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08 江平家の朝

 江平えびら弓弦ゆづるは、朝5時半に起床する。目覚まし時計のスイッチを切り――たいがい毎日、アラームが鳴る前に目が覚める――テレビをつける。天気予報で今日の天気と気温を確かめる。10月下旬のこの時期、まだ太陽は顔を出してはいない。朝型の江平はすっきり起き上がると、布団を畳んで押入れにしまい、衝立ついたてを元の位置に戻す。顔を洗って手入れし、浴衣ゆかたのような白い寝巻きから作務衣さむえに着替える。今日は可燃ゴミの日なので、ゴミ箱から内側にセットしてある小さな可燃ゴミ袋もろとも中身を引っ張り出し、玄関のそばにとりあえず置いて、新しい空の可燃ゴミ袋をゴミ箱に設置しなおす。裸足はだしに下駄をつっかけてドアを出て、ちゃんと鍵をかける。こんなところに泥棒が入るとは思いたくないが。


 夜かと思うほどの暗さで、ガレージの外灯が意外なほど心強い。一応、道を渡る前に左右を確かめるが、左は切り立った山肌と車止めのガードレールがあるだけなので、こっちから車は絶対に来ない。寺や神社や江平家に用がある場合でも、江平が暮らす離れ屋と同じ敷地である駐車場に入ってしまうので、ここまで進入してくることは滅多にない。長居しない運送業者くらいのものだろう。つまり、この時刻に来ることはまずない。少し離れた住宅の並びは、明ける前の闇にそっと沈んでいるが、いくつか光の点が見受けられ、今日1日を静かに迎え始めたことを示している。ラインなどもちろん描かれていないアスファルトの道を、かこ、かこ、と歩いて渡る。早朝の冷たい空気が、作務衣のそこかしこから飛び込んでくる。だが江平は、このくらいの気温が好きだ。肌をひきしめ、頭の芯にわずかにこびりつく睡魔を追い払ってくれる。寺と神社のそばにはちゃんと外灯が設置されており、足元の心配もない。ひとまず、近い方の滴中てきちゅう寺の門を一礼してからくぐる。毎朝の日課である、掃除の始まりだ。

 この季節、まだ夜が明けていないので、掃除は屋内から始める。お堂から着手し、拝殿、廊下へと移っていく。小物にハンディワイパーをかけてほこりを落とす。床を雑巾ぞうきんで磨いて回る。社務所と寺務所も。窓の大きな集会室も。供花の様子を見て水を替える。そうしているうち日が上るので、今度は庭掃除だ。銀杏いちょうはかなり黄色く色づいていて、目覚めたばかりの清涼な朝の光が、葉の1枚1枚を清めるように照らし出す。フクの丸い姿は見えなかった。朝はここには来ないのだ。どこかの家のそばで夜を明かしているのだろう。


 掃除が終わる頃には、母家おもやからかつおだしの香りが漂ってくる。片づけて母家に入り、手足を洗って、うがいをする。食卓には、ご飯、わかめと豆腐の味噌汁、焼いた鮭、きんぴらごぼうなど、絵に描いたような典型的な日本の朝食が用意されている。江平は和食党だ。住職にして宮司である父が黙々と食べているので、「おはよう」とあいさつして自分も食卓につく。「ああおはよう」と食べながら父が応じる。江平の席のそばには、二段重ねの弁当箱が、中身をぎっしり詰められて、蓋をされるのを待つばかりとなっていた。介護の仕事をしている母は、今朝は早く出なくてはならないらしく、ばたばたしている。なんとか隙をみつけて、おはようだけは言えた。


「あ、弓弦、これ」

 母が、丸い風呂敷ふろしき包みを差し出した。

「この前頼まれてた、木魚。もう本当に古くて、人前に出せないくらいなんだけど、これでよかった?」

「うむ、借りる」

 芝居で、舞台袖から音だけ出せばよいのだから、外見はどうでもよい。それでも学祭の騒ぎの中で、なくしたり傷がついたりという可能性もあるので、「なくなっても惜しくないものを借りたい」と両親に頼んでいたのだ。


「じゃ、母さんもう出るからね、片づけよろしく」

「行ってらっしゃい」

 男声二重唱を受けて、母はあわただしく出勤していった。不意に、父が食べるペースを上げる。食べ終わると、食器をシンクにさげて、勝ち誇ったような笑顔を息子に向けてきた。というのも江平家では、最後に食べ終わった者が洗い物をする習わしになっているからだ。どうせたいした量ではないのだからそのくらいするし、勝ち誇らなくてもいいのに、我が親ながらオトナ気ないことだと江平は思う。宮司兼住職という肩書からすると、「みみっちい」人間にすら思えるから不思議なものだ。それとも肉親ゆえ、余計にそう思えてしまうのか。


 父が出て行った食堂で洗い物をすませる。弁当箱を閉めて包みながら、父が広げたままの新聞がふと気になった。昨日の夕方、繁華街のイイジマ宝飾店から、宝石2億円相当が強奪されたという記事が、ローカルニュースのページに小さく載っている。犯人は4人組の男性、うち3人は犯行直後に逮捕され、本物の拳銃1丁と、エアソフトガン(つまりトイガン)1丁が押収されているが、奪われた宝石は見つかっていない。逃走した最後のひとりは30代の男性、身長175センチ程度……昨夜の検問はこれか、と江平は納得した。容疑者の左腕のことにはまったく触れられていなかった。


 下駄を履いていると、いつの間に外に出ていたのか父が戻って来た。「行ってきます」「おう、いってらっしゃい」のあいさつの後、弁当と丸い風呂敷包みと、母屋の玄関そばに置かれていた大きな可燃ゴミの袋を手に取る。ゴミ出しは息子の担当だ。今度は蕪屋かぶらや神社の鳥居から出て一礼し、離れ屋へ戻った。今日は天気がよさそうで、生まれたての黄金色の光が、青い空へまっすぐに伸びている。離れ屋の玄関ドアのそばにゴミ袋を一旦置いて、中へ入る。


 机の横に置いてある紙バッグに、母から受け取った、直径20センチほどの藤色の風呂敷包みを放り込んだ直後、何か自分が思い違いをしているような違和感を覚えたが、いきなり携帯電話が、ケテルビーの「ペルシャの市場にて」のサビ部分を高らかに歌い上げたので、あわてて向き直った。江平の旧式二つ折り携帯電話は、本棚の中でも一番しっかりした棚に、電話の子機や小銭を貯める瓶と並んで、充電用のコードにつながれていた。背面の小さなウインドウに「野島のじま」と表示されている。2年1組の同級生だ。


「もしもし、おはよう…………ぬっ、そうであった!」

 心臓が跳ね上がる。今日は早めに登校する約束になっていたのを思い出した。壁の時計を見上げる。……ぐずぐずしなければまだ大丈夫だ。二言三言かわすと終話し、携帯電話を放り出して、小さいゴミ袋の口をしばる。トイレをすませる。制服に着替える。ネクタイを結ぶ――今日も微妙にゆがんでいる気がする。B制服のニットカーディガンを羽織る。A制服のジャケットは、今日もハンガーで留守番だ。身支度をすると、急ぎ足でリュックを肩に引っかけ、火の元と窓の戸締りを確認し、部屋の照明を切り、携帯電話をつかんで――まだコードにつないだままだったことに気づいて、手早く引っこ抜き、ポケットにつっ込む。右足に革靴を履き、左足でバランスをとりながら体重を移動させて、机の横に置いたままだった紙バッグをひっつかんで、左足にも革靴を履く。玄関の電気を消し、可燃ゴミの袋をぶら下げて飛び出して、バタンとドアを閉めた。きっかり5秒後、再びドアが開き、江平は片足だけ靴を脱いで床に踏み込み、机の上に放置されていた弁当箱の保温バッグをかっさらって、靴を履き直し、ドアを閉めた。鍵がかけられ……離れ屋は今度こそ、静かになった。


     ◯


 江平は、大柄な体格にふさわしいストライドをフル活用して、ずんずんと道を歩いた。近所の人と行き会うと、きちんと「おはようございます」と言う。あいさつは嫌いではないし、滴中寺と蕪屋神社の責任者の息子として、両親に恥をかかせては気の毒かなとも思う。途中のゴミ捨て場に、母家と離れ屋と、大小の可燃ゴミ袋を忘れずに置いた。

 大通りに出た。歩道橋をやり過ごして歩道を歩いていくと、コンビニで野島が待っていた。パンか何か買ってきたところらしい。太っているというよりがっちりした体つきで、顔が四角く、眉は江平より太い。バスケ部員のはずだ。よお、うむ、と言い合って、ふたりでしゃべりながら学校へ向かう。野島は自転車を押しながらだ。こやつと合流さえすればもう大丈夫だ、と江平は半分安堵しつつ、今日の学祭準備予定についてふたりで盛り上がっていくのだった。

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