02 男を泣かせる男

 忘れもしない、先月初旬のことだった。


 2年4組の総務委員のひとり、妹尾せのお雅之まさゆきは、頭が爆発しそうなほど追いつめられていた。


 いよいよ学祭が近づいてきて、クラスステージは、教室企画は、何をどうするのか、どんな道具が必要なのか、などなど、みんな当然のように、クラスにふたりの総務委員、つまり学祭クラス委員に「なんとかしろよ」と詰め寄ってくるのである。ステージは劇、教室企画は模擬店で飲食店系と、とりあえずの方向性は決定したのだが、具体的な仕切りはさっぱりだった。もうひとりの委員の加藤かとう鳴美なるみも頭を抱えており、雅之はその場は強がって「なんでもかんでもオレらに押しつけてくんじゃねえよ」と押し返したものだが、頭の中ではシナプスが、分裂どころか爆裂寸前だった。その日の放課後、学祭準備時間も水泳部の練習もすっぽかし、雅之はひとりふらふらと、脇道をさまよった。人気ひとけのない小さな公園を見つけて、無意識に踏み込み、フェンスそばのベンチに腰を落として、立ち上がれなくなってしまった。永久に時間が止まってほしい。もう学校に行きたくない。


「もしもーし、どーした?」


 えらく明るいトーンで呼びかけられ、雅之は両のてのひらから顔を上げ、後ろに振り向けた。同級生の木坂きさか麗人れいとが――この日はグレートーンのタキシードにピンクのリボンタイといういでたちだったことを覚えている――フェンスの向こうから不思議そうにのぞきこんでいた。ようやく雅之は思い至った。そうか、ここは男子寮のすぐそばだったのだ。男子寮といっても、女子寮はとっくの昔に廃止されて存在しないのだが。木坂麗人は、学校の理事長の孫だと聞いたことがあるが、なぜ祖父の家でなく寮で暮らしているのか、そのあたりの事情はまったくわからない。


「あれっ、妹尾じゃん?」

「…………おう」


 その後麗人は、雅之の腕を引くように立たせると、男子寮へと連れて入った。本来、寮生以外は立ち入り禁止となっているのだが、麗人は「かまうことないって、さーさー」と能天気に規則をぶち破り、専用のカードキーを通して雅之を引っぱりこんだ。玄関ホールからすぐ、ロビーといえば聞こえはいいが、ソファやローテーブルや、共用の冷蔵庫、かろうじて地上デジタルが映ると言われている旧式の分厚いテレビ、が置いてあるだけの空間で、周囲には壁どころかパーテーションさえない。麗人は、縫い目のほつれたソファに雅之を座らせると、寮内の自動販売機で缶コーヒーを買って、差し出した。

「なにがあったワケ、女の子にふられちゃった?」

 自分自身はストレートティーのペットボトルをひとくち飲み、キャップを閉めてローテーブルに置く。優雅なまでに洗練された動きで、雅之から微妙に間をあけて腰をおろした(男とあまりくっついて座りたくないというのが、麗人の本音である)。頭も心もぱんぱんになっていた雅之は、コーヒーを傾けつつ、グチのように、学祭準備のつらさを垂れ流してしまった。麗人はふんふんと聞いていたが、雅之のグチがひと段落すると、いつもと変わらない口調で、こう言った。


「もうちょっと、ラクした方がいいんじゃないかなあ」

「ラク? ……ったって……」


 それができるならそうしてるわい。かみつきそうになった雅之の視線の先で、麗人はあごに指先をあてて、長い脚を組んだまま、背もたれに背中を押しつけた。

「たとえばねえ。クラスの人間を半分に分けて、ステージ要員と、教室企画要員を、はっきり分けちゃう。よっぽどの事情がない限り、基本は掛け持ちせずに専任で。その方が、みんなそれぞれ集中できると思うのよ。で、ステージと教室で、それぞれの責任者任命して、内容的なことはその人にまかせちゃう。仕切らせちゃう。ステージは演劇やるんだったら、具体的に何の劇やるのかとか、配役とか稽古とか、そのあたりは演劇部の子とか、希望者にまかせちゃった方がいいんじゃないかな。まかされた方も張り切ると思うよ」

「………………」

「教室の企画もさあ、ああいうのに興味ある子を募ってさあ、プロデュースまかせちゃえば? やりたい子にまかせた方が、いいのができると思うよ。そんな、あれもこれも妹尾と鳴美ちゃんで監督するなんて、無理だって。心身根こそぎダウンしちゃうよ」


 ……雅之が、もうひとりの総務委員の本名を加藤鳴美だと思い出すまで、少し時間がかかった。女子は名前呼びか、この男。まあ、それはこの際どうでもいい。

「そうかな」

「そーよぅ。まとめ役に必要なのは、何から何まで仕切る能力じゃなくて、他人に上手に仕事を割り振る手腕と、『あとはオレが責任を持つ!』って言い切る度胸なんだから」

「!」


 正直、雅之は木坂麗人のことを、手先が器用で女好きのチャラ男としか思っていなかった。だが、認識は急速に改まりつつある。話せば話すほど、彼が状況を存外冷静に見ていたこと、人当たりのよさ、頭のよさが垣間見えて、雅之は脳内の霧が晴れていく音を聞いた。こいつ、女たらしじゃなくて、人たらしだ。女子がこいつと一緒にいたがる理由がわかった気がする――実際、麗人という男は、彼の外面しか知らない男には蛇蝎だかつごとく嫌われるが、少しでも人となりに触れると嫌いではいられないという、奇妙な魅力の持ち主でもあった。不意に、目から涙がぽろぽろとこぼれてきて、雅之は泣きじゃくってしまった。さすがに麗人に抱きつくような真似はしなかったが。

「え、え、ちょ、どーしたの、妹尾」


 そこへ、例によって野戦服にサングラスという姿の黒川くろかわが帰ってきた。彼は玄関ホールとつながるロビーの光景を目にして、変な顔をして立ちすくんだ。

「…………お前、男も泣かすのか」

「ちーがうよぉはるかちゃん、そーじゃなくって! 誤解!」


 ……必死に弁明した後、雅之を挟んで反対側に座った黒川に麗人は、それまでのやりとりをまとめて説明した。簡潔すぎるほどに。

「学祭のまとめ役でいっぱいいっぱいになってたってこと」

「あーん」

 納得したのか面倒だと思ったのか、どちらとも解釈できる声を黒川はもらした。ずいぶん乱暴なまとめ方してくれたなと雅之は思ったが、その通りだし、しゃくり上げてうまく声も出ないので、異論は挟まなかった。


「おれも、麗人の提案に賛成だな」

 いつも通りのだるそうな態度で、黒川はソファの背もたれに片腕をのせた。

「お前も加藤も、クラス単位のまとめ役なんだろう。届出とか資材とか金とか、クラス単位の折衝とか、そういうとこだけ管理してりゃいいんじゃねえの」

「そーそ、ステージと教室企画でモメたら、まずは両方の仕切り役で話し合えって、妹尾と鳴美ちゃんは仲裁ポジションにいたらいいのよ。締めるポイントだけきっちり締めて」

飼いだな」

「まーた、遥ちゃん、きっつい例えを。でも実質そうよね」


「お、お前ら…………い、奴ら、だな…………」

 治まりかけていたのに、雅之は再びえぐえぐと、泣き出してしまった。


「……麗人、寮で酒飲ますなよ」

「冗談でしょ、飲ませたのコーヒーだけよぅ、ほら」

「妹尾お前、コーヒーで酔っぱらうな」


 すったもんだの後、少々うんざりした表情の麗人と黒川に見送られて男子寮を後にした雅之は、帰宅して作戦を練った。翌朝登校してから、加藤に相談し、まずはクラスの生徒をステージ担当と教室担当に二分して、それぞれの責任者を決定するところから着手したのだった。その効果は、日を追うにつれてはっきり見えるようになってきたのである。

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