02

 女性の小柄な肩を支えつつ、片手で玄関を開ける。

 すると、誰もいないはずの部屋の奥から断続的な電子音が漂ってくる。

 その正体に至ったとき、私はとっさに声を上げた。

 

 「やっべ冷蔵庫開きっぱ!」

 

 かまちの部分に彼女を降ろして、音の発生源へと急ぐ。困窮した暮らしをしていると、世の母親がいかに重要なことを言っているか分かる。子供達よ、電気代は馬鹿にならない。

 すぐさま折り返したついでに手さぐりで壁にスイッチを探した。狭い空間に、オレンジの光が満ちる。

 それと殆ど同時だった、女性が立ち上がり私の方を向いたのは。

 恐らくそこではじめて、私達は互いの顔を正視する。

 照明の下、彼女――せいぜい17、8程度と思わしき少女――は、笑っていた。

 小首を傾げ、困ったような表情ではにかむ、幼さとエキゾチックな雰囲気が奇跡的な配分で調和する美少女。

 張り詰めた意識も和むほど、それは大層可愛らしいものだった。

 

 ――だからこそ、そのが強烈だった。

 例えば……例えば、そう、魚眼レンズのように。そこだけ補正をかけた状態で脳が見ている可能性はないだろうか。

 否定する意味も、権利もないというのに。

 それを歪みだと言うことすら違うのに。

 どんな暴論でもいい。それが見間違いで、嘘であることの証明を探してしまっていた。

 だけれど、こんなときばかり、その質感は嫌なくらい鮮明に伝わってくる。

 そして、そんなこちらの焦慮しょうりょにも気付かぬまま、彼女はごく無垢な様子で口を開いた。


 「がめつくて本当にごめんなさい。その、何か食べる物をいただけないでしょうか。もちろん、お金は、払います」

 

 彼女は両手をへその辺りで組み、深々と頭を下げ――否。その手は、抱えているのだ。

 零れぬよう、そっと添える程度の優しさで。それを護っているのだ。


 ――命一個分の ひずみ


 少女の腹は、膨れていた。



 ****



 「そうだ、お金を」


 リビングのラグの上にちょこんと正座する彼女は、黄色い菓子パンが半分ほど欠けたあたりで唐突に切り出した。

 せめて呑み下してから口を開けばいいのに。よほど急いだのか、口腔の端にはまだ砕けたパンが覗いていた。

 

 「いらない」


 なんで、そんなわけには、などと唱えつつ(恐らくはポケットの位置する)骨盤の側面のあたりから裸で取り出された硬貨を、私は片手で拒んだ。


 「そもそもそれは貰い物だし、私はコンビニのメロンパン嫌いだから。何もなければ多分捨ててたし、むしろ助かったよ」


 方便のように聞こえてしまうかもしれないが、すべて事実だった。

 職場のお節介なおばちゃんに今回ばかりは感謝を覚えた。

 彼女はというと、納得のいかない様子で眉間にしわを作っていた。「こんなことならいただく前に出すべきでした」とか、「何かお礼を」とか、未だにもごもご喋りながら。

 

 「じゃあお礼を兼ねて色々教えてほしいんだけど、でもまずは名前を聞こうか」

 

 やや強引な取引に、それでも不満げではあったが素直に応じてくれた。


 「えっと、りおです。稲に負ける理科の下駄緒で、稲負いなおいせ 理緒りお

 「よろしく、理緒。私はあくつ きょうこ。字は難しいから……そうだな」


 スマホのメモアプリに文字を表示させる。

 見出し用のフォントサイズは、この距離でも十分読めるだろう。


 「あくつ 來陽子きょうこ……確かに初めて見る字です。」

 「私も、家族以外に同じ姓と会ったことはないな」

 

 似ていると、彼女はぽつり呟いた。

 何がと聞き返せば、あれ、あたし何か喋ってましたかと、咄嗟に口許くちもとを隠す。

 いちいちリアクションが大仰なようにも思うが、そこにはあどけなさも共存していろためか、少なくとも不快な感じはしない。

 

 「その、あたしもあたしと同じ苗字を見たことがなくて。なんならネットでも出てこないくらい珍しいらしくて。なんというか、そんな誰とも似てないところが、少し似ている気がして……って、ごめんなさい。馴れ馴れしいですよね。――圷さん?」


 詩的なことを言うのだなと、ひとり感心していた。

 ともすれば、私にその台詞は語れないかもしれない。二十を迎えた私にとって、それは少しばかり青すぎた。


 「來陽子でいいよ。ごめん、少し考え事してた。……なるほど、それは確かに似た者同士かもしれない」


 それで、と続ける。


 「とりあえず落ち着いたようだけど、そもそもなんであそこで倒れてたの。勢いで連れてきてしまったけれど、本当は救急車呼んだ方がよかったりし――」

 「だ、大丈夫です!」


 急な声量に思わず肩が跳ねた。

 そんな私よりも驚いた表情で、彼女がこちらを見ていた。


 「……そ、その。通報は、しなくて大丈夫です。救急車にも……警察にも。ほ、ほら! 見ての通りもう元気なんで」

 「――そっか」

 「あの、急に眩んで。気付いたら三段くらい踏み外しちゃってたんです。特に怪我もないですし、えっと、ただ喉だけすごく渇いてて――」

 「おまけに見知らぬ大人の家に上がってしまうくらい、腹も減っていたと。」

 「っ――それは」

 「はは。ごめんって。そりゃあ、生きてればそんなこともあるか」


 少女のやや明るい髪が、僅かにその美貌を隠した。気がした。

 皮肉なもので、善人ほどこういうときに損をする。

 彼女の嘘は、明らかに嘘に慣れない人間の吐くそれだった。

 私の中で、小さな懐疑が芽生える。

 一度萌えてしまったそれは、恐ろしい速度で成長していく。


 「じゃあ、保護者に電話する? もう十分遅いし、大事を取る意味でも迎えに来てもらうべきだと思う。それか、車はないけど私が送るのでも、私はいいけど」

 「……それも、大丈夫です。」

 「――そう。それじゃあ、どこかに行くアテが?」

 「そう、です。あります。実は、友達の家に、泊りに行く途中で。もうそろそろお暇しなきゃと思ってて。助けてもらっただけでありがたいのにお家にまで上げてもらっちゃって、更に長居してしまうなんてほんとに申し訳なさすぎて……」


 だとしたら、きっと約束の時間をとうに過ぎているだろうに、友達とやらからの連絡はないのだろうか。

 そもそも、スマホは持っているのか。ここまで、一度も開いたところを見ていない。

 今の時代で、それも夜に、その歳の女子がスマホを持ち歩かないなんてことが果たしてあるのだろうか。

 今の掛け合いの中だけでもおかしな点は多いが、しかし、私はあくまでそれらには気付かないことにした。

 少女の花のような笑顔が、この一瞬ですっかり萎れてしまったからだ。

 現実は、酷な場合が多い。

 彼女がそれから目を背けているように、私だって彼女の笑顔を、偽りの表情だけを見ていたいと思う。

 また、そう気遣うほどにはこの短い時間で彼女という人間に情を覚えていたし、私はもともと正しい大人ではなかった。

 気疎きうとい空気を払うように、私は立ち上がって言った。


 「まあ、良ければもうちょっとゆっくりしていきなよ。普段からぼっちだからさ、久しぶりに若い女の子と話せて私も楽しくって……。ヨシ、温かい物でも飲もうか。コーヒー飲める?」

 「ミ、ミルク入りなら。……できれば、9対1くらいで」

 「どっちがミルク?」

 「…………9です……」


 コーヒー入りの牛乳じゃねえか。

 内心ツッコんだが、当人も自覚はあるようで恥ずかしそうに俯いていた。

 

 「それでさ」


 コーヒーと牛乳、二つのパックを冷蔵庫から取り出しながら、何でもないように口にして、未だなお私は迷っていた。

 それに触れていいものか。それこそが、一番の禁忌ではないのか。

 彼女が、奇妙なくらいにフツウを装う理由を考えてみろ、と。

 しかし、あの瞬間、照明の下に晒されてからずっと、は主張し続けていた。

 己の存在を、その確かな質量を。周囲に誇示している。

 

 それについて尋ねていいのは、今しかない気がした。

 それにまで見ないフリをするのは、違うと思った。

 

 助けを訴える子供の声が、二人分、聞こえた――そんな気が、した。

 

 そして、少なくとも彼女から見て、私は大人だった。


 「もう一つだけ、聞きたいんだけど」

 「そのお腹は――一体」


 また、幻聴が続いた。

 背の裏で、少女が息を呑むような音の、幻聴が。


 「分かんない……分かんないよ」


 揺らぐ、声。


 「分かんない、です。ので、どうか、聞かないでください。醜いですよね。あたしもすごく気にしてて。――多分、きっと胃下垂とか、なんかなんだと思います。本当に、本当に分からないんです。だ、だから――」

 「もういい。――ごめん」


 静寂が、酷く痛い。

 だけれど、少女の懇願が何より強く私を打った。

 よりによって胃下垂と答えてしまったことに、思わず、ほんの一瞬だけ泣きそうになる。

 食後にしか発症しない病名。あの橋の下で、彼女は極度に飢えていた。


 肌が粟立つのは、冷蔵庫の冷気によるものなのか、あるいは。またか、とでも言いたげに鳴りだすそれは、空気を読んではくれない。

 既視感を感じつつ慌てて肘で閉めると、再び無音となることを恐れて、私は極力うるさくなるように手元を動かした。

 そうして出来た、それぞれ濃度の異なる苦味で満たされた二つのマグをレンジにかける。

 間が良いのか悪いのか、轟音はそのすぐあとに降ってきた。


 「お。急だねえ」


 窓の外を見やる。ゲリラ豪雨だった。

 ――ふと、ある考えが浮かんだ。

 けれど、それを実行してしまうには、互いにとってあまりにリスクが未知数だ。

 レンジアップの短い時間で軽く調べようと思ったが、それは想定よりずっと早く完了してしまったので、青い読み込みバーがまだ途中の状態でポケットに押し込む。

 熱いマグを両手に、彼女もいる一人用の丸テーブルまでそれを運んだ。

 

 「どうぞ」

 「いただきます」

 

 あちっ、と小さく跳ねる彼女の姿に、やはり和まされる自分がいた。

 そして、その何でもないような仕草が、私にとって何か決め手のように作用したのだった。

 

 「ねえ」


 ちびちびとカフェオレを飲む彼女へ、そっと語りかける。

 マグに鼻を埋めながら、ふぁい、と返事のようなものを返した。

 

 「もしかしたらなんだけどさ」


 もういいと。そう、言い放ってしまった数秒前。

 私は本来、すべてをあばくべき立場だった。

 階段を落ちた本当の理由。

 少女の家出。

 なぜ嘘を吐いたか。

 

 それから。

 胎児の、父親。


 あの場において、私が――私だけが、それをなし得る唯一の人間だったというのに。

 はけ口のない重圧に窒息してしまいそうな少女のか細い噴出さえ、ただ見ていられないという理由で塞いでしまった。

 決定的な拒絶こそしていない。そもそも、それについて私は明確に助けを求められたわけでもないのだ。すべて私の飛躍した妄想だという線だって未だ消えない。

 けれど、殆ど確信に近い推察を持っている状態でそうしたというのは、本質的には裏切ることとなんら変わらないのだった。

 今だってそうだ。

 私が覚悟を決めたのは、眼前の少女を想うどうこうの前に、一方的に感じている罪の意識をただ一方的に消化してしまいたいから。赦罪を欲しているからで。

 結局、私という人間はどこまでいっても独善的にしかなれなかった。


 ――無責任なことに、この選択が彼女にどう影響するのかも、自分には分からない。けれど、そうすることで少女がこの雨風を凌げることはだけは、少なくとも確かだった。

 そのためには、贖う覚悟は無論のこと、犯す覚悟だってできている。

 元より生きる意味を知らない人生だ。最悪棒に振るってしまっても、問題はないようなものだった。

 

 「この雨でさ、友達との宿泊なくなったりしてないか、ちょっと気になって」


 続く言葉まで聞いて、彼女はその真意を悟ったようだった。


 「友達から、連絡きてるんじゃない?」

 「……!」


 伸びをする動きのまま、床に転ぶ。

 こんな体勢では、彼女が何をしているかも視認出来ない。……当然、何もしていなくても、分からない。

 

 「……えぇと。その。今連絡があって、危ないので中止になったみたいです」

 「そう。確かに危ない。……ね、今日は泊まってく? 私は、全然いいよ」

 「いや、でも、ほんとに悪いですし」

 「そんなの」

 

 そんなの、今さらだ。

 迷惑がどうのというのなら、道端に倒れ込む人間に関わった時点で巻き込まれている。

 確かに想像してたよりずっと多くの”面倒”をあなたは抱えていたし、それらはほんの氷山の一角に過ぎないのかもしれないけれど。

 それは成熟した悪意に晒し続け、そしてそれを看過してきた者達による、いわば連なる負債だ。

 あなたが孤独に背負わなけらばならない理由などどこにもないのだから。

 ――だから。

 空っぽの私が一緒に背負うことを、どうか受け入れて欲しい。

 関わられてしまったのだと諦めて、もう少し、ほんの少しだけ――目の前の大人を信じてみて欲しい。

 

 雨は、更に激しくなって。

 情動が、応える。

 私は、叫ばなければいけなかった。


 「あァ、もう! ごちゃごちゃうっさいッ。この雨で、でッ! 行くアテなんかなくて! どうするつもりだ! 死ぬのかッ! なぁ。こっちがいいつってんだよ。大人しく甘えろよッ。頼れよッ。なあ、素直になれって言ってんだよ!」


 唾を飛ばして、訴える。酸欠で頭がうまく働かない。

 勝手に放たれる言葉は、殆ど本能的なナニカだった。

 

 「おまえが一番分かってるはずだろ――生きなければ、ならないとッ!」

 

 「…………ぅ、あ゙」


 少女は、いよいよ肩を震わせた。

 零れぬように。護るように。

 顔に押し付ける両手の隙間から、静かな水音を漏らしながら。


 「いいん、ですか。あたし、絶対、迷惑かけちゃいます。こんなにお世話になったのに、そんなこと、許されない。あたしなんか絶対、放っておくべきですって。あるいは、さっさと警察とかに突き出してしまうべきなんです――」

 「バカ。何度も言わすな」


 その肩を引き寄せて、少女の頭ごと抱擁ほうようする。

 しゃくりあげる、この華奢な身体の震えを全部、私の身体に共振させるつもりで。

 

 

 ****

 

 

 一頻《ひとしき》り泣いた彼女が肩に顎を乗せて、抱き返してくる。

 鼻腔びくうを撫でる、飾り気のないヒト本来の匂い。

 そこで私は、彼女がしばらく風呂に入れていない可能性に気付いた。

 恰好は変えずに、それとなく伝えてみる。

 

 「イヤッ、うそ。そんなに臭いですか」

 「や、別にそこまでは言ってな」

 

 言い切る前に、半ば突き飛ばすように離れていく。

 見れば、べちゃべちゃの顔が本気で不安そうな表情をするものだから、思わず吹き出してしまった。

 恥じらい半分、抗議が半分といった様相の彼女にひらひらと謝りながら、私は立ち上がった。

 

 「風呂、沸かすから。入ってきなよ」

 「やったあ」


 少女は分かりやすく目を輝かせて、幸せそうに言った。

 ――幸福。

 彼女が真にそうなるために、私は何が出来るだろう。

 間違いだらけの人生を歩んできた。そんな私の選択が、この子の――この子達の人生そのものを壊してしまうかもしれない。

 無垢な彼女を見ていると、どうにも恐ろしくてたまらなくなる瞬間があった。


 「來陽子さーん! お風呂もうできましたかー?」

 

 浴槽を洗いながら耽っていると、溌剌とした声が近づいてくる。


 「もう少し待ってね」

 「こりゃ全裸待機ですな」

 「やっぱアンタバカでしょ」

 「ひどい!!」

 

 ――いや、いい。

 今夜くらいは。すべて忘れて、笑っていよう。

 

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