07 江平家の夕餉(ゆうげ)

 滴中てきちゅう寺と蕪屋かぶらや神社の境内けいだいは、はっきりと塀で隔てられているわけではない。ところどころ曖昧あいまいに、植え込みがあるばかりである。社務所と寺務所が、境界線上に接している、というより同じ建物の中に併設されているのは、実務的な意味で仕方のないことである。似たような理由で、江平えびら家の母家おもやも、両者の境界線にある。昔ながらの、年季の入った――

「ボロいな」

 身も蓋もない修辞を、江平はつぶやいた。


「ただいま」

 それでもきちんとあいさつして、玄関から入る。食堂では、宮司にして住職の父・大和やまとが、新聞を読みながらビールをちびちびと傾けていた。

「なんだ、今帰りか」

「学祭直前だからな。母さんは」

「今フロ」


 親とこまごまとしゃべることもあまりない。洗濯ものをカゴに入れ、弁当箱をシンクに広げて水をはる。夕食の作り置きを自分で温めて食べていると、風呂から上がった母・真由美まゆみが顔を出して「おかえり」と言ってきたので、「ただいま」とだけ返し、食事を続ける。使った食器と弁当箱をまとめて洗う。


 そのまま入浴をすませると、父に声をかけられた。

「伝票頼むわ」

「わかった」

 たいした手間ではないが、わざと「やれやれ」とつぶやいて、茶の間――リビングではなく茶の間としか言いようがない部屋――に入ると、ちゃぶ台の前に座った。ふたつの菓子箱に、滴中寺と蕪屋神社の領収書やレシートが、きちんと分けて入れられている。金勘定が大好きな江平は、滴中寺と蕪屋神社の手書きの帳簿を担当しているのだ。簿記三級の資格持ちで、二級も勉強中である。場合によっては伝票も作成する……今日は数が少ないから楽だ。もっとも金勘定は苦にならないが。父に、できあがったから目を通しておいてくれと言った。父は、ああ、と生返事していたが、おそらく1週間ほどは放置するに違いない。


 洗濯後たたんでもらった衣服を引き取って「おやすみ」と言って母家を後にした。本堂と門でもう一度ずつ礼をして、道を渡る。フクの姿は見かけなかった。


 離れ屋に戻ると、戸締りを確かめ、まず洗濯ものをきちんとしまう。旧式の二つ折り携帯電話を充電するためコンセントにつなぐ――彼はスマホを持っていないのだ。学校から背負って帰って来たリュックを開けて、宿題にとりかかる。ときおり、そばの本棚の参考書に手を伸ばしながら。本棚というのは、下半分が扉付きの物入れで、上半分が本棚になっており、腰の高さになる本棚最下段には本ではなく、親子電話の子機が3台並んでいる。母家、社務所、寺務所で使っているものだ。さらに、貯金箱がわりとして、ため込んだ小銭を詰めた大きなガラスの瓶も置かれている。この棚はこれでいっぱいだ。ひとつ上の棚に、教科書や参考書、ブックエンドを隔てていくつかのハードカバー本が入れられている。一番上の棚は文庫本で、手前と奥の2列に分けて、きっちりと収納されている。手前側の「トム・ソーヤーの冒険」「海底2万哩」「赤毛のアン」「十五少年漂流記」「吾輩は猫である」「人間失格」などが、行儀よく背表紙を並べていた。


 真面目に勉強を続ける江平だが、どうにも腹が減り、ついに立ち上がって、奥の戸棚からアンパンを取り出すと、もぐもぐしながら鉛筆を手に取った。190センチ近い身長の彼は、見た目通りの大食いである。それでなくとも、いくら食べても足りない年齢だ。勉強が終わると、テレビをつけ、お笑いのバラエティを視聴しながら明日の用意を整えると、湯を沸かしながらちゃぶ台を広げて、煎茶を一杯れた。江平はお笑い好きである。ちゃぶ台の前に正座して煎茶を堪能しつつ、テレビ番組に「ははは」と笑った後、片づけをして、歯を磨く。布団を敷く前に……フローリングに敷かれたユニット畳の1枚を持ち上げ、その下に忍ばせた預金通帳を取り出すと、それをしげしげと眺める。コツコツと貯めるのが趣味だ。寝る前に通帳を眺めてはつい顔がゆるむのが習慣という、なかなかの煩悩男子である。床に通帳を戻して畳を敷きなおし、押入れの片側を開けて、上段から布団を引っ張り出した。寝床の支度ができると、本棚に置いた小銭の瓶をのぞき込む。……だいぶ貯まってきた。学祭が終わったあたりで銀行に預けに行こうか。


 母家から半独立状態の離れ屋暮らしは快適だった。友人を招いても両親に気兼ねがほとんどいらない。だから去年の冬、年末年始の閉寮期間を控えてどこでどう過ごそうと悩んでいたふたりの友人、木坂きさか麗人れいと黒川くろかわはるかを見かねて、「素泊まりでよければうちへ来るか」と、すんなり声をかけることができたのだ。当初、さすがにふたりはそんなわけにはいかないと固辞していたが、江平が自身の住環境を話し「あくまで素泊まりで、食事は自己責任」と強調して、結局ふたりの宿無し高校生は江平の離れ屋に世話になった。厄介になる間、麗人と黒川は毎日、デートやらバイトやらそれぞれの予定をこなしつつ、境内や建物の内外の掃除と社務所寺務所の手伝いにまじめに取り組んだ。それに気づいた江平の母は「夕食多めに作っておいたから、持って行って食べなさい」と息子に耳打ちした。ときおり、二高にこうと呼ばれる県立室口むろぐち第二高校に在籍する岬井みさきい一馬かずまという友人も遊びに来て、夜遅くまで気兼ねなく4人でひとしきり騒いだ。年越しは蕎麦そばでなくうどんだった。江平が蕎麦アレルギーであるためだ。無論、居候いそうろうたちに異存のあるわけがない。元旦、江平の父は些少さしょうながら、ポチ袋を麗人と黒川に渡した。閉寮期間が明けた朝、江平の部屋を辞去する間際、麗人と黒川は滴中寺と蕪屋神社に参詣し、いただいたポチ袋の中身をそっくりそのまま賽銭箱にねじ込んで、涼しい顔で寮に帰ったものである。もちろんそんなことはいちいち江平に明かしていないが。麗人と黒川がなぜ、長期の休暇にも自宅に帰ろうとしないのかは、それぞれの事情というもので、江平は詮索する気にならなかった。


 部屋の奥にあった小さな衝立ついたてを、枕元と玄関を遮る位置に置きなおす。火の元を確認して照明を落とし、こうして江平弓弦ゆづるは今日も眠りについた。神社や寺の生まれとはいえ、彼も普通の高校生なのである。

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