前日:木曜日
08 江平家の朝
夜かと思うほどの暗さで、ガレージの外灯が意外なほど心強い。一応、道を渡る前に左右を確かめるが、左は切り立った山肌と車止めのガードレールがあるだけなので、こっちから車は絶対に来ない。寺や神社や江平家に用がある場合でも、江平が暮らす離れ屋と同じ敷地である駐車場に入ってしまうので、ここまで進入してくることは滅多にない。長居しない運送業者くらいのものだろう。つまり、この時刻に来ることはまずない。少し離れた住宅の並びは、明ける前の闇にそっと沈んでいるが、いくつか光の点が見受けられ、今日1日を静かに迎え始めたことを示している。ラインなどもちろん描かれていないアスファルトの道を、かこ、かこ、と歩いて渡る。早朝の冷たい空気が、作務衣のそこかしこから飛び込んでくる。だが江平は、このくらいの気温が好きだ。肌をひきしめ、頭の芯にわずかにこびりつく睡魔を追い払ってくれる。寺と神社のそばにはちゃんと外灯が設置されており、足元の心配もない。ひとまず、近い方の
この季節、まだ夜が明けていないので、掃除は屋内から始める。お堂から着手し、拝殿、廊下へと移っていく。小物にハンディワイパーをかけて
掃除が終わる頃には、
「あ、弓弦、これ」
母が、丸い
「この前頼まれてた、木魚。もう本当に古くて、人前に出せないくらいなんだけど、これでよかった?」
「うむ、借りる」
芝居で、舞台袖から音だけ出せばよいのだから、外見はどうでもよい。それでも学祭の騒ぎの中で、なくしたり傷がついたりという可能性もあるので、「なくなっても惜しくないものを借りたい」と両親に頼んでいたのだ。
「じゃ、母さんもう出るからね、片づけよろしく」
「行ってらっしゃい」
男声二重唱を受けて、母はあわただしく出勤していった。不意に、父が食べるペースを上げる。食べ終わると、食器をシンクにさげて、勝ち誇ったような笑顔を息子に向けてきた。というのも江平家では、最後に食べ終わった者が洗い物をする習わしになっているからだ。どうせたいした量ではないのだからそのくらいするし、勝ち誇らなくてもいいのに、我が親ながらオトナ気ないことだと江平は思う。宮司兼住職という肩書からすると、「みみっちい」人間にすら思えるから不思議なものだ。それとも肉親ゆえ、余計にそう思えてしまうのか。
父が出て行った食堂で洗い物をすませる。弁当箱を閉めて包みながら、父が広げたままの新聞がふと気になった。昨日の夕方、繁華街のイイジマ宝飾店から、宝石2億円相当が強奪されたという記事が、ローカルニュースのページに小さく載っている。犯人は4人組の男性、うち3人は犯行直後に逮捕され、本物の拳銃1丁と、エアソフトガン(つまりトイガン)1丁が押収されているが、奪われた宝石は見つかっていない。逃走した最後のひとりは30代の男性、身長175センチ程度……昨夜の検問はこれか、と江平は納得した。容疑者の左腕のことにはまったく触れられていなかった。
下駄を履いていると、いつの間に外に出ていたのか父が戻って来た。「行ってきます」「おう、いってらっしゃい」のあいさつの後、弁当と丸い風呂敷包みと、母屋の玄関そばに置かれていた大きな可燃ゴミの袋を手に取る。ゴミ出しは息子の担当だ。今度は
机の横に置いてある紙バッグに、母から受け取った、直径20センチほどの藤色の風呂敷包みを放り込んだ直後、何か自分が思い違いをしているような違和感を覚えたが、いきなり携帯電話が、ケテルビーの「ペルシャの市場にて」のサビ部分を高らかに歌い上げたので、あわてて向き直った。江平の旧式二つ折り携帯電話は、本棚の中でも一番しっかりした棚に、電話の子機や小銭を貯める瓶と並んで、充電用のコードにつながれていた。背面の小さなウインドウに「
「もしもし、おはよう…………ぬっ、そうであった!」
心臓が跳ね上がる。今日は早めに登校する約束になっていたのを思い出した。壁の時計を見上げる。……ぐずぐずしなければまだ大丈夫だ。二言三言かわすと終話し、携帯電話を放り出して、小さいゴミ袋の口をしばる。トイレをすませる。制服に着替える。ネクタイを結ぶ――今日も微妙に
◯
江平は、大柄な体格にふさわしいストライドをフル活用して、ずんずんと道を歩いた。近所の人と行き会うと、きちんと「おはようございます」と言う。あいさつは嫌いではないし、滴中寺と蕪屋神社の責任者の息子として、両親に恥をかかせては気の毒かなとも思う。途中のゴミ捨て場に、母家と離れ屋と、大小の可燃ゴミ袋を忘れずに置いた。
大通りに出た。歩道橋をやり過ごして歩道を歩いていくと、コンビニで野島が待っていた。パンか何か買ってきたところらしい。太っているというよりがっちりした体つきで、顔が四角く、眉は江平より太い。バスケ部員のはずだ。よお、うむ、と言い合って、ふたりでしゃべりながら学校へ向かう。野島は自転車を押しながらだ。こやつと合流さえすればもう大丈夫だ、と江平は半分安堵しつつ、今日の学祭準備予定についてふたりで盛り上がっていくのだった。
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