下見の金魚

夜 魚署

01

 いい加減、誤魔化すのも限界だった。

 この日二枚目のシャツは、早くも肌に張り付いては不快な粘りさえ発している。

 落ち着かない四肢がベッドのスプリングを鳴らす度に、顔にかかる髪が蝋の香りを残してゆく。

 蓄積した制汗剤は、何か別の成分に変質しているんじゃなかろうか。もし本当に未知の組成が検出されても割と納得できるくらいには、現実離れした臭気をしていた。


 「……上陸した大型の秋台風は非常に進行が遅く、依然勢力の衰えぬまま関東を停滞しています。この影響で一部地域では断水被害が続いているということで、皆様、住まわれている地域の給水情報を確認して……」


 リモコンに手を伸ばし、音量をうんと下げる。

 普段はバラエティ色の強い報道番組の女子アナがこんなときだけ神妙な顔持ちで語っているのは、なんだか滑稽だった。それに、ここ数日はどのチャンネルも同じ内容を報じていて、ただその言い回しを変えているだけとしか思えない。

 しかし、そんなことは心底どうでもいいのであって。

 目下、この臭いだけはどうにかしなければならない。それも、なるべく早急に。

 そもそも、これまでにも一日二日風呂に入らないことなど幾度となくあったのだ。

 今回はたまたまそれが三日に伸びただけであり、嘆くべきはちょうどその晩に断水した不運さだろう。

 そうして状況は特に好転しないまま、現在に至る。その間、この身体はすっかり熟成されてしまった。実に八日モノである。

 

「ああ!」

 

 限界まで垢が溜まると、いずれ脳みそにまで逃げてくるのだろうか。

 処理速度の制限された思考。

 殆ど無意識に叫んだ自分の声で我にかえる。変な話だが、今さら起床したような感覚だ。

 不応期にも似た、とろりとした虚無感がまとわりついて離れなかった。

 こんな日はどうしても退廃的な感情に囚われてしまうから敵わない。

 気付けばまた、あの日の記憶を思い起こしていて。

 見たくないものに蓋をするように、眼に右腕を落とす。脱力しきった腕が、その質量をリアルに伝えていた。

 やがて私は瞼を瞑った。

 次第に、うねる嵐が窓を殴る騒乱だけが、鼓膜を占領してゆく。

 取り留めのない空想を、空虚が食べていた。


 

 ****


 

 19になった途端、友人の誰にも話さずに東京へ出た。

 進学も、就職もしない。アテなど一切ない、限りなく衝動的な行動だった。

 しかし、それからはや1年。10代の最後を浪費して成し得たものは何か、あるいは何かを成し得たのか。

 答えはきっとNOだ。

 いつか私は、ああ。こうやって腐っていくのかと、独り何かに納得している。

 バイトに明け暮れる日々の中で、ふとつかみどころのない不安を見つけることがある。

 それは焦りというよりは、もはや切迫感と呼んでもいいものだった。

 地元というごく狭い世界で死を迎えることが怖かった。なりたいものなんて何もないのに、何にもなれないことを恐れていた。

 そこに行けばそのナニカは見つかる気がして、それに縋るしか出来なくて、ただそれだけでかつて訪れたきりの大都市に身を投じてしまえた。


 ドラマで、小説で、あるいは誰かの経験談で。

 幾度と聞かされたはずの”現実”は、しかしどこまでいってもフィクションに過ぎなかったのだと気付かされたのは、上京から間もなくしてだった。

そのときには既に今日を生きることしか考えられないようになっていて、明日や、まして将来を考える余裕などとうに忘れていた。

 唯一成長したことといえば「焦っているうちはまだどうとでもなる」という、正しく手遅れな教訓を得たくらいだ。

 蝕まれるように心が渇いていく。その感覚を認識していながら、誰かに頼ることもできなかった。

 元来人とのコミュニケーションが得意ではなかったので、こちらに来てからも友人や恋人といえるような関係は殆ど作れなかった。バカとアル中の住むあの家へ帰る選択肢は、ハナからない。

 実行する勇気なんて絶対にないけれど、終わりの見えない不安から抜け出すための、きっと最も手軽で確実な手段がちらつくことも最近は増えていた。

 

『ノーチラスを辿って』


 街は、電子掲示の海だ。

 たまたま目に留まったそれは小説の宣伝であるらしかった。

 大型新人。20万部突破。最後にはきっと、涙する。

 酷い話だと思った。泣かれるような物語こそが素晴らしいというのなら、私は私のことをもっと愛せるはずだ。私たちが歩んできた物語には、せいぜいラストに泣けない小説の数百倍の涙があった。

 そんな些事を思いながらゆく、21時の帰路。

 いつものドラッグストアで、今日は缶コーヒーを買う。

 労働に揉まれた身体には、キャップの結合をちぎる音が妙に心地よかった。カフェインが漏れ出ているのかもしれない。

 最寄りの駅からアパートまでは歩いて15分ほどの距離がある。それも、この高架橋を降りてしまえば目鼻の先だ。

 異物は、ちょうど歩道から橋の4階段が始まる境界にあった。

 あったといったのは、この暗がりで、まさかそんな場所に人が倒れているとは思わなかったからだ。おそらくモノトーン調の服装は、投棄されたゴミ袋にだって見えるだろう。

 殆ど反射的に、私は駆け下りていた。

 どれほど疲れていても、路頭に倒れる人間を助けようとする判断力とそのための体力は残っている。

 地に丸くなっているそれを抱き寄せるように、まずは意識の有無を確認しようと。

 

 「大丈夫ですか!」

 

 若干のパニックを否めない、語尾の裏返った問いかけに対して、幸いにもは蚊の鳴くような声量で言った。

 次の瞬間、私は再び駆けだした。

 我が家の鍵を開け、靴も脱がずに踏み入る。目指す先に迷いはない。

 取っ手を引き抜かん勢いで開け放つ、冷気と僅かな灯りが顔に触れる。

 緑茶のペットボトルだけを正確に手に取れば、冷蔵庫がちゃんと閉まったかも確認しないままに玄関を飛び出したあたりで、ようやく思考が状況に追いつく感じがした。

 澄んでいく思考の中では彼女の言葉が思い起こされていた。改めて咀嚼すればそれは、少なくとも最悪の状況を示すものではなく、小さな安堵をもたらしてくれた。

 

 ――はい。……お水を、ください。

 

 だけれど、急く足が緩むことはない。

 

 

 

 

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