夜の部(?)

24 婦女子の危難

 その日の夕刻、木坂きさか麗人れいと黒川くろかわはるか江平えびら弓弦ゆづると合流できなかったのは、なにもホームルームのせいばかりでもない。明日のステージリハーサルの予定が大幅に押してしまい、ふたりのリハの時間がホームルーム後にずれ込んでしまったためである。たとえ江平がふたりを待っていたとしても、無駄に終わったであろう。


 ホームルームが終わってからおよそ2時間後、リハを無事にこなして、ようやくふたりは学校から解放された。リハの進行に疲労困憊ひろうこんぱいしている立花たちばなを「おつかれ」と軽くねぎらって。

「うまくいきそうだね」

 すっかり夜の色に染まってしまった空に、うーんと両腕を伸ばして、麗人は平和につぶやいた。校門そばの外灯と、校舎から放たれる照明の光が、やけにまぶしい。

「腹減った」

 ロマンの欠片かけらもない心からの声は、黒川のものである。


「おやつ食べに行く?」

「こっから、バーガー屋行くのと寮に戻るのとで、どっちが……」

「じゃ、せめてコンビニ寄って、おやつ買って帰るか。それが一番早いかな」

「ヤダってば!」


 女の子の思いつめた拒絶が悲鳴のように上がった。「今の悲鳴は遥ちゃん?」などという冗談を麗人が自粛したのは、婦女子の危機感があふれていて、ふざけているどころではないと判断したからだ。ふたりは顔を見合わせるまでもなく走り出した。おそらくフェンスすぐ外側の小道なのだろう。本来、校門を抜けて、歩道に沿って移動して、フェンス外側の脇道に入るという道のりがあるのだが、そんな悠長な道をたどるふたりではない。このあたりのフェンスは身長くらいまでの高さしかないのをいいことに、軽々と乗り越えて、外側の生け垣を強引にかき分けて突っ切るというショートカットを採用する。麗人は女性を助けんとする騎士道精神から、黒川はもめ事に期待する暴力的欲求から。


 外灯の守備範囲からわずかに離れた位置で、制服を着たふたりの男女がもめていた。男子は乱暴にも、何か言いながら、女子の制服の袖を無理やり引っ張っている。女子はそれを拒否しようと全力であらがい、足を踏ん張ろうとしているのだが、それは女子の衣服を左右から引っ張り合う行為にほかならない。その上女子は、やはりどうしても力負けして、男子に引きずられてよろめいていた。


「おいおいおい、なんてことしてんだよぅ!」


 とりあえず大声を上げて、木の葉まみれになった自身を顧みず、麗人は駆けつけた。はっとこちらを見た男子の顔は、明らかに4組の渡辺わたなべ統吾とうごだ。麗人を認めて、露骨なほどイヤそうな表情になる。もっとも麗人にとっては、相手の女子が2年2組の石田いしだ雪乃ゆきのだということの方が、ずっと重要な情報だったが。


 かわいそうに、雪乃は髪も乱れて、半泣きになっていた。引っ張り合いの当然の結果、雪乃のB制服のカーディガンは肩の縫い目が破れ、左袖が半分千切れて、編み目もぐしゃぐしゃに伸びていた。麗人は雪乃を背後にかばい、自分のAジャケットを手早く脱ぎながら、渡辺を警戒する。黒川は、周囲の建物や麗人の位置を把握して、渡辺を逃がさない位置にさりげなくつけていた。


「ダメだろう、嫌がる女の子に、こんな無理やり」

 さすがに笑っていられず、麗人ははっきりと渡辺に抗議した。同時に体は、脱いだジャケットを雪乃の肩に着せかける動作をしている。

「うるせえ、邪魔してんじゃねえよ」

 渡辺はゆがんだ表情をしていた。怒りと、笑いと、蔑みと、あとは何だろうか。バランスがとれていない、奇怪な表情としか言いようがなかった。


「お前と同じことしようとしてただけだ」

「オレと?」

「たまたま帰りが一緒のタイミングだから、ちょっとどこか行こうって誘っただけだよ」

「あんな風に引っ張るのは、誘うとは言わないよ」

 自他ともに認めるナンパ男の麗人といえども、この言い草には不快感を覚えずにはいられない。それでも怒鳴ったりはせず、口調だけは穏やかさを保っていた。


「オレは、力づくで無理やりなんて、そんな失礼なやり方はしない」

「うるせえ、この……」


 渡辺が続けたのは、聞くに堪えない言葉だった。渡辺は、麗人を罵倒する表現として、女性が顔をしかめるに違いない下品な言葉を使った。良識ある男性であれば、せめて女性がいる場で使うべきではないと判断することは間違いない、ひどい言葉だった。おそらくこの品のない罵倒こそが、渡辺自身の感性を物語っているんだろうと、麗人は心の中で冷たく断定した。実際、渡辺はわめけばわめくほど、彼自身の品性のなさをあらわにしていくばかりだ。後ろで雪乃が顔をそむける気配を、麗人は感じ取っていた。その間も渡辺の口からは、あまりにも下品な罵りが、機関銃のように次々と発せられる。本物の銃弾であれば麗人が身を投げ出してでも雪乃をかばうところだが、言葉というのはある意味で銃弾以上の攻撃力を発揮するものだ。体で遮ることはできない。まさか雪乃の耳を無理やり塞ぐわけにもいかないだろう。


「もうやめろよ」

 腹が立つよりも嫌悪感が先だち、麗人は途中で渡辺の声をさえぎった。

「お前は誘った。雪乃ちゃんは断った。それで終わりだ。力づくで無理やり引っ張るなんて、そんなことするもんじゃないだろう」

「こんなときだけお上品ぶりやがって。なにが雪乃ちゃんだ」

「……行こう」


 麗人は渡辺を無視して、雪乃に立ち上がるよううながした。もう相手にするのがばかばかしいと思ったのだ。何より今は、雪乃を一刻も早く、この男から物理的に離した方がいいのではないだろうか。

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