で、「はい木魚」と渡されたではないか。藤色の風呂敷包みを。……ほぼ同じ大きさだった。木魚を受け取って、離れ屋に戻って紙バッグに入れて、……ふと、何か妙だと思ったのだ。あの後なんやかんやあって忘れてしまっていたが。


 木魚と思われる風呂敷包みを、ふたつとも、学校に持って行ったのだ。


「学校だ。学校にある。学祭の芝居の小道具で使う木魚だと思い込んで、持って行って、小道具係に渡した」

 江平は答えた。こんなことを隠し立てしても仕方がないし、辻褄つじつまの合うこしらえ話などとっさに作れない。


「学校のどこにある? 今もそこなのか」

「どこかは…………わからぬ。私の手元には戻ってきてはおらぬ」

「おい、つくならもっとマシな嘘つこうな?」

 男は再びナイフを握った。切っ先を江平の喉に向ける。むわっとする異臭も近づいてきて、江平は顔をしかめた。


「おかしいじゃねえか。お前の言うとおりなら、道具を入れた紙バッグの中に、風呂敷包みがふたつあったことになるよなあ? お前、小道具係に渡すときに気づかなかったのか」

「紙バッグごと渡したので、気づかなんだ」

 憮然として江平は応じた。己の間抜けさ加減を噛みしめながら。

「じゃあ小道具係が気づくはずじゃねえか。少なくとも、風呂敷包みを両方開ければ、片方は木魚だがもう片方のカプセルは、これは何だということになるだろう。学祭に関係ないものなら、お前に返されるはずじゃねえか」


 ――カプセル?


 江平は眉を動かさないようにするのに苦労した。

 カプセルとは何だ。木魚と大差ないほどの大きさのカプセルとは?

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