第8話 遭遇、黒い剣士 #4
これが帰還魔法の込められた腕輪だというのは、彼女を行かせるための真っ赤な嘘だった。ただ、気に入って身につけているだけのアクセサリに過ぎない。
が、『甘味スペシャル』をフラウムに奢るという新たな約束のため、是が非でも生きないといけなくなってしまった。
エルスウェンはキャリス、ロイドの身体を引きずり、できるだけ近づける。
これから自分がやらなければならないことは、ジェイをサポートしつつ、その間に帰還の魔法の詠唱を終えて、迷宮からの脱出を成功させることだ。
「バカ野郎、なぜ逃げなかった!」
ジェイが、黒い剣士の攻撃を躱しながら叫んだ。それに言い返す。
「あなたを置いてはいけないでしょう!」
言いながら、手を考えている――自分はそもそも、攻撃魔法は使えない。現在の魔法体系から外れた、古い森人族に伝わる魔法と、回復魔法を使用できるだけ。だがそのどれも、相手に干渉するものは全て遮断されてしまう……。
それでも、なんとかしなければ。自分が魔法の修練を積んできたのは、このような極限の苦難を乗り越えるためだ。でなければなんのための無限の魔力、なんのための知識なのか。
とにかく、できることからするほかない。脱出までのシナリオを頭の中で組み立て、エルスウェンは、詠唱を開始した。
「魔空の瘴気取り除く森林の精よ、大地の子らに、清浄な風の加護を与えよ――」
魔法が発動する。迷宮の中に、一陣の風が吹き抜けていく。
その風を浴びたジェイの動きは、目に見えて変化した。それまではギリギリで躱していた黒い剣士の剣を余裕をもって躱すと、反撃の拳を次々に叩き込み始める。
「なにをした!?」
「速度の強化魔法です! 肉体強度はそのままですが、体感時間が緩やかになります!」
擬似的な加速魔法である。エルスウェンは続けた。
「効果は一分だけです! それまでにこちらへ合流してください! 帰還の魔法を使います!」
「分かった、詠唱が終わる直前に教えろ!」
つまり、詠唱の間にエルスウェンが攻撃されないように、ジェイは限界まで黒い剣士の攻撃を引き受けるつもりだ。
帰還魔法は難易度が高く、経験豊富な探索者でなければ使いこなせない。
迷宮の出口までの転移は、数十メートルの転移とはわけが違うからだ。単純に直線距離をイメージしての転移では成功せず、ここまでの迷宮の道のりと、脱出経路を明確に理解して、イメージする必要がある。つまり、迷宮深くからになればなるほど、成功率は落ちることになる。とどめに詠唱完了時に、帰還対象は詠唱者の半径一メートル以内に集まっていないといけない。
その点、巻物に封じられた帰還の魔法は、呪文を読み上げるだけで発動する。おまけに、魔法を扱えない前衛であろうと、唱えさえすれば絶対に失敗しない。
おかげで今では帰還の巻物こそが探索の必需品であり、わざわざ帰還魔法を修得している魔法使いは非常に少なかった。
ただ、エルスウェンはわざわざ修得している手合いであった。
迷宮内の地図を完全に頭に叩き込んだ上で常に索敵を担当していることと、生来の記憶力の良さでもって、使いこなすには経験が必要不可欠な帰還魔法のイメージを補っているのだ。
それでも詠唱には時間がかかる。敵と遭遇した状態で帰還の魔法を使うには、前衛の時間稼ぎは必須だった。
それをためらいなく実行してくれるジェイを何者かと思いつつも、心強く感じていた。エルスウェンは、彼を信じて一心不乱に詠唱を進めた。
「迷宮に光る蜘蛛の糸、救いの乙女に慈悲の心あらば、迷える勇者に今一度その手、差し伸べよ……」
意識を集中し、一言一言に魔力を込める。ジェイは持ちこたえている。
「……正しき道を示し、正しき心を、正しき光の下へと誘え……」
そこまで唱えると、エルスウェンの周囲一メートルに、光の円が現れる。帰還の魔法の効果範囲を示す魔力の円である。
詠唱の末尾を残して、エルスウェンは、手を挙げた。
ジェイは目にも留まらぬ速さで拳打を黒い剣士の甲冑へと叩き込んでいる。すでにその拳は傷つき、血を迸らせていた。
「うむッ!」
裂帛の気合いと共に、ジェイは両手を合わせた渾身の強打を浴びせた。それは黒い剣士の胸元を穿ち、最大の手応えでもって壁まで吹き飛ばした。
それを確認しないまま、すぐにジェイは奔り出している。距離、ほんの五メートル。彼ならば、一足で間に合う距離だろう。
壁に叩きつけられた黒い剣士が、足元から何かを拾いあげるのが見えた。マイルズが放棄した愛用の大剣だ。
黒い剣士はそれを振りかぶると、投げつけてきた。
信じられない速度だった。その剣は真っ直ぐに飛来すると、ジェイ、そしてエルスウェンの身体を、まとめて貫いた。
胸に激痛が走る。致命傷だと分かった。
それでも――
「正しき魂に、救いあれ……!」
エルスウェンも執念で、帰還の魔法の末尾を結んだ。
魔法が発動し、視界が暗転する。そのまま、エルスウェンは意識を失った。
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