6:傍観者
浜辺涼子は浜辺円を監視出来ることで、まるで神になったかのような気分でいた。
監視する、というのは息子の跡をひたすらつけるようなストーカーみたいなことをすることを指しているのではない。
誰かストーカーを雇って息子の後をつけさせることでも、息子の部屋に防犯カメラのようなものを仕掛けて常時監視することでもない。
いや、後者はやや近いだろうか。
円が中学二年生になった夏、浜辺涼子は円にスマートフォンとPCを買い与えた。夫は制限をかけたり、監視機能をつけるべきだと言ったが、涼子はそれに反対した。普段は夫の言いなりの涼子だったが、夫はあまりネットの強くなく、自由にしろと言ってくれた。
しかし、涼子はこっそり、円のスマートフォンとPCに監視機能をつけた。『ミマモリ』というそのアプリケーションは、円のスマートフォンやPCの履歴を表示してくれる。そのため、涼子はこっそり円がスマートフォンやPCで何を見ているのか確認できるのだ。当時は、円が何か危ないことに手を出したりしないか不安だったから、それを利用した
しかし、一年ぐらいすると、その目的は涼子の頭の中にはなく、円の私生活を監視出来ることに、夫との差を見出だし、優越感を得ることが、新しい目的になった。それと同時に様々な円のプライベートを見ることの楽しさも覚え始めた。
例えば、円がアダルトビデオを閲覧していることがわかった時は、少し複雑だったが、息子の成長を実感できた。中には自分の知らない領域の度を超えた動画を見ている時もあり、それにはいささか恐怖を覚えた。円がSNSにて様々な人と絡んでいることがわかった時は、最初は不安だった。SNSで円がトラブルに巻き込まれたらどうしようか、円が誘拐に遭ったりしないだろうか、と。だが、その涼子の心配は現実にはならなかった。そもそも、円はそこまで大人数と絡むことはなかったからだ。
円はその後も様々なSNSのツールを利用して、ネットで人と関わった。円がネットで知り合った人の中には、涼子も知っているような今流行りの動画投稿者もいた。概ね、円は順調なネット生活を送っていた。そんな中で、涼子がひとつだけ不安に思っていたのは、円が不登校になる可能性だった。このままネットにのめり込めば円は不登校になりかねない。そこだけが気掛かりだったのだが、円は学校に行くのを嫌がる素振りは見せなかった。
2
『サンシャイン同盟』。そのサーバーに円が入っていることを知ったのは、平日の昼間だった。平日の昼間なので、円は学校に行っていて家にはおらず、涼子は家事を終え、ひと段落して、涼子のスマートフォンの『ミマモリ』から円のPCの履歴を見た。<Gamovie-MWS新キャラ情報!ガチャ禁勢は引くべきかなど徹底考察>という動画や<Gamovie-致命的バグで鉱石大量配布!>という動画など、今流行りの『MWS』というRPGの解説動画が、履歴にずらっと並んでいる。
そして、その下にこうあったのだ。<According-サンシャイン同盟>。
涼子はあまりネットに詳しくない。しかし、『According』というインターネットサービスは、過去にも円が使用していたことがあり、涼子は大体どのようなサービスか知っている。
『According』は、チャットと通話ができるオンラインコミュニケーションサービスで今や多くの若者が、『According』を使って世界中の人とコミュニケーションを取っている。特にゲーマーに人気で、ゲームの際の通話などにもよく使われるサービスだ。
しかし、『サンシャイン同盟』などというサーバーに円が入っているのは知らなかった。そもそも、最近涼子は忙しくて、『ミマモリ』をあまり開けていなかったのだ。その期間に円がそのサーバーに参加したのだろう。
それにしてもやや気になる点がある。
簡潔に言うなら、円が『According』で『サンシャイン同盟』にばかりアクセスしていることだ。ここまで一つのサーバーに熱中するとは。何かおかしい。
涼子はすぐに、『サンシャイン同盟』にアクセスしようとしたが、『ミマモリ』で確認できるのは履歴なのでそのサイトの名前やIPアドレスしか見ることができず、そこから先を見ようとすると、そのIPアドレスから自分のスマートフォンで検索をかけるか、円のPCをこっそり使って、サイトを開くしかない。しかし、円が帰ってきた時に円のPCを開いているところを見られる訳にはいかないので、今からすぐに円のPCを使おうというわけにはいかない。さらに、IPアドレスからアクセスしようとしても、円の『According』のパスワードを知らないのでログインすることができない。
となると、円のPCからなら、パスワードの保存のシステムなどから、円のPCのパスワードさえわかっていれば、円が過去にPCで開いたパスワードの必要なアプリケーションのパスワードは全て確認できるので、そうするしかない。
結局、涼子はもどかしい思いを抱きつつも『サンシャイン同盟』にアクセスするのはまた今度にしなければならなかった。
3
それから一週間ほど経ち、円が、有志を募っての学校の宿泊行事で家を数日間開ける日がきた。これは大チャンスだった。まるで、天の神様が涼子に恵んでくれたかのような時間だ。円が大きなリュックを背負って家を出ていき、幸太が学校に行くのを見送ると、すぐに涼子は円の部屋に直行した。
基本的に円の部屋に入ることはここ数年はなく、入っていることがバレれば円に色々文句を言われるので、涼子が円の部屋に入るのはとても久しぶりだった。
円が中学二年生になる前あたりが最後だろうか。中学二年生になり、反抗期や厨二病が一気に押し寄せてくると、円は自分の部屋に親が入ることを拒み出した。あの時は少し悲しくなったが、成長を実感して嬉しくもなったのを今も覚えている。 それ以来の円の部屋だったが、勉強机の配置や棚の配置、PCを置いているもう一つ机の配置などは一切変わらなかった。けれど、前より物は汚くなり、勉強机にもPCの机にも落書きが沢山ある。明日MWSアプデや、明日志茂とボス戦、などというMWSに関するものもあれば、英語一課題提出明日まで、などといった勉強に関するものも多くある。
しかし、そういう小さな変化より気になったのはやはり、部屋の汚さだった。床に大量の本が散らばり、勉強机は学校の教材や大量のプリントでぐちゃぐちゃ、PCの机は大量の攻略本や、MWSのグッズだけでなく、流行りのアニメのグッズや、小説版で埋め尽くされ、その上に乗っかっているPCはぎりぎりのバランスを保っていた。地震ひとつで全て崩れてしまいそうだ。
円は元々、整理は苦手な子だった。だが、もう少ししっかりしていた。だらしない子ではなかった。しかし、涼子の知らない二、三年でそのようなことに関しても変わってしまっていたのだ。
涼子は大量の本を退けながら進み、PCの机の前に行くと、ゲーミングチェアの上に乗っかっている大量の物を床に退けて、ゲーミングチェアに座った。確か、このゲーミングチェアは円が中三の時に誕生日プレゼントとして買ってあげたものだ。夫は購入に反対したが、涼子は反対を押し切って買ってあげた。赤と黒を軸にした配色が格好良かったから買ってあげたのではない。円は中三になってほとんど親と会話しなくなったため、涼子はどうにか円との間に親子の繋がりを残そうと、ゲーミングチェアを買ったのだ。
そうして、のんびり思い出に浸っていると、不意に勉強机の、手元ライトの明かりが今もつくのか気になり、立ち上がって勉強机のほうに向かうと、ライトのスイッチを入れた。勉強机を買ってあげた時のような、カチッという綺麗な音はしなかったが、まだ、カチッの趣のあるゴチッという音がした。そして、明かりがついた。
しかし、それはほんのりとついただけで、何とか勉強机の上だけを照らせる程度の明るさだった。なぜか少し感傷的な気分にさせられる。
もっと昔に浸りたいという気持ちはあったが、そうやって悠長なことをしている場合ではない。円がいじめられているというのだ。何があったのか、実情を把握せねばならない。涼子は、不安定な体勢にあったPCを円の部屋から持ち出し、慎重に円の部屋を出ると、リビングルームの机の上に置いた。
電源を入れ、パスワードを打ち込む。パスワードは当然、監視システムを入れていることもあって知っている。
すると、問題なく、PCはそのパスワードを承認し、円のPCのホーム画面が映った。壁紙は、円が中学に入学した時に校門で撮った写真、円は可愛らしくピースをして、その後ろで夫が笑顔で立っていて、その横に十歳の幸太と涼子がこれもまた嬉しそうな笑顔で写っていて、そして、背後では桜が舞っていて...。という涼子の甘い想像は当然現実ではなく、円のPCのホーム画面は真っ黒だった。涼子はそこに、円の心の闇、的なニュアンスを見出してしまい、慌てて、インターネットを開いた。
そして、履歴を確認する。上から二番目に<According-サンシャイン同盟>があった。涼子は一息吐いて、心の整理をすると、それをクリックした。パスワードの自動入力を許可にしていたようで、パスワードは求められず、円のアカウントにログインすることで『サンシャイン同盟』のサーバーにアクセスすることができた。
まだ、通話は始まっていないようだ。チャットの方はというと、会話はされていたがあまり頻繁ではなく、彼らは皆、通話にて会話をしているようだ。チャットでの会話のほとんどは通話来い、などのメッセージだ。だが、その中に「いじめ」という単語を見つけて涼子は震えた。
怖いもの見たさでチャットを遡っていく。そうして、涼子はこのサーバーがどのようなサーバーか理解した。
いじめられている生徒たちが鬱憤を晴らす、そういうサーバーなのだ。
また、涼子がここで通話を始めるのはリスクがあった。なぜならまず、そもそも円は今、有志の宿泊行事に参加しているのだ。そんな円が通話に入って来れば違和感を覚えるに決まっている。更に、喋ることができないというのも相手から怪しまれるポイントの一つだ。当然、ここで涼子が喋っても、円の声じゃない、とバレてしまう。喋ることができないなら、チャットで会話すればいいのかもしれないが、しかし、チャットは形として残ってしまうため、後で帰ってきた円にバレてしまうかもしれない。
涼子は後一歩で情報を掴めるというところまで来て何も行動ができない自分が虚しくなってきた。かといって、状況を打開する得策も浮かばない。
少し悩んだ挙句、涼子は覚悟を決めた。通話を始めよう。喋らないで、もしかすると、向こうがうまい具合に解釈してくれるかもしれない。もし、解釈してくれなくて、怪しまれれば、すぐに通話を去ってしまえばいい。あとで、円から何か言われるかもしれないが、その時はその時だ。
通話を始める、というボタンをクリックすると、ティロン、という効果音と共に、通話相手待ちの画面になった。数分待つと、一人が通話に参加してきた。
「おっす、浜辺。お前今日、理研宿じゃなかったっけ?」
と底抜けに明るく、元気が伝わってくる声が聞こえてきた。こんな子でもいじめられているのか...。相手は本名ではなくニックネームでアカウントを登録していたため彼の名前はわからなかった。
ちなみに、理研宿とは、円が今行っている有志の宿泊行事のこと。理科研究宿泊の略である。涼子は当然、返事をしない。
「おーい。どうした? 大丈夫かー」
と相手が戸惑っていると、また別の人が二人通話に入ってきた。
「やあ」
同時に二人の声が聞こえた。片方はとてもくぐもった小さい高い声、もう一人はやや高い声だがはっきりしている。
「理研宿じゃなかいのかよ」
はっきりした声が言う。
「なんか、ずっと喋らないんだけど」
と最初に来た明るい声が言う。
「なるほど。わかった。多分今、行きのバスなんだ。こっそりPCか何か持って行ってるんだよ。んで、声出したらこっそりPC持ってきてるのバレるから黙ってるんだ。お主も悪よのぉー」
とはっきりした声が解釈して、明るい声がなるほど、と納得する。思わぬ形で向こうに納得してもらい、涼子は胸を撫で下ろした。
「坂田、今日何時まで暇?」
「もうすぐ用事」
坂田というのがくぐもった声の人物の名前のようだ。
「了解。それにしても理研宿などというゴミ集会によく参加したよ」
とはっきりした声が言った。
「いじめから逃れようとしてるんでしょ。で、西藤は行かないの」
はっきりした声の人物は西藤という名前らしい。
「俺はまた別に用事があるからな」
「用事とは?」
「志茂みたいな下界の民にはわからないであろうな、はっはっは」
これで底抜けに明るい彼が志茂という人物であることがわかり、現在通話に参加している人物の声と名前が全て一致した。
「下界の民言うな」
「俺のお父さんは医者でね、金も沢山あるので。今日の晩から二日間の東京ディズニーランド」
「金のあるなし関係あるか、ディズニー」
と志茂が突っ込み、
「外科医の民と下界の民」
坂田がぼそっとそう呟き、志茂がうまい、と拍手をする。いじめられているようには見えない会話だが、確かにどこか疑似的に明るく作られた会話のような雰囲気も伺える。
「森木はどうした?」
「今日来れないって言ってたじゃん」
森木。その生徒もこのサーバーにいるということか。全部で何人ぐらいこのサーバーにいるにだろう。
「皆さん忙しげだなぁ」
「暇ですが何か」
涼子は段々会話を聞いているだけでは情報を得られないと判断し、一度会話の方に意識を向けるのをやめて、少ないチャットの会話の履歴を辿っていくことにした。一応忘れないようにそれぞれのニックネームと本名を、近くにあった紙にメモしておいたので、チャットも円のアカウントであれば「MISTERAMU:やあ」のようにニックネームの後、メッセージという形を取っていたが誰が送信したメッセージか判別することができた。
判別できない人物もいたがそれは先程会話に出てきた森木だ。
チャットの会話は本当に朝のおはようの挨拶や、通話に来て、というようなメッセージばかりで会話は展開されていなかった。しかし、通話ではやり取りできない、ファイルや画像のやりとりが行われており、その画像の中にはあざや傷の跡のものもあった。
ファイルの方でやりとりされていたのは、涼子にはよくわからないが、ゲームのデータ改造ファイルのようなものや、嫌われている教師の説教をこっそり録画したものなどがほとんどだった。
他にも、このサーバーが立てられたのは今年の四月とごく新しいことや、坂田だけが途中参加だということがわかった。
「細川ガチ嫌い。死ね」
集中して探っていた涼子の耳に志茂の声が聞こえてきた。もっと多くの情報を探ろうと思ったが、とりあえず今日のところはこれぐらいにしておくことにして、涼子は通話を去った。
その日の晩、涼子は、幸太が風呂に入るのを見計らって、夫にいじめに関する話を振ってみた。
「いじめの自殺者、最近増えてるよね」
「そうだな」
夫は新聞紙を読みながら、雑に返事をした。
「いじめって本当にあるのかな」
「あるに決まってんだろう。学生時代クラスに一人ぐらいはいじめられている生徒がいたものだ」
「じゃあ」
このことを切り出すにはやはり勇気が必要だった。しかし、こういう時夫に頼らないでどうする。涼子は
「もしも円とか幸太がいじめられていたら、どうすればいいんだろう」
と尋ねた。出来るだけ、自然な様子で尋ねたのは、夫に怪しまれないためでもあり、そして、まだ円がいじめられているという事実を百パーセント信頼できていないからでもある。
「さあな。ただ、そんなことはないだろ。幸太はしっかりした子だし、円は確かに捻くれたところもあるかもしれないが、あれは年齢的なものだ。どの子も高一になればああいう風になる。根は物静かな子だ。大丈夫だろう」
「物静かな子って、よくいじめられるように...」
「だが、円は賢い子だ。小学校の頃いじめられたりしていたか? していないだろう。そもそもいじめられる理由がないじゃないか。顔にブラックジャックのようなアザがあるか? 日本人じゃなくて外国人か? そんなことないだろ。だから心配するな。心配しすぎると体に毒だぞ」
久々に優しい言葉をかけられて涼子は嬉しくなってしまい、本題に完全に入れず、そこで会話は終わってしまった。
4
翌日、また幸太が出て行くのを待って涼子は円の部屋に忍び込んだ。そして、円のPCをまた、リビングルームの机に持ってきて、PCを起動し、ログインして『サンシャイン同盟』のサーバーにアクセスした。通話は始まっていない。通話で得られるものはまだまだあるので、通話を始める。すると、昨日同様少し時間が経ってから、志茂や西藤、更には昨日はいなかった森木が通話に参加してきた。
「今日も喋れないのか」
「喋れないみたいだな」
「今日も、とは?」
昨日通話にいなかった森木が他の二人に尋ねた。森木の声は何故か聞くだけでむかっとする、いわゆるナルシスト気質の上から目線な声だ。その演技じみた声は確かに苛立ちを誘うのだが、他のメンバーはそういった反応を示していないので、いずれ慣れるものなのだろう。
「今あいつは理研宿に行ってるの。で、理研宿は当然だが自分のスマホとかPCの持ち込み禁止だろ。だから、喋れない。喋ったらバレちまうからな」
「でも、今個人部屋じゃないの。喋っても大丈夫でしょ」
「お、確かに」
涼子はぎくっとして、喉を鳴らした。確かに個人部屋でなら、通話で喋ることは可能だ。
「同室に教師がいるとかな。まさか」
「あり得ない話ではなくね」
「じゃあそういうことにしとくか。別に浜辺を疑いたいわけでもないしな」
涼子はまたしても難を逃れ、胸を撫で下ろした。
「そういえばさ、漆原がさ」
と今度は、西藤が切り出した。漆原。聞いたことがない名前だ。涼子はとりあえず裏紙にその名前を走り書きする。
「お前は漆原にいじめられてるわけじゃないだろ」
と森木が反応する。すると、西藤は
「そうだけどよ。森木がいじめられて、俺がいじめられないってどうして言える?つまるところ、あいつから目をつけられそうだって相談だ」
と困った様子で言った。涼子は、裏紙の漆原という字の下に森木、西藤と書き、その間を矢印で結び、矢印の横にいじめてる、と記した。
「どういうことがあったの」
森木がそう尋ねたが、西藤はすぐには答えなかった。代わりにぽりぽりぽりと頭を掻く音が聞こえた。しかし、答えないままでは何も変わらない、と思ったのか、話を始めた。
「最初はちょっと揶揄われたぐらいなんだよ。どーでもいいことをな。俺のクリアファイルのアニメキャラとかがオタクでキモいとかなんとか。まあ、どこにでもあるようなしょーもないやつだ。ただ、それ放置してたらあいつら、調子乗ってきてさ。物勝手にとったりし始めて、最近は俺の金を盗んだりもする。今まで俺をいじめてた奴らはさ、暴力とか揶揄いとかはするけど、ビビリだからか、精神年齢が幼いからか、危ないことはしなかったんだよ。その分、あいつらのいじめは、馴れ合いにも見えるから、中学の頃からずっと続いてるんだけどな。でも、その程度のことしかしかない奴らとだったから、俺はこんなサーバー立てるぐらいの気力は残ってたんだよ。もっとひどいいじめ受けてたら、精神病んでこんなサーバー立てれねえな。
だが、漆原にいじめられ始めて、今まで俺が受けてたのは馴れ合い程度のもんだったとわかった。漆原たちは、俺の金取ったり、俺にレジ荒らしさせたりさ、幼くないんだよ。本当のいじめなんだよ。放ってたらどんどんどんどん酷くなる。もう手遅れだ。それをされて気付いたんだよ。いじめは癌みたいなもんだってな。早めに手術しないといけないんだ。ただ、手術で摘出できるかわからない、何かこちらで対策をとってもどんどん転移してもう収拾がつかなくなるかもしれない。そういうところも癌だなって」
西藤は言い終えると、全てを吐き出してしまい、吐き出すものがなくなったかのように静かにふっと息を吐いた。涼子はその迫力に圧倒されてしまった。いじめられている人はその現状を親や教師に滅多に話さない。だからこそ、いじめられている人間がどう思っているかなど、小説などでのフィクションの世界でしか知らなかった。しかし、現に目の前で当事者が思いを全て言葉にして必死の熱弁をした。涼子にとって、現実にあるものと知っていても何か実感の湧かない物だったいじめの形が一気に見えた。それは、涼子の想像通り、苦しく、真っ黒な場所だった。まさに癌だった。
「いじめは癌ね、なるほどー。勉強になるわー」
と森木が煽るように言った。
「なんかうざいな」
「勉強になったよぉ〜」
調子に乗った森木が更に煽る。西藤は冗談っぽく
「とっとと首吊って死んでしまえ」
と言ったのだが。
涼子にはやはり、このギャップは違和感を覚えるものだった。先ほどまでいじめについて真剣に、そして、苦しげに語っていた彼が普通の会話では首吊って死ねなどと言っている。死ね死ね言ってる人間がいじめられているように見えるだろうか。
しかし、このギャップこそが現代社会にていじめが見つかりにくくなっている要因なのだと涼子は考えた。現代社会では若者は、ばーか、あーほ、のような仲間内の上段のからかい言葉として、死ね、を使う。涼子が幼かった頃よりも、死ねの重さが格段に軽いのだ。死ねに留まらず、様々な大人と子供のジェネレーションギャップが、大人から子供を見にくくして、いじめの発見を遅らせている。
流石に西藤の話は涼子の体力的にはなかなか重い話で、涼子は疲れ切ってしまい、通話を去った。
5
そして、円が理研宿から帰ってくる日。涼子はその日もPCにて『サンシャイン同盟』を覗こうとしたが、円が早めに帰ってきてしまった時のことや、出来るだけ円が行く前の状態に部屋を戻さなければならないので、安全のためにPCを開くのはやめた。
その行動は後から考えれば正解で、涼子が考えていたより二時間近く円が帰ってきた。どうやら、理研宿のプログラムが一つ、雨で中止になったらしい。中止になったプログラムは円が楽しみにしていた古生物学に関するプログラムなので円は相当落ち込んで、苛立っていた。家に帰ってくるなり、部屋の中に閉じこもってしまったが、涼子はいつものように、出てくるように言う気にもなれなかった。多分、彼は今、『サンシャイン同盟』の通話にて古生物学のプログラムに参加できなかったことの愚痴を言っているのだろう。そんなことを呑気に想像していると、涼子はまた昨日の西藤の話を思い出し、幽霊でも見たかのように青褪めてしまった。
それからは涼子も出来るだけ円がいじめられているということについて考えないようにしていた。ただ、いじめられているということを知った上で考えてみると納得できる点もたくさんあった。例えば、運動音痴で基本的に運動をすることのないはずの円が両足の”弁慶の泣き所”に打ち身をつけて帰ってきたことや、中三の頃ぐらいから、ほとんど物を買っていない円が頻繁に追加の小遣いやお遣いをねだるようになったこと、家では機嫌が悪いことが多いことなどだ。いじめられている子は内弁慶になりやすいと聞いたことがある。しかし、いじめられている子は家でも静かなどという例もありそこは多種多様なのかもしれない。
だが、打ち身をつけて帰ってきたことや、お金を欲しがること、特に家に物が増えているわけでもなく、彼が課金をしているわけでもない(『ミマモリ』に設定で課金を行うと通知がくるように設定している)。
6
しばらく、涼子はいじめから目を背けた。自分の誤解かもしれない、円が理研宿に行っている時に見たのは幻覚だ、と。しかし、それは許されなかった。プロ野球では、開幕時に歴史的連敗をした阪神タイガースが少しずつ勢いを取り戻しつつあり、阪神ファンの夫は夏休みに観戦に行くため甲子園のチケットを取ろうとしている頃、円も幸太も期末考査の真っ只中だった。円のクラスの担任教師、山﨑先生から電話があった。
「お電話すいません。三丙高校の山﨑です」
時刻は正午を回ろうとしていた頃だった。定期考査の日は午前中で帰ってくる子供達だが、円は成績があまり良くないので学校に残って自習しており、幸太は学校の友達と一緒に図書館で自習している。夫は当然勤めなので家には涼子一人だった。
「あ、はい」
涼子は学校から電話が来るのが久々で、緊張してしまう。
「浜辺円君のお母さんですね」
「はい。円が...何か?」
「それがですね、昨日午後四時頃、円君が『100円スーパー』にて計二千円相当の物をお金を払わずにこっそりと取って帰ってしまい、スーパー側から昨日学校に問い合わせがありました。そのスーパーを円君は頻繁に利用していたので顔見知りになっていたのか、スーパー側は円君の名前まで把握していて。本当なら昨晩お伝えするべき事柄なのですが、昨晩はそのことでなかなかドタバタしていまして。連絡が遅れたこと、誠に申し訳ありません」
山﨑先生は機械的に淡々とそれを告げた。いつもは気にならない山﨑先生の口調が、何故だかまるで涼子を責めているかのように聞こえた。
「スーパー側からは盗んだ商品の値段、つまり二千二百円分払えば警察沙汰にしないと言われています」
「円が?」
信じられず涼子は聞き返す。
「円が? 本当ですか? 何かの間違いの可能性も...」
涼子は認めたくなかった。意地でも円の万引きは何かの間違いだということで済ましたかった。だから、無駄だと分かっていても言い返した。
「防犯カメラの映像も確認しました」
「でも...」
「そして、今、隣の生徒指導室に円君がいるのですが、円君はやったと認めました」
「ああ...」
涼子はへなへなとその場に崩れ落ちた。目には涙が溜まっている。しかし内心では、まだ何か逃げる方法があるのではないかと考えていた。
「過去に生徒が万引きを行ったケースは本校でも何件かありました。その際に、裏でいじめが問題になったケースもあるので、円君がやったとは言い切れません。しかし、とりあえず、話をしないことには...」
いじめ、という単語を聞いた時、再び涼子の目が生き返った。そうだ、いじめだ。円が自分の意志でやったことではないのだ。
「今日行けばいいのですか」
「それがまあ、考査もあって、そういうわけにもいかなくて。今週末、七月九日土曜日の午後に来ていただけませんか」
「わかりました」
「このことについては今日家でじっくり話していただけると幸いです」
山﨑先生は終始事務的な口調で要点だけを説明した。
涼子は電話を切ると、すぐにメールでこのことを夫に連絡した。しかし、夫にはいじめの可能性については教えなかった。
そもそも、夫は最近円を本当に愛しているのかが怪しい。無愛想で、成績のことだけ説教を垂れて、しかも酒が入った状態で。ただのストレス解消でやってるようにしか見えない。そんな夫がまじめにいじめられている可能性を取り合ってくれるかわからないし、もし信じても彼は正しい行動を取るだろうか。
いきなり円に、「いじめられているのか?」なんて言ったりしないだろうか。いじめられている子はそれを親に知られたくないと思っている。だから、出来るだけ知らないふりをし通したいのだ。
夫、浜辺作人は涼子が二十五の時に、大学の友人経由で知り合った。彼は当時二十七歳で、定職には就かず、ひたすら画家の夢を追い続けていた。そんな彼のがむしゃらな姿勢や、夢をあきらめない信念の強さに涼子は惹かれた。そして、翌年、入籍し、涼子は彼のために身を粉にして働いた。しかし、彼は画家としてなかなか結果を残せない日々を送った。涼子は常にそんな彼を応援していた。
しかし、入籍から三年して涼子がお腹に子供を授かった時、彼は夢を諦めた。その時彼は悔しそうな表情だったが、制限時間が来たようだ、と自分に言い聞かせて絵を描くのをやめた。その後、彼は自動車の中小企業に入社。収入は正直良くなかったが、彼は必死で働き、子供を養っていけないほど、金には困らなかった。円はすくすく育った。円という名前は夫が高校時代、本当にお世話になった恩師の名前らしい。偶然、涼子の父親の名前も円で、涼子はいい名前だと納得した(父の恩師と涼子の父親は当然別人だったが)。
更に、彼の勤める企業も一、二年で不景気な中ですくすく育ち、いつの間にか収入も十分すぎる量になっていた。そして、円が二歳の時、もう一人子供を授かった。夫は幸太と名付けた。
そして、その子もすくすくと育った。涼子は最高の家庭を築けた、と心から喜んだ。しかし、そう順調な日々は当然長くは続かず、円が中学に入学する頃、夫は酒に呑まれた。仕事がうまくいかなければすぐ酒を飲んだ。涼子はその頃から子供たちが学校に行っている間だけバイトをするようにしていたので、家計が傾くことはなかった。しかし、円と夫の仲はどんどん傾いていった。
そのうち、円は夫と話さないためか部屋に引きこもりリビングに姿を現さないようになった。今時、テレビがなくても、ネットでそれに代用できるものは沢山あるので、円は家にいる多くの時間を部屋に篭って過ごすようになった。夫は何度かそれを咎めた。しかし、円は絶対に反発する姿勢を崩さず、ついに夫は諦めた。
夫は空気を読めない、雑で語弊のある言い方をすれば頭の悪い人なのだ。涼子はそう考えていたものの、夫に反発する気力は到底なく、知らないうちにストレスを抱えていた。一方で、もっと親としての円のために何かしなければならないとも思っていた。だからこそ、円のいじめは涼子だけの力で解決しなければならないのだ。
7
円が家に帰ってくるなり、涼子は円にこのことを問い正した。しかし、円は「魔が差した」と答えて、自分の部屋へと駆け込んでいき、中から鍵を閉めた。涼子は内心で、円がいじめの圧力のせいで万引きしてしまったと答えてくれるのではないかと思っていた。だが、そんなことはなく、彼が魔が差してしまっただけと答えたので、さらに気分が重くなった。
先に帰ってきていた幸太は何があったのか知っているようで、涼子に、兄ちゃんは悪くない、と何度か言っていた。円が通っている中高一貫校に優も通っているので、何があったか知っていてもおかしくない。しかし、お兄ちゃんは悪くないとはどういうことだろうか。まさか、幸太は円がいじめられているということを知っているのか。
そして、夕飯前に、夫が帰ってきた。夫は恐ろしい形相で、円を叱った。何度も何度も、大声で怒鳴った。時には静かに語ったりと、説教でできる全ての術を使っていた。だが、円は泣かなかった。泣かなかったが反論もしなかった。お前の言う通りだ、という目で夫の方を見つめていた。
そして、土曜日、学校にて面談があった。涼子は無念なことに涙を流してしまった。面談室というこの空間に息子が、円が呼ばれたことを改めて認識すると、涙を抑えられなかった。しかし、涙が流れている割にはそこまで取り乱さなかった。
面談を担当したのは、担任の山﨑先生とは別の先生だった。山﨑先生よりは若干若い印象を受ける先生で、服装がジャージだったので、体育の先生だろう。昨晩のような恐ろしい形相をした夫を見ても、その先生は慄く様子は見せなかった。
「ご両親の方は事情を把握しておられますか」
その先生に聞かれて、涼子は頷いた。隣で夫も頷いている。
「一応、こちらから概要をお話ししますと、一昨日、浜辺君は『100円スーパー』にて複数の商品を...」
その先生がだいたいの流れを再度説明しようとすると、夫が声を荒げて
「知っとると言ってるだろう」
と怒鳴った。その先生は流石に慄いたようだったが、一番辛かったのは涼子だった。恥ずかしすぎる。教師に楯突いたりするなど、子供のやることだ。万引きした子供の親として、もっと遠慮するのが普通ではないか。
その先生は謝って続きを話し始めたが、涼子の耳には入ってこなかった。心の中ではひたすら、その先生に謝っていた。
今度は、夫が、先生の質問に返事をしなかった円に怒鳴った。涼子は涙を拭くふりをして、目や耳を覆った。恥ずかしすぎて見ていられない。面談室で怒鳴り声を上げるなど...学校と家の間に線引きをするのが普通なのではないか...。
もう涼子の耳にはその先生の声も、夫の声も、円の声も全く入ってこなかった。しかし、涼子の視界に、夫がすごすごとする様子が映ったため、涼子は耳を覆っていたハンカチを退けた。
「...こう考えてみてください。浜辺君が万引きしたお菓子は全て、浜辺君とは別の子の元にあるというふうに」
先生の声だった。ここまでの会話を聞いてない人にはこの先生が何を言っているのかわからないはずだろう。しかし、涼子には何を言っているのかがよくわかった。この先生は円がいじめられていることを知っているのだ。
「つまり、円はいじめに...」
夫が目を見開いて呟いた時、円がまるで続きを言わせたくないように慌てて大声を出した。
「なんで山﨑先生じゃないんですか?」
「うん?」
夫が首を傾げた。確かに、なぜ、山﨑先生じゃないのだろう。その涼子の疑問を円がそのまま夫に告げた。
「そ、それは、今日は山﨑先生が居られなくて」
「朝いましたけど」
「放課後から出張が」
「出張がある日に面談を入れたんですか」
「急遽決まったことで」
完全に円がその先生を追い詰めていた。涼子はいじめの話に戻そうと、何か言おうとした。この先生は担任の先生ではないが、円のことをよくわかっている。この先生になら、全てを話してしまっても...。
しかし、涼子の考えがまとまらないうちに、担任でない教師を面談に連れ出したことに腹を立てた夫が勢いよく面談室を出て行った。円もそれに続いて出て行く。涼子はこの先生に申し訳なくて、しかし、謝罪も、しづらく
「知ってらっしゃったんですね。ありがとうございます」
と感謝を伝えた。
その日の晩は夫はひたすら機嫌が悪かったが、酒を大量に飲むことも、円を叱ることもしなかった。ただ、無言でテレビのバラエティ番組を笑顔一つ見せずに見ていた。涼子にはその様子が逆に不気味に感じられた。円はいつも通り、家に帰るや否や部屋に篭るという様子。食事中もいつも通り円は言葉を聞かない。更には、夫の様子を見てか、幸太まで静かだったので、本当に葬式のようだった。
8
それからどれくらい後だっただろうか。夏休みを挟んで...一ヶ月ぐらいは経っただろう。そんな頃に、涼子の耳に驚いても驚き切れないニュースが届いた。
そのニュースが飛び込んできたのは電話で島田というママ友と雑談していた時だった。
「この前は本当にありがとうございます」
「いえいえ、浜辺さんこそ、たくさんの美味しい蜜柑をくれて。息子が蜜柑大好きで、すぐ食べちゃって」
「そうですか。ありがとうございます」
「それにしても、円君の件は大変だったねえ」
「本当にお恥ずかしい限りで」
電話越しなのに、涼子は顔を真っ赤にする。
「いやいや、若気の至りですよ、あんなの。寧ろ今のうちに叱っといたら、もうこれ以降悪いことしなくなっていいじゃないの」
「いえいえ、そんな」
島田さんは涼子より六歳も年上なので、涼子は少し畏まった口調になってしまう。
「そういえばね、浜辺さん知ってます?」
「え?」
突然、声を顰めてまるで内緒話をするかのように言ってきたので涼子は何を言い出すかとドキドキした。
「これ速報なんですけどね」
島田さんは典型的な大阪のおばちゃんタイプの人なので、声の抑揚の付け方や、もったいぶり方などの話術が長けている。
「え、なんですか」
「実は、人が死んだらしいの」
「それは...三丙学院で?」
「そうそう」
「え、それは」
「つい一時間前ぐらいの話なのよ。わたしの友達がメールで教えてくれたんだけど」
「それは事故なんですか」
「それがね。自殺らしいの」
自殺...。学生の自殺の原因といえば決まっている。
「いじめ、ですか」
涼子は慎重に尋ねた。
「そうなのよ。これ実は本当に裏情報なんだけどね、遺書が入ってたらしいの、遺体のポケットに。そこにはいじめの苦悩がつらつらと書かれていたらしいのよ」
「それは、誰が...」
「それがまた意外な子でね。郷君が自殺したらしいの」
郷...? その名前はどこかで、聞いたことが。
「あんなに明るくて優しい子だったのにねぇ、まさかいじめの被害者だったとは。うちの子も郷君とは中学一年生の時に同じクラスでね、結構仲が良かったらしいのよ。ほら、出席番号が近いじゃない、島田、だから」
「郷君の苗字って...」
「志茂。志茂郷君」
志茂...『いじめられっこ同盟』にいた、あの。確か、明るくて陽気な彼が。彼が自殺した。
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