39 暗転

 麗人れいと黒川くろかわ一馬かずまの3人が江平えびらの離れ屋を辞去したのは、夜中の1時頃だっただろう。体育祭の前夜に夜更かしをしてしまったが、まあ仕方がない。これからこっそり寮に忍び込んで、4時間程度は眠れるはずだった。


「明日は体育祭だし、多少は眠っておかないとねぇ」

「もう今日だぞ木坂きさか麗人」

「いちいち細かいなぁ」


 どうせ睡眠をとるなら、お互い気兼ねなく眠った方がよい。江平も一休みしたい頃合いだった。夜遅くまで邪魔した埋め合わせにと、余ったおやつなどは江平の元に残していくことになった。


「おれをさかなに好き放題言いやがって」

 言葉ほど怒った様子も見せず、黒川はやれやれと頭を振って、ガムを一粒口に放り込んだ。

はるかちゃんって、情熱を胸に秘めるタイプだもんね」

 くすくすと笑って麗人が看破する。ふん、と黒川は肩をすくめた。

「お前は逆だな。思っていることをナンパな言動に隠すタイプだ」

「あはは。それって逆かなあ?」

 他人事のように麗人は笑ったが、肯定も否定もしなかった。


「おい江平、明日、下駄履いて来んじゃねーぞ。下駄履いたお前には誰も勝てん」

 黒川が妙な釘を刺してきた。

「はは、そうか」

「だから、そこ、もう明日じゃなくて今日だってのに」

「しつけえなあ、ソイツ酒でも飲んだのか、カラミ酒か」

「ほらほらカズちゃん、酔ってたら自転車乗れないよ?」

「俺はシラフだ!」

「はいはい、酔っぱらいはみんなそー言うのよ」

「俺がいつ飲んだってんだ!」

「夜中よカズちゃん、近所迷惑よ、わめかないの」

「……………………!」


 わやわやしつつ、黒川のバイクの後ろに麗人が乗り、一馬は自転車で、帰って行った。もちろん一馬が酔っ払って云々というのはおちょくっての発言なので、いろいろな意味で支障は発生しない。強いて言うなら一馬の心の安寧あんねいの問題ということになるか。


 彼らの姿が闇の彼方へ消え去ってしまうと、さすがに江平もあくびをして、離れ屋へ戻った。内鍵がわりの南京錠を確認し、もう遅くて入浴は億劫おっくうになってしまったのでシャワーですませ、寝間着に着替えて布団を敷く。体は眠いのに、騒いで興奮状態のままの意識ははっきりと覚醒したままだ。だとしても、なんとか休息をとらないことには、体育祭には悪影響が出まくるだろう。たとえ体力の有り余る高校生だとしても、徹夜明けの体育祭はなかなかにきついものだから。

 とはいえ、彼らのおかげで、空き巣被害に遭ったというショックは、かなり紛れたといえそうだった。


     ◯


 それでも4時間ほどは眠れただろうか。江平はいつものように、5時半に起き上がった。もう習慣になっているのだ。いつもより眠く、体が重いが、昨夜の夜更かしを選んだのは自分自身だから仕方がない。朝の掃除をしているうちに体も目覚めるだろう。


 作務衣さむえに着替え、朝の身支度をすませると、下駄をひっかけて外へ出た。ひんやりと、明ける直前の冷気がまとわりついてくる。ドアを閉めて、旧式の南京錠をかけ、鍵のキーホルダーを作務衣の結び目に引っかけた。昨日、麗人たちが来る直前に両親から南京錠を借り、急ごしらえでドア内外に留め金をつけて、戸締りができるようにしたのだ。頼りないが、ないよりマシである。

 無心で掃除をしていると、ざわついていた気持ちがいでいくのがわかるから不思議なものだ。片づけを終えて、母屋おもやに入る。朝食をとりながら、くれぐれも戸締りに気を付けるよう、両親に念を押された。父によると、蕪屋かぶらや神社のお祭りが近いので、日曜日でもあることだし、打ち合わせのために氏子うじこや近所の人が出入りすることが増えるだろうとのことだ。体育祭のために登校する江平には、とりあえず関係ない。とはいえ、近所の人や氏子がこのあたりをうろつく用事ができるのなら、泥棒がいたとしても抑止力になってくれるのではないだろうか。朝食をすませると、弁当を受け取って、離れ屋に戻る。今日はゴミ出しがないので、少し楽だ。


 盗まれた通帳については、昨日のうちに銀行に連絡してある。クレジットカードはそもそも持っていない。小銭のことはいまいましいが、現在できることはない。どうも嫌なことが続いているが、ひとまず今日の体育祭ではしゃいで発散するとしよう。江平はかこかこと下駄を鳴らして道を渡った。離れのドアの鍵を取り出そうとして……異変に気付いた。


 南京錠が落ちている。


 開けられた錠前が、足元に転がっているのだ。


 ……あの短時間で、何者かが……。


 背すじを、冷たい何かがゆっくりと滑り落ちていく。


 まだ、中にいるのだろうか。それとも、もう立ち去ってしまったのだろうか。

 江平は、鼻でゆっくりとひとつ呼吸をすると、ドアノブに左手をかけた。ひんやりとした感触が全身を伝う。音を立てないよう、そっと回し、ゆっくりと引く。上体をわずかずつ傾けながら、室内をうかがう。


 なぜか、猫の小さな鳴き声が聞こえた気がした。なにやら緊張した様子に思えた。朝、フクがここにいるはずがないのに。


 だしぬけに、背後から後頭部を強く押された。まったく虚をつかれ、江平はあっさりと室内へ突き飛ばされた。つんのめり、どうにか受け身をとって、転がった体をようやく向け直すことができたのは、ばんっ、とドアが閉められた後だった。立て直した鼻先に、突きつけられたものがある。黒く、硬質の光をはじき、真っ暗な小さい深淵が、不吉な悪意をこめて江平を飲み込もうとしていた。反射的に、体細胞のすべてが活動を自粛する。


 ……もしかするとこれは、拳銃、というものではないのか。


 江平は、座るに近い姿勢で、目を離すことができないまま、ゆっくりと、体を引いた。引いたぶんだけ、それは距離を詰めてきた。


 拳銃の知識はまったく持ち合わせていない。もしかするとおもちゃかもしれない。だとしたら、自分のこのざまは非常に滑稽こっけいである。無様ぶざまと言ってもいい。


 しかし……もしも、本物、だったら?


 見たこともない男が、目の前に片ひざをついていた。声を出してはならないのだと、江平は悟った。荒れた低い声で、男はこう言った。


「あれはどこにある?」

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