3:被害者2
六月三十日
『理研宿』とかいう糞ゴミ行事から帰宅した。ただでさえ、最悪な行事なのに、今回は化石発掘が雨天中止となったため一切楽しいことなく、完全マイナスな糞行事だった。相室となった生徒からも変な目で見られるし、ああ、最悪。
なぜここまでついてないのかと自分が不安になる。
家に帰ると手を洗うよりもうがいをするよりも真っ先に階段を駆け上がり、自室に飛び込んだ。こんな糞行事の後、僕の心の救いは『サンシャイン同盟』しかない。いや、糞行事の後でなくても、大滝に理不尽に殴られた後、親にうんざりした後、ストレスが溜まった時はここで癒してもらうしかない。
「ガチでゴミだった」
通話に入るなり僕は愚痴を言う。
「『理研宿』?」
「そう。ってあれ、森木は?」
「森木は図書館」
「図書館? 彼らしくないなぁ」
「今は多様性の時代だぞ」
と西藤。
「お前が多様性を説く時代が来たとはな」
と森木がグッドタイミングで通話に参加してきた。図書館から帰ってきたようだ。
「おかえり」
「こちらこそおかえり。『理研宿』はどうだった?俺がいなかったからつまらなかっただろう 」
という森木のボケ(なのかガチなのか)を無視して僕は乱暴に言う。
「どうもこうもゴミ。化石のやつも雨天中止」
「あらら。お目当てが中止になったのはご愁傷様」
「『理研宿』なんて中高一貫校でも珍しい糞システムだろ。まあ任意だからいいけどな」
僕は激しく同調し、画面の前で何度も頭を縦に振る。
「三丙中学校高等学校は中高一貫校の癌。志望率は最下位、死亡率は第一位」
「おもんな」
西藤は自分が上手いことを言ったと勝手に思っていたようでええ、と声を漏らした。
「そもそも日本人の死亡率第一位は癌じゃないし」
「え、まじ」
「癌じゃなかったら何なの」
僕が尋ねると森木は
「まだまだだね〜」
と煽ってくる。
「ムカつくな。絶対正解見つけてやる」
と西藤が闘志を燃やしたところで、さっきから静かだった坂田が
「中絶でしょ」
と言った。なるほど。そういえばどこかで聞いたことがあるような気もする。
「正解」
「はぁー。なんかずるくないか。いや、ずるい。インチキだ」
「どこがズルいのやら。中絶された赤ん坊もれっきとした日本人ですよ〜」
森木が煽り、西藤が言い返そうとしたがそれを遮って志茂が
「そういえば浜辺何で昨日と一昨日、通話には入ってきてたけど喋らなかったの」
「え、何のこと」
僕は何の話をしているのか全くわからず聞き返した。昨日と一昨日? 僕は『理研宿』にいた。だから、通話に入ることなどできるわけがない。
「え、昨日と一昨日、『サンシャイン同盟』の通話に参加してたよね」
「何かの冗談? 僕が『理研宿』行ってる間にこっそり僕をびびらそうと話し合った感じすか?」
「いやいや、そんなんじゃない。昨日と一昨日、通話にいたじゃん。喋ってなかったけど」
「いやいやいや。ちょっと待ってちょっと待って。神に誓ってそんなことしてないぞ」
「でも、通話にいたけどなぁ」
西藤が訳がわからなさそうに言う。この様子を見ると、彼らが僕を騙そうとしているということはなさそうだ。しかし。
「いや、そんなはずはない。『理研宿』にはスマホもタブレットもパソコンすら持っていってないし」
「おかしいなぁ」
「誰かがお前のアカウントを使って通話に入っていた、とか。まさか」
西藤はそう言って笑ったが、正直その可能性は否定できない。
「でも、誰が」
いやに真剣な声で森木が言うので、僕も段々不安になってくる。
「ハッキングか、もしくは浜辺の夢遊病」
西藤はこんな状況でも冗談を言うのはやめない。
「夢遊病ではないです」
すかさず僕は訂正した。でも、当然、ハッキングの可能性の方を訂正することはできない。というかその可能性しか考えられない。誰が、何をするためにハッキングをしたのだろうか。
「ハッカーにパスワードを知られたということか」
「でも、ハッキングした場合、その後パスワードを変更して、アカウントの本当の持ち主がアカウントにログインできないようにすることが多い。でも、今回はそうではないみたいだ」
依然真剣な様子で森木が言う。
「とりあえず、パスワード変えたら? 今のパスワードのままだったらそのハッカーに知られている状態のままになってしまうし」
「そうだな」
僕は『According』のアカウント設定画面からパスワードを変更した。
これで一安心、なんていうことはない。そのハッカーはまたハッキングしてくるかもしれない。そして、何よりそのハッカーが何者かという問題が一番にある。
「そのハッカーは誰で、何のために浜辺のアカウントを乗っ取ったのか。謎だ」
森木が異様なほど真面目な様子で言った。
「最大の謎は、不意に真面目モードみたいなのに突入したお前だよ」
西藤も違和感を覚えていたらしくそう言い、森木ははっとして
「あ、ついうっかりしてた。まあ脳ある鷹は爪を隠すってね」
と元の様子に戻った。
「何言ってんだか、禿鷹が。そんなことより、誰がハッキングしてきたかだろ」
「あん、禿鷹?」
森木がいつも通りの様子で反応し
「まあまあ」
と志茂が仲介する。
「んまあ、あれだな。気にしない方がいい。気にしてたら面倒だろ」
西藤の言う通りだと僕も思う。次ハッカーがアカウントに侵入してきたらまた、対応すればいい。聞く限りでは、向こうは勝手に通話に入って無言でそのまま会話を眺めるということしかしてない。それなら大して害もない。相手の狙いはわからないがとりあえず僕は気にしないでいることにした。
七月一日
起床。と同時に押し寄せる学校に行きたくないという願望。ただ、この願望は永遠に僕に付き纏ってくる。だが、僕は学校に行く。それは、将来のためであり、親兄弟、知人からの視線が怖いからでもある。
いじめは苦しい、そして、辛い。今は大滝が絡んできてはいないものの、あと少しすればまた、あいつらに何かされる。そして、僕は期末考査の模範解答を盗んだ者として、そして、大滝をいじめている側の人間として他者から見られている。この誤解は僕の力では到底解くことのできない誤解だ。これは『理研宿』で数日間学校がなかったがその数日間で変わる話ではない。
逃げたい。全てを放り出して、どこか誰も知らない場所でひっそりと暮らしたい。しかし、僕は決してそうすることもしない。度胸がなく、今のネット環境が自分から無くなれば全てがなくなってしまうと恐れているからだ。
何か良い手段はないかと試行錯誤して、いつも結局どうしようもないという結論に達する。
朝休み、ゆっくり読書をしていると山﨑先生が教室にやってきた。
「大滝はいるか」
僕はまるで自分の名前が呼ばれたかのようにぞくっと背筋を震わせる。そして、周囲を見渡す。が、このクラスには大滝はいないようだ。ある生徒が山﨑先生に尋ねた。
「大滝君はうちのクラスじゃないですよ」
「いや、それはわかっているんだが。ちょっと用があって。どこにいるかい」
「多分、校庭で野球かドッジボールか何かをしているんだと思います。呼んできましょうか」
「ああ、すまんな。頼む」
僕はその会話を耳にした時、大滝がどのクラスにもいないという情報だけで、大滝はどこかで何かしらの方法で死んでしまっているんじゃないかと馬鹿らしい期待をした。しかし、そんなことは当然なかった。大滝はグローブを左手につけ、右手で野球ボールを弄びながらさぞかし元気そうに帰ってきた。
「なんすか、山﨑先生」
「グローブとボールを置いてください。着いてきてください」
なんだろう? 山﨑先生のテンションからして大滝を誉めるイベントが始まる可能性は低い。ポーカーフェイスな教師だが、声色でわかる。多分、説教だ。しかし、大滝が説教? 僕の中で大滝が説教される原因は一つしか思い当たらない。”模範解答売買”。
だが、よくよく考えるとそれはおかしい。大滝は僕が盗んだと売った相手に伝えていっているはずだ。だから、もし、誰かが教師にちくったとして、呼び出されるのは僕と大滝、少なくとも僕は呼び出されなければ納得がいかない。
しかし、それ以外に考えられる可能性がない。
そんな予測をしていると、ものの十分ほどで大滝は教室に戻ってきた。模範解答の売買で呼び出されていたのならこんな早く済むはずがない。また別の説教を受けたのだろうか。
「どうした、大滝」
数人の生徒が大滝のそばに駆け寄って尋ねる。
「気にすんな、成績が悪いって説教くらっただけだ」
嘘だ。僕は口に出したいのを堪える。嘘だ、この学校は成績の悪さで説教はしない。僕は大滝よりもダントツで成績が悪いのに呼び出しなど食らっていないのだから。
そう考えていると大滝が僕の席のところにやってきた。
「本当はなぜ呼び出されたの?」
やや強気に僕が尋ねると大滝は声を顰めて言った。
「解答の売買を誰かがちくったらしい。どうやら匿名の通報だったらしいがな。俺がうまく言い返して、事実を隠蔽しといたから感謝しろ」
「ありがとう」
これは素直な感謝である。大滝がここで上手く受け流していなければ、僕がバレて退学や停学になっていたかもしれない。停学ならまだいいが、退学になったらその後の生活に困ってしまう。どちらにせよ親にはこっぴどく叱られるし、バレなかったのは喜んでいいだろう。
僕は家に帰ると早速この出来事を『サンシャイン同盟』で話した。
「チクリ野郎なんてうじゃうじゃいるからな」
西藤が仕方ない、といった様子で言う。
「これが情報化社会の闇なのね」
僕は適当に相槌を打つ。
「クソ真面目な奴がちくったんだろ。クラス三役やってるような奴とか」
「まあ、バレなかっただけ感謝」
「大滝はなかなかな口上手なのだろうな。そうでなければ、教師から疑い掛けられて逃れるのはそう簡単じゃない」
と森木。
「そのせいでいじめがバレてないんだけどね」
と僕は深いため息をついた。そんな僕に気を遣って森木が
「ま、まあ、バレなくてよかった。んま、俺でもバレてなかったと思うけど」
と明るく言う。
「また、イキリ散らかしやがって。お前なら一瞬でバレてたな」
「いいや、余裕でバレてなかったと思うね」
「じゃあ、どうやって言い返すんだよ」
「そんな簡単なこともわからないの? 証拠がないでしょって言えば終いじゃん。それで押し通せばね」
それはその通りだ。
「国会議員かよ」
「とりあえず、大滝もバレたらおしまいだから必死で頑張ったんでしょう。かく言う、俺もバレたらやばかったし」
「お前も模範解答買ったのかよ」
「ま、買わなくても正直点は取れるけど、折角の機会なので」
森木は相変わらずのペースを崩さない。
「さぞかしいい成績なんでしょうねぇ〜」
西藤が煽るが、実際森木は成績はとてもいいので煽りになっていない。ナルシストなのに実際の成績が良いというのはとてつもなくムカつく話だ。
「大丈夫だったってことだよね」
志茂が心配そうに尋ねる。
「多分。これに関しては大滝を信じるしかない」
大滝なら僕のいじめを隠すのと同じように、この件も上手く隠しているはずだ。
結局、その後、話す話題がなくなり。通話はそこで終了となった。
七月二日
気がついたら試験二日前。なのに、運が悪くも、模範解答の売買を誰かにチクられ、安全のため売買はここで終了にすることを決めた大滝は、休み時間から放課後まで終始僕のところに来てやりたい放題してくれた。
弁当をわざとらしくひっくり返したりされたが一番しんどかったのは昼休みだ。
昼休みは校庭でドッジボールをした。僕vs大滝、井伊、本田の。外野からも内野からも強烈なボールが飛んでくる。しかも、二球のボールを使うということで、片方避けても片方に当たり、それを三十分間ずっと繰り返したせいで、僕の全身はじんじんと痛み、体は限界を示していた。しかし、放課後も古くからある駄菓子屋で万引きをさせられ(ここで万引きするのはもう早くも二回目で)、取り分は一割と体も心もボロボロ、家に帰っても到底試験勉強したくなるような状態ではない。
親にはとりあえず勉強していると伝えて部屋に篭り、ずっとインターネットで漫画を読み耽った。
成績は100パーセント確定で悪くなる。十分低い僕の成績はさらに下落の一途を辿るのだろうか。不安だが、やはり体力的、精神的限界だった。
通話もする気力なく、僕は夕飯を食べて風呂に入るとこてんと眠ってしまった。
七月三日
救いの日曜日。だが、試験前日。
僕は必死になって期末考査の勉強に勤しんだ。今日勉強しないでいつ勉強するというのだ。少なくとも、万全の肉体、精神状態で勉強できるのは今だけだ。僕はそう心に決めて励んだ。
僕のモチベーションを上げた理由はもう一つある。それは、明日、つまり、試験初日に日本史があるということだ。
僕は模範解答を持っているので、それを片っ端から丸暗記すれば確実に満点が取れる。これほど効率良い勉強がどこにあるだろうか。精神が滅入っていたからか、罪悪感などは一切覚えなかった。とにかく機械的に、無感情で脳に詰め込んでいく。
記号や数字を覚えるのはやや難しかったが、何とか100パーセント頭に叩き込んだ。
七月四日
初日。日本史は満点の自信あり、いや、確信あり。大滝が最終的に何十人の人に解答を売ったのかはわからないが、ある程度平均は高くなるだろう。それでも、満点あれば問題はない。この世に満点に勝るものはないはずだ。まさか平均満点ということはないだろうし。
定期考査が終わった後、大滝に何かされないかと若干不安になったが、その不安は余計なお世話で、彼らはテスト勉強のためにすぐに帰ってしまった。
僕も、折角午前で帰れるのに学校に残って自習するようなバカはしないので、家に帰る。
流石に勉強をしないわけには行かないが、僕は少しだけと自分に甘くなって『サンシャイン同盟』にて通話に参加した。少し待つと西藤、坂田がやってきた。
「日本史満点キタコレ」
早速西藤が嬉しげに言う。
「平均なかなか高くなるだろうけどね」
「平均高くても満点に勝るものはない」
完全に思考が被った。
「坂田はどうだった」
「まずまず。日本史の解答とかは買ってないから」
「ああ、そうなんだ。言ってくれたら無料で教えたのに」
「無料!? くっそーお前に聞けばよかったぁぁ。そしたら無料で手に入れられたのかよ」
西藤が悔しそうに唸る。
「まあまあ。他の科目はどうだった?」
「無事死亡」
と西藤は即答し
「ご愁傷様です」
と僕もテンポ良く返す。
「まあまあできたかな」
坂田はうまくいった様子だ。
「てか、あの日本史のテスト、模範解答持ってない人からしたらどんなレベルなん」
西藤が尋ねると坂田は少し考える間を開けてから
「六割ぐらいが平均」
と答えた。つまり、もしこれで平均が九十点とかだったら、僕は三十点も平均を上げたことになる。そんなことを考えるとなんとも複雑な気持ちになる。罪悪感も湧いてきたが、それよりも、自分はすごいことをしてしまったんだというぼんやりとした感覚が強かった。
「あんまり気にすんなよ」
僕がずっと黙っているのでそれを心配してくれたのか、志茂が言った。
「ありがと」
「日本史苦手な俺みたいな人間はお前に感謝してるから」
「お前は全部科目苦手なのかよ」
西藤が志茂を煽る。
「お前に言われたくないわ。お前得意教科ないだろ。俺は一応...」
「一応?」
「すまない、得意強化なんてなかったわ」
得意教科がないというより、勉強を全くしてないだけでは?
「一応俺は、得意教科あるぜ」
「ほう」
「体育」
「そりゃそうだ」
志茂が苦笑いでため息をついた。
「ま、解答には心から感謝ということで。あと、何度も言うけど浜辺じゃなくて、悪いのは大滝。それにしても、英語難しすぎ」
志茂は必死で僕を慰めてくれているようだ。僕はその気持ちだけで十分嬉しかった。
ちなみに、英語も今日実施された科目で、僕は...案の定、残念な結果に終わった。
「みんな英語何点ぐらいなの?」
西藤が尋ねる。
「あれ、お前は無事死亡したんだったっけ」
「人の傷を抉るな」
「抉るきっかけ作ったのは西藤」
志茂が正論をぶつけ、西藤は拗ねてしまったのか黙って通話を抜けた。
「今日『MWS』する?」
考査期間中でも平気で志茂がそう尋ねてきて、彼の成績は更に下がるんだな、と予測しながら、僕はそれを断り通話を抜けた。
とっとと期末考査なんぞ終わってくれ、僕はそう願いながら勉強を始めた。当然、続くわけもなく。
七月五日
考査の体感はそこまで悪くもないが、僕の気分は最悪だった。
終礼が終わってすぐ、大滝が僕の机の元へとやってきた。井伊本田の二人もセットだ。
「おい、浜辺。お前もテストで疲れただろ」
僕はうんともすんとも返さない。
「まあそんな無愛想になるなって。疲れを癒したいだろ。だから、いいとこ連れて行ってやる」
「家に帰って勉強が...」
僕はそう言ったが、大滝は許してくれなかった。僕の腕を彼の物凄い太い腕が絡めとったかと思うと、目的地目指してのっそのっそと歩き出したのだ。そんな僕の様子を見たやつはみんな僕を馬鹿にするように笑った。ここまで僕がされているのを見ておいて、大滝がいじめられている側だと勘違いする人がいるなんて正直理解はできない。だが、事実、あの図書館の女子のように、表では弱いように見せかけて裏では大滝をいじめている、そんな卑怯で蛇のようなやつが僕だと考えている人はいるのだ。いじめられているとまでは思っていなくても、僕がいじめられているという結論に達した人間はいない。まずいない。
大滝の語る癒やしの場所とは『100円スーパー』という近くのスーパーマーケットだった。
「どこが癒やしの場所なんだよぉ」
面倒になるので出来るだけ不満は言わないようにしている僕だが、流石に勉強時間(実際はゲームやネットに費やすかもしれないが)を削ってまでもよくわからないことはしたくないので、文句を言う。
「俺はアイスが食べたいな、三つぐらい。お前らは?」
「俺はシュークリーム二つ」
「俺はプリン三つ」
突然、彼らがそんなことを言い出した時、僕は暑さで頭がとろけてしまったんじゃないかと思った。『100円スーパー』という名前だが、売られている商品は全て百円均一というわけではない。高いもので五、六百円のものもある。
「お前は?」
突然、大滝に尋ねられて僕は戸惑ったが
「誰の奢り?」
と尋ねてみた。そして、尋ねた瞬間、僕は大体大滝たちの意図を察した。
「お前のだよ」
大滝は僕の肩に手を置いて言った。やはり、そういうことか。
「でも、僕お小遣い使っちゃって、そんな買えないよ」
ああ、この会話は過去に何度もしたことがある。だから、今から大滝に何を言われるのかもわかっている。
「こっそり貰っちゃえばいいんだよ。バレなきゃ犯罪じゃない」
やっぱり。前はここで、いい加減僕以外の誰かがやってよ、と不平を言ったら二、三発頭を叩かれた。それで出来た瘤はまだちょっとだけ残っている。
「やってくれるよな。万引きのプロ」
大滝が煽ててくる。
「解答も盗めたんだから行けるって」
井伊も調子に乗って言う。
「怪盗ハマベーンに盗めないものはないよな」
聞くだけで恥ずかしい呼び名も復活する。
「もし、見つかりかけたら助けてよ」
「当然だ。親友としての努めだよな」
こう言って助けてくれないのもわかっている。だが、僕は殴られないために万引きをすることを決めた。これで五度目だろうか、もうここまで罪を重ねたのだ。これ以上罪を重ねても何も変わらない。僕は犯罪者なのだ。
僕は『スーパー100円』の店内に入ると真っ先に防犯カメラの位置を確認した。割と昔からあるスーパーマーケットだからか、さほど数は多くない。スーパーマーケット内を巡回して、物品の補充などを行なっている店員も少ない。これなら成功する可能性も高い。
僕は慎重に、そして、店の人に違和感を与えないように注意してパンのコーナーに向かった。
そして、素早くシュークリームを発見、とりあえず品名などは確認せずに、適当に二つ掴み、手提げのエコバッグに落とす。ここをいかに素早く行うかがバレるかバレないかの鍵を握っていて、僕は素早く行うコツを身につけてしまっている。
続いて、デザート系が並んでいるコーナーに向かい、プリンを一つ手に取った。プリンは形状の都合上一気に掴むのは難しい。一個ずつバッグに落とすしかない。 しかし、一つ目のプリンを、バッグに落とし、二つ目に手を伸ばそうとした時、背後の棚の影から『スーパー100円』の従業員が姿を現した。僕はひやっとして思わず声が漏れそうになったが何とかそれを抑えた。過去にもこれぐらいひやっとすることはあったのだが、まだまだ慣れない(いや、慣れてほしくない)。見られただろうか? 出来るだけスムーズにできたはずだが...。店員はそのまま僕の真横を素通りして行った。
店員が完全に通り過ぎたのを確認して僕は再び二つ目のプリンを手に取り、落とす。そして、三つ目も。
後はアイスだけだ。僕は最後まで気を抜かないようにと自分に戒めながらアイスのコーナーへ向かう。実はこのアイスが最も難易度が高い。その理由はレジにとても近いからだ。レジから体を乗り出せば見える位置にアイスの冷凍庫がある。
僕は慎重に慎重に、出来るだけ音を立てないように意識してアイスを三つ掴んだ。アイスの種類などは見ずにとりあえず三つつかむことだけを意識した。そして、それをゆっくりゆっくり冷凍庫から取り出し、慎重にバッグの中に入れる。そして、冷凍庫の扉を閉める。
冷凍庫の冷気による寒気が数倍増しになって僕を覆い、僕はくしゃみをしそうになるのを抑えながら出来るだけ違和感がないように店を出た。
店を出た後は猛ダッシュ。あの、解答を盗んだ日の帰り道と同じ感覚で僕は走り、大滝たちが待つ、近くの公園にたどり着いた。僕は合法的なことをした後に走り抜けることはできないのか。
「よし、よくやった」
大滝は僕からエコバッグをひったくり、アイスを取り出し、食べながら言った。井伊本田の二人も各々にバッグから各々の食べたいものを取り出す。
アイス三つや、プリン二つ、シュークリーム三つなんかでいいのか、もっと色々食べた方が飽きないだろ、などと思ったりはするが多分、こいつらの目的はこれを食べることより僕に万引きをさせることにある。
「もっと大きいの持ってこいよ」
途中まで満足していた大滝が不満げに顔を顰めて言った。得意のいちゃもん攻撃だ。
「一掴みで取れる分はこれが精一杯で...」
僕は言い訳してすぐ、一発殴られるだろうと予測して顔を右肘で守った。しかし、大滝は殴ってはこなかった。
「ま、万引き成功させたんだし、許してやる。残りは俺の家で映画でも見ながら食おうぜ」
大滝はどうやら満足したようで井伊本田の二人と共に下品な笑い声を立てながら去って行った。僕は三人の後ろ姿に向かって中指を立てて、地団駄を踏んだ。悔しい。クソ野郎どもとっとと死んでくれ。
怒りやら自分への失望で感情が昂り、何もかもどうでも良くなった僕は勉強をする気が湧かず、『サンシャイン同盟』にていつも通り、通話を始める。すると、勉強する気のない同士たちが続々と通話に入ってくる。
「今日も無事死亡」
西藤は早速死亡報告をしてくる。
「もうどうでも良くなった」
「同じく」
志茂もどうでも良くなった組の一人なようだ。そして、理由は違えど、僕もどうでも良くなった組の一人だ。
「森木は今日も自習?」
昨日も森木は自習で通話に姿を現さなかった。
「あいつ勉強しなくても高得点取れるのに、勉強することで自分真面目ですよアピールを教師にしてるんだろ」
「ナルシストも大変だなぁ」
と僕は感情の篭っていない感想を述べた。
「なに同情してんだよ」
「西藤今日ピリピリしてるな。親にエロ漫画没収されたとか?」
志茂が茶化すと西藤が溜息をついて
「エロ漫画はとっておきの場所にちゃーんと隠してるわ。そんなしょーもないことじゃねえ。成績悪くてそんな呑気でいられるお前が羨ましいわ。留年とか退学になったらどうするんだよ。流石にそれはまずいだろ?」
と言った。
「まあ確かにそういうこと考えると、テストは憂鬱になるし、成績悪いと笑えないけど。でもお前、ここ最近いじめられてないんだろ? ならいいじゃん」
と志茂がフォローしたが
「それは浜辺の話な。俺は今も相変わらずだ」
と西藤が逆にイライラした様子で言った。ちょうどその話題が出てきたので僕は今日の万引きのことを彼らに言うことにした。自分の中に抱え込むとストレスが溜まるばかりなので打ち明ければもしかしたら勉強する気力も湧いてくるかもしれない。
「最近しばらくやられてなかったんだけど、今日は久々に万引きやらされた。本当にイライラするし、うざい。テンション大幅ダウン」
「どれぐらい万引きしてきたんだ」
「計十品ぐらい」
「どれぐらいってのはその話じゃなく、どれぐらいの額かって話だ」
「さあ。そんなの確認する余裕なんてない」
「まあそりゃそうか。まさかバレてしまってやばいって話じゃないだろうな」
「それだったらもっと萎えてる」
そう言った後に万引きをしてしまったというだけで十分萎えるべきことだと気づいた。しかし、気付いたからと言って、もう五回もやってきたので罪悪感など湧いてこない。いや、湧いてくるはずがない。
そこからしばらくは他愛もない雑談をしていたのだが、一時間ほど経ち、会話が滞り始めた時、志茂が口を開いた。
「じゃあ俺はそろそろ勉強しようかな」
「お、真面目だな」
「真面目で悪かったな。お前がさっき語りかけてきた通り、留年にはならないようにしないとな。確かに留年になったら終わりだから」
「そもそも何も始まってないと思うけど」
「成績良い奴は黙って指咥えて見てろ」
指咥える...それは、羨ましがるようなニュアンスの言葉だったような気がするのだが、とツッコミを入れたくはなったが黙っとけと言われたので黙っておく。さらに言えば僕の成績も特に良くない。その点に関しても...とりあえず置いておこう。
「留年は辛いだろ。二年間も高一するとかもはや地獄を超えてるじゃん。全く同じ内容をただただ二周受けるんだぞ。発狂して死ぬわ」
「発狂して死ぬどころじゃない。まず恥ずかしすぎる。金も無駄だし時間も無駄だし。まあ色々無駄だな。でも、大丈夫。俺はお前ほど成績悪くないから」
「くそ、そうだったぁぁ」
二人のどんぐりの背比べが見てられなくなったどんぐりの僕は通話を抜けて、勉強道具を取り出した。モチベーションは上がらないがやるしかない。成績も悪くていじめられていて、自分の存在が嫌になってしまう。
七月六日
今日、期末考査を受け終わるなり、僕は山﨑先生に面談室へと連れて行かれた。山﨑先生のポーカーフェイスのせいで表情から何か読み取ることは難しかったが、良いことをして面談室につれていかれるなんていうことはないだろうし、多分説教される系のジャンルのことなのだろう。
しかし、呼び出された時僕の中ではなぜ呼び出されたか察しがつかなかった。それは、思い当たる節がないというわけではなく、思い当たる節があり過ぎるというのが原因だった。僕は何のことで呼び出されたのか、模範解答盗んだ件か、それとも昨日の万引きかそれとも...。
「そちらの椅子に」
山﨑先生がそう言って、僕は案内された席に座った。山﨑先生は面談室の扉を閉めると対面の座席に座った。
「何で呼び出されたと思う」
山﨑先生はいつも通りの事務的口調で言った。僕は本当に見当がつかなかったので
「わかりません」
と答えた。
「昨日昼頃、『100円スーパー』で万引きがあったと通報がありました。そして、防犯カメラに映った映像には浜辺君が万引きをしているところが映っていました。私もそれを確認しました」
ああ、ついにバレたか。意外にも驚きはその程度だった。僕はただ山﨑先生の話に耳を傾ける。否定する気も毛頭ない。
「万引きをしたことは認めますか」
「はい」
僕のあっさりした肯定に驚いたのか山﨑先生は少し目を見開いた。だが、流石は山﨑先生ですぐに元の調子に戻って話を始める。
「では、なぜ万引きをしてしまったんですか」
僕は躊躇わずに答えた。初めて万引きした時に、もしバレたらこう答えよう、と答えを考えていたからだ。
「魔が刺しました」
いじめの事実を言いたいというのが本音だが、そんなことすれば後でボコボコにされるかもしれないし、証拠はないので大滝らが否定すれば三対一で僕が負けるに決まっている。
「過去に万引きをしたことはあるんですか」
「ないです」
あくまで過去にやった万引きは隠す。
「店側からは、盗んだ分と同じ値段を払ってくれれば警察沙汰にはしないと言われています。また、ご両親には先ほどこの件を連絡しました」
「今日後で母が来て面談があるんですか」
「いえ。こちらの都合により、定期考査の期間中に面談を行うのはできないので。教員陣も採点などがあるため難しいため、後日行います」
「そうですか...すいません」
「一応いくつか形式的な質問をさせてください」
山﨑先生の相変わらずの口調はこのような場ではとても居心地を良くしてくれた。
「まず、万引きした物は、ガリッとチョコミント二つ、ガリっとチョコバニラ一つ、プリッとプリン二つ、かわいいシュークリーム二つ。間違い無いですか」
「間違い無いです」
実際のところ何を万引きしたかは見てなかったのでわからないが、多分これで合っているのだろう。
「総額一八五〇円です。なぜ一八五〇円のために万引きなどをしたんですか」
「お小遣いを使い果たしてしまったからです」
「そうですか」
山﨑先生は裏紙にメモ書きをしていく。
「これは念の為の質問ですが、誰か一緒に万引きをしたという人はいますか」
「いません」
僕はきっぱりとそう言った。
「わかりました。反省はしていますか」
山﨑先生は僕の目をじっと見つめながら依然この口調で言う。
「店側には本当に申し訳ないと思っています」
「その程度にしか思っていないのですね。万引きを一回するだけで店の経営状況がどこまで悪化するかわかっているんですか」
「わかっています」
いつの間にか山﨑先生に影響されて僕の声色も山﨑先生のように単調なものになっていた。
「わかっていたらこうはならないでしょう。浜辺君の狂わせた千円が店を倒産に追い込むかもしれません」
「分かっています。ただ、ただ、本当に魔が刺してしまいました。今は本当に後悔しています。本当です。自分から名乗り出そうとも考えていました」
自分から名乗り出そうとも考えていたというのは大嘘だ。自分から名乗り出るなどという馬鹿なことをするわけがない。ただ、後悔しているというのは本音だ。しかし、後悔している理由は大滝に抗えなかったことや自分の分も万引きしなかったことで、反省しての後悔とは程遠い。
「その心掛けは良いと思います。店への謝罪はご両親交えての面談が終了後そのまま行っていただく形となるでしょうからそのこともご両親に伝えておいてください。今日はテスト勉強もあるだろうしここら辺で」
山﨑先生は立ち上がり面談室の扉を開けた。
「どうぞ」
先生に従って僕は面談室を出た。先生は面談室を出て、鍵をかけると僕の方を向き直って言った。
「今後このようなことがあれば店も警察に通報すると言っています。今後は絶対にこのようなことをしないようにしてください」
「わかりました」
「じゃあ、さようなら」
「すいませんでした。さようなら」
僕は礼をして、先生と別れた。意図したわけでは無いが、面談のおかげで大滝らと帰らないで済んだ。そこは少し嬉しい要素だ。ただ、総合的に見ると家に帰っても親から説教を喰らうだけなので嬉しいはずがない。
家に帰らずにどこか図書館で勉強して近所の公園で寝て、明日また学校に行くなどという考えが頭をよぎったが、そんなことをしてもいずれは家に帰らなければならないのだし、そもそもこの万引きは僕が悪いのではなく大滝が悪いのだ。僕は胸を張っていいはずだ。
そういうことで僕は軽快に家に帰り、いつも通りの調子で階段を駆け上がろうとした。しかし、当然母は僕を呼び止める。
「先生から電話が来たのだけど、あの話は」
母は怒っているというより怖がっているように見えた。
「あの話は本当。魔が刺した」
「円が自分の意思でやったの? 誰かに指示されたとか、実は円じゃない人がやったんだけど、それを庇ってるとか...」
誰かに指示された、と言われて流石に僕はドキッとした。まさか、母がいじめに気が付いているのか?
いや、よくよく考えると親は子の無罪を信じるものだ。その可能性を残すためにこのようなことを言ったのだろう。
「僕にそんなこと指示する奴なんていないし、僕が庇ったわけでもない」
「じゃあ」
「僕がやった。さっき言ったじゃん、魔が刺したって」
「でも」
「説教はお父さんが帰ってきてからにしてくれる?」
何か言いたそうにしている母を置いて僕は二階へと駆け上がり、自室に飛び込み、PCの電源をつけた。
PCが起動して、『サンシャイン同盟』にアクセスするまでのロードの間、ずっと僕は親にいじめのことを言うべきかと悩んだ。心配性の母も僕が自主的に万引きをしたわけではないと分かれば安心するだろうし(いじめの事実によって不安にさせてしまう可能性は否めないけれど)もしかしたら、本当に少ない可能性だけど何かしらの方法で僕を大滝らから、いじめから救ってくれるかもしれない。
結局その悩みは解決に至らず、『サンシャイン同盟』へのロードが完了して、僕はイヤホンを耳に付けて、通話を始めた。
「おい、お前面談室に連行されてただろ」
既に通話にいた西藤が入って早々尋ねてきた。
「まあ」
「まあって何だよ。何があった」
「内緒にしたら怒る?」
「怒るっつうか気になる。好奇心」
「万引きしてバレたんでしょ」
僕が言うのを渋っていると坂田がぼそっとそう言った。
「まじかよ。本当に?」
「本当」
「ああ、もしかして、数日前に通話で言ってたやつか?」
気づくの遅、とツッコミを入れる気力は全く残っておらず
「そうそう」
と頷いた。
「あれバレたのか、まじか。ってことは、主犯は大滝か」
「そうだよ」
「うまくやれば大滝を吊し上げられるんじゃないか?」
大滝を吊し上げる? つまり、僕の万引きの裏に大滝がいるということがわかる証拠を提示して大滝にいっぱい食わせるという事か? それは...いやだめだ。そんなことしたら後で何されるかわからない。半殺しか全殺しにされる。
「いや、後が怖いからやめとく」
「で、先生からは何言われたの」
「盗んだ額と同じだけ払えば警察沙汰にはならないで済むとか、期末考査中は三者面談できないから、期末考査終了後ぐらいに三者面談だって」
「三者面談ってことは親もいるってことだよな」
「当然。両親くるだろうから四者面談だね」
「何そんな気楽そうにしてんだ。俺はこの学校に来てからの四年間で一回しか経験したことないぞ」
「一回あるのか」
「まあな。喧嘩のエスカレート」
なるほど、彼らしい。
「教師って誰が担当するの」
「俺の時は学年主任だったが、俺も一回だけで詳しくはわかんねえな」
僕は学年主任が来ることを想像して身震いした。それは怖かったというのもあるが、上の位の教師が来ると何かと面倒そうだなと思ったからだ。
「学年主任だと決まっているわけではない」
「坂田も面談に呼ばれたことあるのか」
「ない。けど、噂で。来る教師は基本的に学年主任かクラス担任」
なるほど。
「じゃあ浜辺の場合は、山﨑か浅井になるわけだな」
僕は山﨑先生の顔と浅井先生の顔を順番に思い浮かべた。浅井先生は鬼のように厳しいので、絶対に山﨑先生の方がいい。
「ま、ぬるりと頑張ってくれ。俺はそろそろ時間だ」
「何の」
「何のって勉強に決まってるだろ。お前感覚おかしくなってないか」
「ああ、そっか。お疲れ様」
「うい」
こうして西藤は通話を去り、僕と坂田が通話に残された。
「坂田ってさ。いじめられてどう思ってんの」
僕は慎重に言葉を選びながら尋ねた。
「え? 突然どうしたの」
「いや、ここのサーバーだって本来それを共有するために作られたサーバーな訳だし、最近は雑談とかも多くなってるけど。だから、教えて欲しいなと不意に」
坂田はすぐには返事をしなかった。僕は返事を待った。しばらく沈黙が流れた後、坂田が口を開いた。
「誰からいじめられてるかとかは大体知ってるでしょ」
「まあ」
「これ以上は言えない。ごめん」
まだその程度の関係だったのかと少しがっかりしたが、ネットでしか話していない相手にいきなりそんなこと語れるわけがない、と僕は同情した。
「いいよ、気にしないで。じゃあ坂田も勉強あるだろうし、そろそろ落ちるわ」
「じゃあね」
僕はそう言って通話を抜け、坂田も抜けた。
晩まで僕はずっと部屋に篭っていると父が帰ってきて、父に呼ばれた。
「おい、話したいことがあるから降りてこい」
話したいこととは言うまでもなく万引きのことだろう。ここですぐに降りなければやましいことがある(万引きというだけで十分やましいことだが)と思われかねないので、僕はすんなり一階に降りた。
リビングルームでは仕事から帰ってきたばかりの父がスーツのままソファに座っていた。
「飯の前に少し話したいことがある」
少し、と言ったが多分三十分以上話をすることになるのだろう。
「何?」
僕は父の座るソファから少し離れたダイニングルームの椅子に腰掛けた。
「お母さんから大体話は聞いているが万引きをしてしまったのか」
父は穏やかな口調で切り出した。
「したよ」
「なぜそんなことをした」
「魔が刺したから」
僕はできるだけ単調に答える。単調に答えることで感情を抑制して、口が滑ってもいじめのことを言ってしまわないようにするためだった。
「今回は店側の配慮で警察沙汰にはならなかったが本来なら警察に連れて行かれるところだったんだぞ。警察に連れて行かれたらどうなるか、円は分かっていてそんなことをしたのか?」
「逮捕?」
「それもそうだ。もうお前は少年院で済む年齢ではなくなった。しかし、円には過去に万引きをしたというレッテルが永久に貼られ続け、今後就職する時、そのレッテルは重たいものになる。その重いレッテルを背負ってでも入社しようというなら円の今の成績じゃ無理だ」
「成績の説教はまた今度にして」
成績の説教を混ぜ込まれるとかかる時間が数倍になってしまう。
「偉そうな口を聞くな! 」
父が怒鳴る。
「万引きしたらどれだけ万引きされた側の会社に損害を齎すかも、分かってないだろう」
「その話なら学校で先生から聞いた」
「お前、そうやって適当に適当に受け流してきたんだろ。だから、万引きを止められなかった。お前は自分が強いと思ってるだろ。中高一貫校に通ってたらある程度いい大学に入れて、いい職に就けると思ってるだろ。そうやって甘い気持ちでやってるから、万引きも甘い気持ちでやってしまったんだろ」
父の僕への呼び方が円からお前に変わり口調も鋭くなった。
「別にそんな風に思ったことはないけど」
「じゃあなぜ魔が刺して万引きなんかをする。魔が刺してしてしまうようなことじゃないぞ、万引きは」
「でも事実僕はそうやって魔が刺しちゃったんだよ」
「お前適当に言ったら言い逃れできると思ってんだろ。甘いんだよ! 」
父はそう叫ぶと立ち上がって僕の方へ向かってきた。父の大声に反応して、二階の部屋にいた弟が二階から顔を覗かせる。母は不安そうにキッチンからこちらを見ていた。
父は僕の目の前までやってくると唾を飛ばしながら
「お前舐めてるだろ」
と怒鳴り、僕の頭を叩いた。その一発は大滝の一発と比べたら遥かに優しかったので、痛いという気持ちも涙も出てこず、僕は依然平然とした態度で父の方を見た。すると父の方も観念したようで、もういい、と叫んで着替えるためか寝室の方に引っ込んでしまった。
もし僕が今のような態度をとっていなければ僕は思わずいじめを仄めかす何かを言ってしまい、父に助けを求めてしまったかもしれなかったと考え、僕は今の平然な態度が父の目にいかに不気味に映ろうともどうとでも良いと感じた。
「ご飯まだ」
僕は乱暴にキッチンの母に尋ねた。母は今起こった出来事に呆気に取られていて返事を返さなかった。
「出来たら呼んで」
僕はそう言うと、階段を上っていき自分の部屋に戻った。
その晩、夕食の場では誰一人として言葉を発さなかった。もういい加減家族揃っての夕食も気持ちが悪いな。そういう意味では、今日の夕食は少し居心地は悪かったがこういうのも悪くない、と僕は思う。
七月七日
世間一般では七夕と盛り上がっていた七月七日だが、僕の気持ちは一切盛り上がらなかった。朝、山﨑先生に呼び出され、軽く説教と七月九日にご両親に来ていただきたいという業務連絡があった。
その山﨑先生のテストで、正解の記号を並べると、オリヒメトヒコボシになっているという粋な計らいがあり、僕は織姫と彦星は羨ましいなとぼんやり考えながらテストを受けた。織姫と彦星は確かに七月七日しか会えないという可哀想な制約があるが、別に七月七日以外は全てボコボコに殴られる日というわけではない。僕と彼らではどちらの方が可哀想だろうか。そんなことを考えて虚しくなる。
考査が終わり、大体人が帰ってしまって僕も帰ろうとすると大滝らがやってきて
「おい、万引きがバレたらしいな」
と大滝が心配げに言った。少し彼の心配そうな様子が面白かったので僕は弄んでやることにした。
「まあ、バレた」
「まさか俺らのことは言ってないだろうな。お前の単独犯ってことになってるだろうな」
「うーん、どうだろう。伝わり方によっては大滝君たちが警察に連れて行かれてしまうかもしれないね」
「何だと」
大滝はギロリと僕の方を見つめてきた。だが、その鋭い目の裏には不安があるのが見てとれた。僕はさらに煽る。こんなことができるなんてそうよくあることではない。
「あんまり先生への対応得意じゃないからちょっとまずいかも」
「俺が関与してることがバレたらただじゃ済まさねえぞ」
「まあ、いずれわかるよどうなるか。まあこういうことやってきたんだし、バレたらバレたで当然の報いみたいなもんじゃないのかな。まだどっちとも言えないけれどね。退学とかにはならないと思うよ、せいぜい停学レベル。ああ、でもいじめとかしてたってバレたら退学かもね」
「調子に乗るなよ!」
気持ち良くなってつい言い過ぎたかも、と気づいた頃には僕は無様に床に大の字になって倒れていた。クラスにいた数人の生徒が怯えながら教室を出ていくのが見えた。
「死ね」
大滝は僕の上に馬乗りになった。井伊や本田はにやにやしながら見てくる。
結局数発殴られたところで教師が教室に近づいてくるのに井伊が気付いて、大滝らはそそくさと退散して行った。僕は先生にいじめのことがバレないように慌てて立ち上がり、鞄を背負い、教室を消灯した。
見回りに来た大石先生は僕の右頬の異変に気づいて心配げに駆け寄ってきた。
「大丈夫か」
「あ、えっと、はい。大丈夫です」
「殴られたような傷だな。大滝らか」
「まあ、はい」
この状況で言い訳する方が無理があるので大滝に殴られたということは認めることにした。
「何があったんだ」
「喧嘩です。ちょっとした今回の期末考査の話で殴り合いの喧嘩になっちゃって。でも、僕は華奢だから負けちゃったんです」
我ながらよく出来た言い訳だと思う。大石先生からしたら十分この内容で納得できるだろう。
「そうか。まあ俺も昔は喧嘩とかはしたもんだ」
何か不意に僕の脳の奥底(記憶よりもさらに奥深くで)何かが蠢いたような気がした。何かあと一つ情報があれば全て復元されそうな、何かしらのパーツが足りていないような。何かが奥深くで小さな小さな声で呻き声をあげている...そんな感じの。これは、気のせいだろうか。
「ただ、暴力ごとはややこしくなりかねないから気をつけろよ」
「すいません」
「どっちが怪我してもどっちもが望ましくないことになるからな」
大石先生はそう言って僕の肩をポンポンと叩いて、教室を出て行った。大石先生は良い先生だと僕は思う。しかし、ああいう熱血系は僕には合わない。僕には山﨑先生のような人間的ではない先生の方が良い。
家に帰って通話をしようとPCを開いた時、中指がヒリヒリしたので確認すると腫れていた。さっき床に倒れた時、指を自分の体で押し潰すか、打つかして打撲してしまったらしい。骨折している恐れもあるので病院に行った方がいいだろうか、と思ったがやめておくことにした。病院に行けば医者によって骨折の原因がバレてしまうかもしれない、それが親に知れたら、何かの拍子に僕がいじめられていると気づくかもしれない。
とりあえず湿布を貼っておいて、暫くは中指以外の指を使うことにしよう。タイピングする際や箸を持つ際に少し不便だが、慣れればそこまでしんどい話ではない。
「指やっちゃってさ」
僕は通話に入るなり指の話を切り出した。今日はいつもいる西藤はおらず代わりに森木がいた。
「やっちゃうって打撲とかそういう話?」
志茂が尋ねる。
「そうそう。大滝キレさせちゃって」
「あー御愁傷様」
「つか、森木珍しいな。考査期間中は勉強で通話できないとか言ってなかったっけ」
「明日の科目は計算系が多いからあんま勉強しないでいける気がする」
「暗記も計算も勉強しないといけない点は変わんない気が」
「んま、これが実力ってやつです」
この様子を見る限り森木の期末考査はうまく行っているのだろう。
「ちな、西藤はどこ行った」
まさか、彼が真面目に勉強しているなんてことはないだろう。
「今日は友人と映画館だって」
「なるほど、確かに夏は映画も色々やってるな」
そう言いながら僕は今年の夏も一本ぐらいは映画を見に行きたいなとぼんやり考える。冒険系にしようか、推理系にしようか、それともSF系、時代系もいいなぁ。
「でも考査期間中に行くのはとても頭が悪い行いだな」
森木は自分と彼は違うのだ、と偉そうに言う。
「それは確かに」
「でも、映画とか行きたいなぁ」
志茂は羨ましげだ。彼は定期考査前でも基本勉強しないので映画に行っても問題ないとは思うけれど。
勉強机の隅の方に雑然と置いてある恐竜のストラップが視界に入り、僕はそれを手に取った。最後に家族と映画に行った時に、母だったか、父だったかに買ってもらった...あれは、四年前ぐらいか。あれからずっと家族で映画に行っていないのか。
「そういや今日は七夕だな」
暫く話す話題がなく静かになり、そろそろ通話を終えようかと思っていた時、森木が口を開いた。
「今日七夕か」
「そういえば、そうだったな」
「あんまり一般庶民には関係ないけれどな」
「一般庶民ってか全人類に関係ないやろ。関係あるのはお空のオトヒメと彦星のみや」
志茂がつっこむ。
「オトヒメじゃなくて、織姫な。そんなことも知らないとは、志茂はセンスがないなぁ」
と森木が織姫を知っていた程度でイキリ始める。
「オトヒメは竜宮城の方だったか。お恥ずかしい」
「あと、一般庶民にも関係あるにはある」
「というと?」
「短冊に願い事」
「森木はまさか短冊に願いごとしたら叶うと思ってるの」
志茂がオーバーに驚いた。
「そんな幼いと思われるなんて心外だね。そういうことではなく、短冊に書かれた願い事を見るっていう楽しい遊びがあるだろ」
「なかなか趣味ゲスい」
僕はぼそっとそう言いつつ、その遊び楽しそうなどと考えていた。
大滝は何をお願いしているだろうか。もっとカッコ良くなって女子にモテますように、とかだったら腹を抱えて笑えるな。
「ま、そういうことで。今日は空は雨模様だけど七夕を楽しんで」
そう言って森木は通話を抜けた。僕は何だか気分が良くなってきて期末考査期間中であるのにも関わらず、志茂に
「よし、『MWS』するか」
と声をかけた。
「しよう」
当然勉強をする気が微塵もない彼は乗ってくれた。こんな生活をしている僕の将来は暗いだろうが、今の環境と比べたらよっぽどマシなのではないか、そう考えていたのかもしれない。
ゲームを終えて、誰も喋らない居心地の悪い夕食を終えて、部屋に戻り窓を開けて空を眺めると空一面を雲が覆っていた。灰色の気持ちの悪い色の雲が遠くまで広がっている。
ざまあみろ、織姫彦星。物事そううまくはいかないんだよ! 年に一回救われる日が来るかもしれないだけありがたく思え!
七月八日
結局、昨晩『MWS』をやり込んだお陰で、今日の科目は散々だった。赤点の嵐だろう。今日の失敗は後にも相当響くだろうが、もはやそんなことはどうだっていい。
「昨日の残り一発」
テストが終わり、下校しようと教室を出た途端、待ち構えていた大滝に顔面への一発をくらった。案の定鼻血が出てきた。
僕は周りにこの現場を目撃した人がいるのでは、と期待して周囲を見渡したがあいにく周囲に目撃者はいなかった。いても、恐ろしくて目を逸らしている奴もいるだろう。ここで助けを出せば今度は自分が大滝に殴られる、そう考えてる奴もいる。
とはいえ、一発で済んだのはとてもマシな方だ。二発、三発と殴られると痛いのも当然だが、確実に腫れ上がるので親にばれかねない。内心では気づいて欲しいと期待しつつ、ばれたくないという今の僕の心境は結局どちらを求めているのだろうか。
帰り道、何かジュースでも買って帰ろうかと考え『100円スーパー』に入ろうとしてどきっとした。万引きをして、さらにまだ謝罪に行っていない僕にこの店で物を買う資格はあるのだろうか。気まずすぎる。謝りに行ってもこの気まずさは除けないし、向こうもまた万引きをするのではないかと気が気でないはずだ。
仕方ない、ここのスーパーはもう利用しないでおこう。
「うおおおお、テスト終わったあああ」
完全に忘れていた、そうか、今日で期末考査は終わりか。西藤が教えてくれなければ気付かなかっただろう...いや、流石にそんなことはないか。
「お疲れ様あああ」
志茂も発狂で応じる。森木はうるさいうるさい、と咎めつつ口調は嬉しそうだ。定期考査が終わった後は誰もが同じ気分になる。とてつもない開放感、そして喜び。全然勉強しなかったものも、勉強を本気でやったものも皆同じような感覚を覚えるだろう、と思う(これは経験談)。
「期末考査が終われば夏休みだぞおおお」
「夏休み、まああんまり外出したりしないだろうけど」
僕はせいぜい祖父母の家に行くぐらいだろう。
「俺は海とか行きたいな」
「西藤は海派なのか」
「何、お前は山派なのか」
開放感による勢いで西藤と志茂が海派山派論争を始めた頃、坂田が通話に入ってきた。
「みんな、お疲れ」
「お前もな」
「お、逃げたってことは山派の勝ちってことでいいか」
「挨拶しただけだ、続きやるぞ」
再び彼らが海派山派論争を始めた。
「『MWS』するか、試験終了記念に四、五時間ぐらいぶっ通しで」
海派山派論争がうるさかったので僕は志茂をいつも通り『MWS』に誘う。
「よし、やろう」
志茂は二つ返事で同意して通話を抜けた。
「じゃあ、僕も一足先に抜けます、お疲れ」
僕も続いて、通話を去った。
七月九日
そして、今日。いよいよ恐怖の面談。僕と両親が面談室の椅子に座って待っていると少しして面談室の扉が開き、先生が入ってきた。しかし、入ってきた先生は予想外の先生だった。学年主任浅井先生ではなく、担任山﨑先生でもない。大石先生が入ってきたのだ。
「ご両親の方は事情を大体把握しておられますか」
母はいつの間にか涙を流していた。気の弱い母はこの空気に耐えられなかったのだろう。しかし、母も父も大石先生の質問にはちゃんと首を縦に振った。
「わかりました。一応こちらから、概要をお話ししますと、一昨日、浜辺君は『100円スーパー』にて複数の商品を...」
「知っとると言ってるだろう」
父が大石先生に強い口調で言った。僕は何と無くこうなってしまう気がしていたので心構えはできていたがやはり恥ずかしい。教師に逆ギレする自分の親など見ていられない。
僕は恥ずかしさからこの面談はだんまりを決め込んだ。大石先生から話を振られたが、無視し、無視したことを咎める父の声も無視した。父は僕を危うく殴りそうになったが大石先生がうまく止めてくれた。やや鬱陶しいところはあるが、この大石という教師は案外融通の利くいい教師なのかもしれない。
僕はずっと斜め下、机の下にある向かい合って座っている大石先生の足を暇だから見つめていた。とてもキリッとしてびくともしないのではないか、と想像していたがそんなことはなく、しきりにブラブラと左右に彷徨っている。おおよそ、緊張が原因なのだろう。改めて父のことが恥ずかしくなる。
「実は浜辺君は自分から万引きしたわけではありません」
三割ぐらい意識を向けて聞いていると突然こんなフレーズが耳に飛び込んできた。どのような文脈でこうなったのかはわからなかったが僕は驚いて顔を上げた。まさか、先生は、まさか、いじめに気付いて?
「実は浜辺君に万引きを支持していた人がいるんですよ」
大石先生のその発言で僕の嫌な予感は決定的になった。先生は僕のいじめに気付いている、そしてその事実を今、父に、そして母に伝えようとしている。
「指示?」
父はピンときていない様子だ。それは当然だが。突然こんなことを言われてすぐにいじめの可能性は思い付かない。父は情けない子供だ、と僕を馬鹿にするだろうか。ただでさえ涙を流している母の精神は耐えられるだろうか。そして、ここまで隠してきたのに、その僕の努力はどうなるのか。親にいじめのことを気付かれたくない。その一心で僕の脳はフル回転した。
「浜辺君の万引きしたお菓子はどこにあるのでしょうか」
ちょっとずつ大石先生が話を進めていく。どうにかして、どうにかして止めなければ、どうにか。
うまく、大石先生の話を中断して、いじめの事実を両親にバレないように。うまく、うまく、止めないと。この事実を両親が知って得することなど何一つない。短絡的に考えて下手な行動を起こされて、僕の立場がさらに悪くなったらどうする。今より悪くなったら僕は到底生きていけない。
「こう考えてみてください。浜辺君が万引きしたお菓子は全て、浜辺君とは別の子の元にあるというふうに」
「つまり、円はいじめに...」
父がそう言った時、僕の脳はとてつもない勢いで火花が散るほど回転し、そして僕は反射的に
「なんで山﨑先生じゃないんですか?」
と大きめの声で言った。
「うん?」
父が首を傾げる。僕の口は考えるより先に続きを喋っていく。
「普通こういう面談は担任の教師がやるものでしょう? なんで、他のクラスの担任の大石先生がやってるんですか」
「そ、それは。今日は山﨑先生が居られなくて」
「朝いましたけど」
「放課後から出張が」
「出張がある日に面談を入れたんですか」
「急遽決まったことで」
そして、僕はトドメを刺した。
「で、ピンチヒッターの大石先生がなんで僕の私生活を詳しく知らないのに、勝手に珍説を唱えているんですか」
大石先生は答えなかった。僕は怒りを交えて睨みつけた。多分、いじめのことを言うために大石先生が山﨑先生に頼んで担当を譲ってもらったのだろう。全くいじめられている生徒のことを考えていない大馬鹿者だ。評価も地の底に落ちた。最悪最低だ。
「先生? 今、円が言ったことは本当ですかね」
大石先生は頷いた。父は呆れた様子で
「話にならん」
と言って立ち上がった。そのまま面談室を出て行く。僕はうまく断ち切ることができてほっとして父に続いて出て行った。気まずいので少し間を空けて帰路についていると少し遅れて母が校舎から出てきた。何を話していたのかはわからないが、社交辞令的な挨拶でもしていたのだろう。父は常識があるとはお世辞にも言えないような行動を取ったが、さっきはとてもスカッとする経験をさせてくれたので感謝だ。
気まずい帰り道を耐えて帰宅すると僕はPCを起動させた。こんな気持ちいい(けど腹の立つ)経験を語らないわけにはいかないだろう。
暫く待っていると森木と志茂が通話にやってきた。
「面談終わったの? お疲れ」
「大石になかなかなことされた」
「流石にそれだけ言われてもわからないが」
「それを今から説明する」
「知ってた」
「で、何があったかというと、簡単に言えば僕がいじめられていることをどうやらあいつは知ってるみたいで、僕の親にそれを話そうとした」
そういう話をしていると坂田が通話に入ってくる。
「それはクズだなぁー」
志茂が言う。志茂は大石先生が嫌いなので大石先生の愚痴には乗る気満々だ。
「普通にムカついた。あと、頭悪いなって。いじめられてることを親に明かしたいなんて普通思わないだろう。なんであいつは明かそうとしたのか。理解ができない。僕がいじめられてるのを教師たちが知っているのは大体わかってたけど、親に言うほど馬鹿だとは。いじめられてるやつの気持ちもわからないんだな。やっぱ、大石はただのきしょい熱血教師だ」
僕は勢いに乗って思いを全て話し尽くした。
「いじめのこと何だとおもってるんだろう」
志茂がそう呟いたのに対し、僕は雑に
「知らね」
と返答する。後で志茂に対して強い言い方をしてしまった、と悔やんだ。
そこから愚痴の言い合いが始まり、少しして坂田が口を開いた。
「そういえば、西藤君は?」
「西藤様はデートにございます」
森木は少し気取った言い方をした。
「え、本当に?」
坂田は珍しく声に抑揚をつけて言った。まあ、僕もたった今そのことを聞かされたので、声には出していないが結構驚いているので無理はない。
「嘘。あいつにいるわけないじゃん。西藤は今、妹とデート」
と志茂が説明した。そりゃそうか。
「デートって言い方するとロリコンみたいなニュアンスになってしまうな」
と森木が言い出し
「妹と二人でゲーセンだって」
「ゲーセンデートは流石に有り得ない」
「何言ってんの」
という具合に会話が広がって行く。妹と遊びに行くだけでロリコン説が浮上するとは。
「ちなみに、西藤君の妹の年齢は?」
何を思ったのか坂田がそんなことを尋ねる。
「西藤と一歳違いです。十五歳」
「それってロリコンなの?」
「純粋だな」
と志茂が会話をまとめに行ったのだが。
「おもんな」
と森木が突っかかって行く。普段は西藤に突っかかる彼だが、今日はいないので標的を変えたのだろう。
「誰もウケ狙いで言ってないんだが」
「そんなこと言っちゃってー」
「きしょ」
「あ?」
そろそろ喧嘩になりかねないなと僕は判断して
「志茂」
と口を挟んだ。
「やりますかー、浜辺様。わかっておりますよ。『MWS』ね。今起動中。じゃあな」
と志茂と僕は通話を抜けて『MWS』を始める。完全に意思が疎通したようだ。思えば彼らとの付き合いももう半年になろうとしている。
七月十日
何もないとはまさにこのことで、折角の期末考査採点に伴う休みは家でゴロゴロゲームによって潰れそうだ。
『サンシャイン同盟』の友人たちは皆、どこかに遊びに行ったりと忙しい様子で、僕はゲーム以外することがない。期末考査が終わったのはいいものの勉強もすることが絶対ない上に、夏休みの課題がまだ発表されてないので本当にゲーム以外やることがない。
七月十一日
昨日は暇すぎて、夕飯を食べ終わってすぐ風呂に入り、七時半頃には眠りについた。そのせいで朝から体が気だるい。寝なかったら寝なかったで体は眠くて重く、寝過ぎたは寝過ぎたで体が重くなるとは人間の体もそう便利に作られているわけではないとしみじみ思う。
眠い時の体の重たさは休み時間にゆっくり寝たら多少楽になることもあるのだが、寝過ぎによる気だるさはどうしようもない。僕はぼんやりとしながら本も読まずに席に座っていた。すると、大滝たちが元気にやってきた。
「おいおい、冴えない顔だな。顔が真っ青だぞ」
「普段から真っ青だろ」
本田がケタケタと笑いながら言う。
「やっぱり、俺とお前の仲だからお前の体調はよくわかるんだな」
大滝が僕と強引に肩を組んで言った。僕はうげーっとなりつつ何とかそれを堪える。
「そういえば、歴史のテスト返却は明日だなぁ」
嫌なやつだ。僕が気に病んでいることを見透かして言ってくる。
「まあ、色々あるよ、な」
井伊が本田同様ケタケタと笑いながら言う。僕はきっしょと言いたくなるのを抑えて黙る。僕がずっと黙ったままなのが気に障ったのか、大滝は僕を雑に退けて出て行った。
あいつらと関わっているうちに僕の体の気だるさはマシになっていたが、本を読む気にはなれないので僕は座ったままぼーっとして朝休みを過ごした。
そして、帰ってきた成績は中々精神的にやられるものだった。過去にここまで悪かった事はあるだろうか。これには様々なことが起因しているだろう。万引きなどの大滝からのいじめによる精神的疲労、単純な僕のサボり、親にバレてしまったことによる精神的疲労などなど。
しかし、そんな振り返りをしている暇はない。この期末考査返却期間中は授業が午前終了なのだ。そんな日にゲームをしない手はない。と、昨日ゲームをしまくって疲れ切ったのに未だ成長しないでゲームをする。
満足するだけゲームをした後、僕は『サンシャイン同盟』の通話に参加した。
「坂田が中々いい成績取った」
通話に入るなり西藤が僕にそう教えてくれる。僕が何の話かと尋ねると
「古文古文。あれで坂田が満点取りおったぞ」
と興奮気味に説明してくれた。その興奮は嬉しさよりは悔しさから来ているような様子だった。
「取りおった、ってどこの訛りだよ」
志茂が元気にツッコミを入れる。
「さあ。俺は生まれも育ちも関西だぞ」
「お二人元気そうだね」
僕がそう言うと二人は声を合わせて
「テストはゴミ」
と言ったので僕は思わず笑ってしまった。それを森木があしらうように
「馬鹿の話は聞いてて疲れるな」
といつもの調子で言った。
「森木はどうだったの」
「まあ、全体的にいい感じ。今日返却された四科目の平均は九十半ばぐらい」
いい感じというか良すぎないか。
「まあ、古文は坂田に負けてるけどな」
西藤はまるで自分が坂田になったかのような調子で今度は自慢げに言う。
「お前はまず三十点を脱してからそれを言え」
なるほど、西藤は三十点なのか...。
「まあとりあえずテストがどんだけ悪くても終わったってことには変わりない。ほら、夏休みが近いんだしもっとテンション上げないと」
お前は楽しい夏休みが過ごせていいよ、と皮肉を言いそうになった。しかし、別に西藤は悪意があってそう言ったのではないだろうし、僕は口をつぐむ。
「夏休みの課題ちゃんとやれよ」
と志茂が言い
「お前が言うなし」
と西藤。
「まあまだ課題発表されてないし」
「発表遅いのマジで頭おかしいよな」
「まあ発表遅いぐらいの方がちょうどいいけど」
と言って喧嘩の火種を蒔いたのは当然、森木。
「なんだと、お前適当なこと言うなよ、お前だって早い分には助かるだろ」
西藤が強気に反応する。
「早ければそりゃあありがたいですけど、別に遅くてもそれぐらいがほどよく難易度が高くていいですからね〜」
「デスマス調むかつく」
志茂が喧嘩に割って入る。
「つかお前らこんなとこでこんな会話する暇があったら何かもっと意味のあることしろよ」
「ブーメラン」
「ブーメランは戻ってはくるけど戻ってくるまでにお前らに当たるから結局お前らも同類だ」
「何言い出したし」
これはまさしく、カオス、だ。僕と坂田は口を突っ込まずにこの会話が終わるのを見守っていたが、流石に面倒になったので僕はいつも通り志茂を『MWS』に誘おうと口を開いた。それと同時に坂田も口を開いた。
「そういえばさ」
「志茂、『M...」
ほぼ同時にぼくと坂田が口を開いた。だが、坂田の方が喋り始めが早かったようで僕の声は坂田の声にかき消された。
「どうした」
「みんなは僕のことどう思ってるの」
突然の質問に多分通話にいた人全員が答えられず黙ってしまった。それが坂田をさらに不安にさせてしまったようで坂田は
「ああいや、なんでも」
と撤回しようとしたが何だかそれは申し訳ないので僕は
「うーん、普通に静かで穏やかなイメージ。ちなみに、その質問の理由は?」
と返した。
「ありがとう。僕がここに来てからどれくらい僕はここに馴染めたのか、ちょっと気になって」
「なるほど」
「俺は普通に静かなやつだなと。ほら、現実は静かでもネットではよく喋る奴とかたくさんいるだろ。でもお前はその部類じゃないんだな、とそれぐらい」
「静かで大人しくて唯一話の通じる人。ぐらい」
森木は何となくイラッとくる言い方をする。
「静かだけど案外賢い人」
と最後に志茂が言って全員が坂田の評価を述べ終わると
「ありがとう。これからもよろしく」
と坂田は優しい声で言った。
「おし、じゃあ今度は俺の評価タイムと行くか」
西藤が自信満々に言うと
「おやすみ」
森木が無関心げに通話を抜け、続いて坂田も抜ける。
「浜辺、『MWS』やろっか」
と志茂が通話を去り、西藤は慌てて
「おいおい、待てよ、お前らひどいなおい」
と言ったが僕も通話を去った。
七月十二日
朝からドキドキしまくりで、僕は今日も集中できず朝休みに読書をすることができなかった。
ついに世界史が返却される。果たして僕のせいでどんな平均点になってしまっているのだろうか、まさか平均が満点なんていうことはないだろうが、八割は余裕で超えているだろう。満点は学年に何人いるだろうか。九十点台は学年に何人いるだろうか。そして、そんな異様な結果に教師は疑いを抱かないだろうか。
更に大滝は一度誰かの匿名の通報により、教師に呼び出されている。その通報内容に『世界史の試験』といったような具体的な表現があったかはわからないが、少なくとも教師は世界史の平均点の異常と、大滝が期末考査の模範解答を売買していた可能性があるという案件はほぼ確実にリンクされる。ああ、そうすれば、おしまいだ。
ガラガラガラ、と扉が開く音がして、世界史の石井先生が定期考査返却のためにやってきた。くそ、よりによって世界史が一時間目とは。いや、一時間目に分かっておけばその後ドキドキしないで済むからまだマシか、いやいやそういう問題ではない。
「起立、礼、お願いします」
「お願いします」
石井先生の野太い挨拶が響き、授業が始まった。
「えー皆さん、今回の期末考査はよくできていました。私は毎回平均が七十点になるようにテストを作成するのですが、今回の期末考査はその予想をはるかに上回っており、高得点の人もたくさんいます。
しかし、皆さんが良くできすぎていて、成績の差別化ができないので、今回は平常点の割合を普段の一割から二割に増やします」
石井先生が黒板に『平常点二割』と書く。やや特徴のあるくっきりした字。一部の生徒(授業中によく寝ていた生徒だろうか)は不満の声を上げていた。
そんなことどうでもいいから早く教えてくれ、と僕は机の下で貧乏ゆすりをしてしまう。
「再確認しておきますが、平常点は中テストとレポート課題と普段の授業態度の三つで評価します。寝てばかりいる生徒は授業態度点はないに等しいので気をつけるように」
「海岸は零点だな」
クラスの一人がそう言って爆笑する。僕はそれを聴きながら、そんなことどうでもいい、兎に角、早く平均点や、点数分布を教えてくれ、と更に貧乏ゆすりの速度を上げる。
「なので、今から返却する期末考査が八割分成績に入るわけだ。また、一学期成績は中間考査と期末考査を足して二で割った値、そこから春休みの自由課題の点数を最大五点加算したものとします」
わかった。わかった、そんな話どうでもいい。それより、期末考査を。
「では、まず、模範解答を返却します。後ろに回していってください」
石井先生はそう言うと、教材類を入れているカゴからプリントの束を取り出して廊下側から各列に配り始めた。模範解答の点数の欄に平均点を記載するのが石井先生のやり方なので、模範解答を見れば平均点がわかる。
廊下側の列の一番先頭の生徒が、声にならない悲鳴を上げた。僕は運良く廊下側の列だったので、前から回ってきた模範解答を比較的早く見ることができる。
前の席の生徒は、ひえっと声を上げてから僕に模範解答を渡した。僕はそれを見て、覚悟こそできていたもののなかなかなショックを受けた。
『93.8』、そんな数字が書かれていた。平均は約九割四分。石井先生の想定の遥か上を行く結果だ。クラスはざわめいたが、クラスの半分ほどは模範解答を購入した生徒なので、絶叫発狂で授業崩壊、ということにはならなかった。
「また、今回の考査の得点分布ですが、満点が学年に二十人、九十点台は四十人超います。本当によくできていますが、以後流石にここまでの低難度のテストを作ってしまうとまずいので難易度は割と上げようと思います」
すると、クラス中でブーイングが巻き起こる。これは想定外だった。そうか、難易度が上げられてしまうのか。よくよく考えればわかる話だが、僕は教師にバレる恐怖のせいでそこまで考えが行き届いていなかった。
「静かに。では、答案を返却します」
こうして返ってきた僕の答案は無事満点だった。丸暗記が効いた、いや効いてくれないと困る。あそこまで危険を冒して、報酬はなくて、大滝に僕を主犯に仕立て上げられて、それで満点でなかったら、たとえ九十九点だったとしても釣り合わない。いや、満点でも十分釣り合っていない。
その世界史の授業ではことあるごとに石井先生がこれの正答率がここまであるのは想定外、とか、前回から七十点も点を伸ばした人もいます、などと言い、僕は申し訳なさや罪悪感でやってられなくなりそうだった。
「平均は何点だったんだい」
一時間目が終わり、大滝がやってくる。
「九十三点ぐらい」
四捨五入したら九十四なので、九十四点ぐらい、と伝えるのが正しいのかもしれないが、僕は自分の罪悪感をほんの少し、ほんの少しだけでも軽減したくて、九十三点ぐらい、と伝えた。すると、大滝は
「ほーう、そうか。お前は何点だったんだ」
「満点」
「さーすがだ、やっぱテストは行動力と度胸で取りに行くもんだよな」
と嫌味を言ってまた自教室へ帰っていった。クソ野郎め。
「助かった」
と西藤が早速感謝を述べる。『サンシャイン同盟』には全員が集合している。
「まあ助けたくて助けたわけじゃないけど」
「ツンデレかな」
志茂が煽ってきたので僕はこんなしょーもないことでツンデレやってられるか、と返した。
「でも、ガチで冗談抜きで感謝だわ。だって俺前回二十三点だったもん。今回九十五だから七十二点アップだ」
七十点も点を伸ばしたやつってお前かよ。僕はため息をつく。
「おい、お前らも感謝は伝えろよ」
「ま、なくても満点取れたけど、一応感謝ありがと」
森木がキザな感謝を述べる。
「解答買ったけどほとんど勉強せずにテスト臨んだから結局前回二十五点の今回六十点の俺は感謝すべき?」
うーん、勉強せずに臨んでしまった原因は僕とずっと『MWS』をしていたからだろう。申し訳ない。
「三十五点も上がってんじゃねえか、感謝しろ感謝」
「じゃあ、感謝。ありがとうございまっする」
「は?」
一同が困惑する。
「頭冷やしてこい」
こんな時だけ冷静な西藤がそう言い
「ちょ冷やしてくるわ」
志茂はそう言うと通話を抜けた。
「まあ、元気があることはいいことや」
僕は言葉を選んで言った。
「そういえば坂田はどうだった」
「たしか、解答は購入してないんだったよね」
「秘密」
坂田はぼそっとそう言った。
「教えろよ」
「ケチだな」
「九十五」
!? 解答買わずに九十五?
「まじか」
圧倒された様子で西藤が言った。
「坂田って割と成績上位者?」
「一応。学年二十傑」
「まじか」
西藤はさっきからまじかしか言えてない。
「森木のライバルじゃん」
「ライバル? ライバルになるにはまだまだだな」
まあ確かに森木の方がまだ成績は上だ。しかし、それでも。
「ま、まあ、とりあえず浜辺ありがとう。俺は今からちょっと用事がな」
「じゃあそろそろ解散で」
「ちなみに用事って妹とデート?」
そういえば、前も妹とデート(本人曰くそうではない)に行ってたっけ。
「デートって言うな。じゃ」
西藤がそう言って通話を抜けたので各々も続いて通話を抜けた。妹と外出なんて本当に羨ましいやつだ。
七月十三日
やはり、今回の期末考査は色々としくじってしまってるらしい。なかなか恐ろしい成績が返ってきた。正直見てられないレベルだ。
「皆様方今日返ってきた答案はどうでございましたか」
『サンシャイン同盟』にて西藤が芝居がかった口調で言った。
「テストの話はやめよう」
志茂が本当に嫌そうに言った。彼も僕と同じでなかなな結果を突きつけられたのだろう。まあ、それには慣れてるんだろうけれど。
「残念だなー、俺の最高の成績が自慢できない」
西藤はチャットで🖕を送信した。
「まだまだ元気に生きたいなー」
森木は西藤に煽り返し、二人はいつも通りの言い争いを始めた。
「お前らは仲良しだなぁ」
僕はため息をつく。
「安心しろ、お前も俺らの友達の輪に既に入ってるからよ」
「おいおい、嬉しいこと言うなぁ」
僕は学校帰りに自販機で買ったコーラをぐびっと飲んだ。コーラの液体が喉でシューッと音をたてる。
「俺は最近いじめられてないけど、多分またいじめられ始める。そしたら、やっぱここが命綱になるんだよ。お前もだろ」
「まあ」
「俺らは同じ境遇にある仲間だ。だから、お前も俺の友人に決まってるだろ」
珍しくいいことを言うではないか。僕は西藤の言葉に心が温かくなるのを感じた。
「ま、そういうことで...」
「もういい加減...やめよ」
さっきから珍しく静かだった志茂が言った。嫌に震えていていつもの志茂とは全く違うような声だ。
「おいおいどうした」
「俺はやってられない。もう謝ろう。謝って全てを...」
彼は何を言って...。
「どうした、志茂。お前らしくないな。俺らは友達、みたいなノリが気色悪くなったのかよ」
森木が呆れるように言った。
「えっと」
「俺らはクソみたいな同じ境遇に置かれてるんだ。別にそれぐらいやってもいいだろ」
「でも」
「お前はいいよな、友達多くて。お前をいじめてる奴とお前の友達の数とどっちの方が多い? そこだよ」
西藤に強く言われて志茂はうっと黙ってしまった。今日の彼は本当にいつもと違って元気もないし、周りの志茂への応対もひどい。僕が知らない間に何か喧嘩でもしたのだろうか。
「ごめん」
志茂は虫のようにか細い声でそう言った。
「わかってくれりゃいいさ。ま、今日はここら辺で」
西藤はそう言うと通話を抜けた。志茂、森木もそれに続いて通話を抜ける。僕は坂田に
「彼らの間で何かあったの?」
と尋ねた。すると、彼もさっぱりという様子で
「わかんない」
と言ったので僕は違和感を覚えつつ通話を抜けた。
七月十四日
家庭学習日初日、だったが、僕は例の万引きの件のことで半日を潰された。家庭学習日だぞ、家庭で勉強させてくれよ(するとは言ってない)。
僕と父は『100円スーパー』に謝罪に向かった。父は今日は仕事がある日だったため、わざわざ休ませてしまったので、申し訳なくて仕方がなかった。
「すいませんでした」
スーパーの会議室のような一室に入り、椅子に座ってすぐ父が言った。対面に座ったスーパーの店長と副店長の人はいきなりの謝罪にやや動揺していた。
「今回の万引きの件ですが、まずお約束しているぶんの...」
「あ、はい、これです」
父はスーツのポケットから封筒を取り出して店長に渡した。
「中を確認させてもらいます」
空港の手荷物チェックの水筒かよ、とこんな状況なのに僕は心の中でツッコむ。
店長は封筒に入っていた額を見てひぇっと声を上げた。副店長が驚いて封筒を覗き込み、ひぇっと声を上げる。
「そんな、一万円も...そんな」
一万円!? 数千円の万引きの謝罪に? 僕も驚いて父の方を見る。
「もし、この万引きが発覚していなかったら歯車が回らなくなり、数十万円規模の損害が出ていたかもしれません。それを考えれば千数円では足りないと思い...」
「いやいや、それでも。流石に多すぎますよ」
「お願いします。万引きを許してください。二度としないように改めて言っておきます」
父は机に頭をついた。僕も慌ててそれに合わせて頭を下げる。
「あ、え、を、を、をね、お願いします、ぅ」
慌ててしまったのと緊張とでとても素っ頓狂な声が出た。しかし、店長の方がそれに勝る素っ頓狂な声を上げる。
「ああ、ええ、ぇぇ、いぇ、いえ、そんな。もう二度としないと、誓ってくださるな、えぇ、もぅ、本当に、えっと。警察には連絡しないでおきます、よ、え、はい」
「ありがとうございます」
父が頭を下げたままそう言う。僕もありがとうございます、と出来るだけしっかりした声で言った。
「あの、お父さん、頭を上げてください」
店長があたふたした様子で言う。そんな店長が頼りないと思ったのか、隣に座っている副店長が口を開いた。
「頭を上げてください。今回の件は約束通り処理します。なので、安心してください。ところで、君、アイスはどうだったかい?」
君、とは僕のことを指していたようだ。
「とても美味しかったです。これからはちゃんとお金を払って食べたいと思います」
僕は咄嗟にそうホラを吹いた。当然万引きしたものは大滝らに全部取られていたのでアイスの味がどうだったかなど知らない。しかし、今こういうことを言うことによって今後もここを利用しやすくするという狙いもある。
「そうか。今後は気をつけるんだぞ」
優しい副店長のおかげもありこうして謝罪は終わった。また父の一万円札を出すといった対応も素晴らしく、僕は父を見直した。
七月十五日
昨日、今日と皆忙しい様子で『サンシャイン同盟』の通話はない。だがまあ、ゆっくり『MWS』のメインストーリーでも進めておこうか。
それにしても数日前の志茂の発言が嫌に気になる。何をもうやめよう、なのだろうか。なぜ震えていたのだろうか。
まあ、折角学校がないのだから、気ままにマイペースにやろう。マイペース、マイペース。
七月十六日
幸せの家庭学習日も今日で終わり。なのだが、それは家庭学習日という名称の休みが今日で終わりなだけで、明日は日曜日なので休み、明後日は海の日という謎の日による休み。
そして、今日も『サンシャイン同盟』にて通話はない。まあ、五連休は当然忙しいだろうが。五連休なのに暇なうちはどうなっているのだろうか。父は仕事、母は何もすることがないのでドラマ鑑賞。弟は学校の友達と海に行った。羨ましい話だ。今頃、真夏の暑い日差しの下で、体を焼いて水着の女子とイチャイチャしているんだろうか...妄想はこれぐらいにしとこう。流石にたくさんの観光客で埋め尽くされている砂浜でイチャイチャは見たことがない。直近に海に行ったのは中二の時なので、どうとも言えないが。
あーなぜ弟は、幸太はここまで順風満帆に学校生活を送っているのだろうか。彼が別に僕に勝っていることはなく、彼は常に僕の背中を見て育ってきた。そうであるはずなのに。何が、僕の方が劣っているのだろうか。わからない。なぜ彼はいじめられずに、寧ろクラスの人気者のようになれて、僕はいじめられて、クラスの除け者にされたのか。
そもそも、僕はなぜいじめられているのだ。僕が何か大滝に悪いことをしたか。僕が大滝に何か危害を加えたか。僕は何かいじめの対象になるようなマイナス面を持っているか。確かに人見知りとか、力が弱いとか、そういうのはあるのかもしれない。だが、それだけで見れば他にも当てはまる人はいる。そういう人は皆が皆いじめられているのか。いや、そんなはずがないだろう。
まず、いじめを減らそうと国は動いているのだろうか。児童相談所、あれに相談していじめが解決したことがあるのだろうか。結局そういうところなのではないか?
と僕は心の中で嘆いた。しかし、その嘆きは逃げに過ぎないと心の中の中、すなわち無意識の領域で僕は気付いている。幸太はうまくやれているのに僕はうまくやれていないのだ。明らかに僕が悪いのだ。マイナス面を越える素晴らしさを他者から認識されたから幸太はうまくいっている。マイナス面というのはアイデンティティになる(ギャップ萌えの一種だろうか)のでうまくいけば人気者になれるということだ。結局、僕が悪い。心の内弁慶で、学校では隅っこで陰キャをして、気も弱い上に、コミュニケーションが苦手。そして人見知り。更に...ああ、考えていると虚しくなる。これぐらいにしておこう。
僕は一人自室に篭ってそんなことを考えながら『MWS』でボスと戦う。現実で戦うべき問題はどんな武器を使っても倒せないぐらい強力だ。
七月十七日
日曜日。だけど何もない。しかし、今日は西藤と坂田が暇だったようで『サンシャイン同盟』にて通話を楽しむことができた。
「家庭学習日の三日間お前ら何した?」
西藤が早速痛いところを聞いてくる。坂田は
「適当に。普段できないことを」
と。うーん、言い方がうまい。その言い方をすれば何も無しの三日間を過ごしたということを嘘を吐かずにうまい塩梅にカバーできる。
「浜辺は」
「一日目は『100円スーパー』に謝罪に。他の日はゆっくり家でゲームやら何やら」
「つまるところ虚無な三日間だったってことだな。で、俺は従兄弟と海。最高だった」
相変わらずムカつくやつだ。森木とはまた別のムカつくタイプの物言いだ。
「海いいね。ゆっくり波に揺られたい」
「まあちょっと波は強くて揺られることはできなかったが、俺は泳ぎ重視だから結構楽しめたな」
「羨ま」
僕は溜息を吐く。幸太も楽しんでるのかなぁ。やっぱり羨ましい。どうせもし僕が大滝らと海に行っても...ああ、悪い想像をするのはよそう。
「明後日終業式で一学期も終わりか。案外早いな、一学期も」
「いじめられないで済む最高の夏休みが待っている」
坂田が呟いた。そうだ、僕も夏休みになれば束の間の快楽を得られる。
「それは控えめに言って神」
西藤がウキウキした声で言う。
「ただ夏休みが終わった後の辛さは異常」
僕は去年の夏休みを思い出しながら言った。いじめが中学から高校にずっと続くのも中高一貫校の欠点だ。
「でも、運悪かったら小木に夏休みも付き纏われるかも」
「まじか。大滝はそこまで面倒系じゃないわ。小木に目を付けられたのが運の尽きだ」
僕は意識せず西藤に強い口調でそう言った。先程の海に行ってきたマウントが少なからず苛立ちを誘ったせいだと思う。
「でも小木は身体的な害は加えてこないな。暴力はない。だる絡みとあと恥ずい事させてきたり。まあ俺を見せ物にして楽しんでるんだろうな。俺が抵抗するから更に面白くなってどんどんやってくる。抵抗しなかったらいずれ飽きるかもだけどな」
「小木は抵抗されたいのか...つまり、マゾヒスト?」
「かも」
「西藤もマゾヒストだから、マゾヒスト同士がやり合ってるのか」
「互いにいじめられるためにいじめているってこと?」
混乱した坂田がそう尋ねたが僕も混乱していてよくわからない。
「俺はいじめてないぞ」
「坂田は夏休み、どう?」
僕は頭がこんがらがる前に話題を変えた。
「どうっていうのは日程? それとも...」
「ああ、日程の方。どこか行ったりするの」
「基本的には特に外出はしない予定だけど」
「お前らは寂しいなぁ。じゃ、俺も暇じゃないからそろそろ」
「何するの」
「夏休みの宿題」
「もう発表されてるっけ」
基本的にうちの学校は夏休みの宿題は夏休み前日、すなわち終業式で発表される。
「傾向から大体どこが宿題かわかるだろ」
「ああ、そういうこと」
「じゃあな」
西藤はそう言って通話を抜けた。僕もその流れで抜けようとかと思ったがどうせ暇するだけなので、通話は抜けずに坂田に会話を振る。
「坂田はどこで『サンシャイン同盟』を知ったの」
前々から聞こうと思っていた質問だ。僕は西藤らに誘われたいわゆる初期メンバーなのだが、坂田は途中からやってきたメンバーだ。もし、噂か何かで坂田が知ったのなら『サンシャイン同盟』の名前を大滝が知ってしまっている可能性もある。それを危惧しての質問だった。
「噂で」
やはりそうだったのか。なら、運が悪ければ大滝に知られて...。しかし、少なくとも現時点では『サンシャイン同盟』のことは大滝にバレていないようだ。バレていたら大滝から確実にそれについて色々追及を受けたり、殴られたりしているだろう。
しかし、問題は各々がいじめられているということだ。漆原や小木、木村といった僕以外のメンバーをいじめている人間が『サンシャイン同盟』を知れば、その時もおしまいである。つまり、今のところは『サンシャイン同盟』に関する噂は大きくは広がっていないということか。
「ちなみにその噂っていうのは誰が情報源?」
「誰かは覚えてないけど、多分同じクラスの人。ずっと休み時間教室内での会話に耳傾けてるから。そこで偶然知った」
「聖徳太子じゃん」
「正確には厩戸皇子。厩戸皇子は実在するが、彼が聖徳太子と呼ばれていたかは不明」
歴史好き、坂田の訂正がズバッと入る。
「ありがとう」
「でも、何でそんなことを聞いたの」
「もしその噂が広く知れ渡ってたら色々危ないでしょ。いじめている奴らの耳に入ったら、とか」
「なるほど。じゃあ、そろそろ」
「おけ、じゃ」
今日の通話はそうして終了した。短い通話だったが、とても有意義なものだった(最後の数分は)。雑談をするための通話に意義もクソもないかもしれないが、『サンシャイン同盟』が今後も存続していく上で『サンシャイン同盟』ができるだけ他者に知られないようにすることは何より大事だ。僕は他の誰よりもリアルが充実していないだけにネットだけは充実していたい。『サンシャイン同盟』への思いは他のどのメンバーよりも強い自信がある。
だから、守っていかないといけない、『サンシャイン同盟』を。
七月十八日
ついにやってきやがった、海の日。「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」日なのに、そんなことも知らずに海にダイブして、ゴミを捨てて海を汚くする奴がウヨウヨいる。海の日を海を汚す日と勘違いしている若若男女が狂い泳ぎ、僕みたいにちゃんと何の日か理解して海の日を過ごしている者はほとんどいない。せいぜい老老男女の漁師だけだ。
「海いつもありがとおおぉぉ」
と自室にてベッドに寝転がりながら叫ぶ。虚しい。海に行きたい。友達と海に行って、水着の女子とイチャイチャ泳いで、海でイチャイチャしたい、イチャイチャイチャイチャ...とこれは言い過ぎた。煩悩すぎる。
羨ましい。金はあるのに、海に行けないぼくは何と虚しいことか。金が無くていけない人の方が絶対マシだ。確か、幸太は今日帰ってくる。せいぜい楽しんできただろうな。あーずるいずるい、この思いを幸太にぶつけるのは間違いだけど。
海とまではいかないけど水族館にでも行こうかな。少しぐらいなら海の気分を味わえるかもしれない。当然、そんなことはないのだけれど。
僕は虚しさを取り払うためだけに一人で水族館に行こうとしたが、母に止められた。
「どこ行くの?」
父は散髪に行っており家にいなかった。父は外出に関してはちゃんと夜遅過ぎたり過度でない限り許してくれるが母は過保護なのでちょっと外出するだけでも止められることがある。
「どこでもいいじゃん」
「どこ行くか言うのはルール」
「水族館」
「一人で?」
「そう」
僕はぶっきらぼうに答えた。しかし、その答え方が悪かったようで
「嘘でしょ。一人で水族館は嘘。本当はどこに行くつもりなの」
と母に詰め寄られた。
「水族館に一人で行ったらだめなの」
「水族館なんて一人で行く場所じゃないでしょう」
別に一人で行ってもいいじゃん...。
「魚が見たいそれだけ」
「昔から水族館は好きじゃなかったじゃない」
「不意に行きたいと思っただけ」
「じゃあ、久々にお母さんと行こうか」
何でそうなるんだよ、高一だぞ。
「あーもーいいや」
僕は馬鹿らしくなってきて引き返した。今考えればそこまで海を羨ましく思うのもよくわからない。しかも、海と水族館では雲泥の差だ。こんな言語の通じない口論する暇があれば『MWS』でコイン集めした方が有意義だ。
結局ここがそういう差なのだと僕は諦める。『サンシャイン同盟』で通話を始めてみたが、数分待って誰も来なかったので通話もやめた。よくわかったよ、僕だけなんだよ、そういう運悪い奴は。
部屋でだらだらとゲームをしていると昼頃になって幸太が帰ってきた。二階の僕の部屋からでも、ただいまーと元気よく帰ってくる声が聞こえた。その声だけで楽しんできたんだな、とわかった。
その後夕飯後に幸太は僕に、ヒトデが描かれた水色のペンをお土産だといって渡した。海への行きに道の駅で買ったらしい。僕はありがとう、おつかれとだけ返して部屋に引っ込んだ。幸太はそんな僕を引き留めて土産話をしたり、海に行ったことを自慢したりすることは全く無かった。幸太は少し僕に配慮しているようだった。幸太は本当に兄思いだ。僕はそんな幸太にこんな態度で接してるのは申し訳なかった。またそれが逆に虚しさを際立たせる。
ああ、ここ数日でどれだけ僕は虚しさを覚えただろうか、そして、自分の何が悪いか気付いているのに動かない、なんでそんな状態のまま僕は変われないのか。弟に一緒にテレビ見よ、やら、ゲームしよ、などと話しかけたら何か変わるかもしれないではないか。僕は身内に話しかける勇気すら失ってしまっている。
明日は終業式だ。成績が返ってくる。あの結果を親が見たらどうなるだろうか。もう全てが終わりだ。ただ明日を乗り越えればだらだら自由の夏休みだ。僕はそうやって自分を勇気づける。
七月十九日
「...というわけで皆さんも三丙高校の生徒であるという誇りを持って、ルールを守った夏休みを過ごしてください」
校長の長い長い挨拶が終わった。なぜどこの学校の校長も話が長いのだろうか。校長も幼い頃は校長って話が長いなとか思っていただろうに、なぜ自分もその校長と同じことになっていると気付かないのか。これが老害というものだろうか。
校長の挨拶が終わった後はクラブ表彰や校歌斉唱がさーっと終わり、体育館から教室に戻り成績返却がある。
午前授業というのは相当ありがたい利点だが、校長挨拶と成績返却は相当面倒くさいイベント、欠点だ。
山﨑先生はどんどん成績を返してくるスタイルなので心の準備をする時間は全くない。気がついたら僕の手には成績表が入った封筒が握られていた。
学年全体で生徒百四十人。そのうち何位だろうか。普段は悪くても百位程度で済むが、今回はそう優しく生ぬるいことはないだろう。
ゆっくりゆっくりと僕は封筒から成績表を取り出す。
『現代国語 四十五点 百十位』
『古文 十五点 百三十位』
上の方から恐ろしい結果が目に飛び込んでくる。
『漢文 六点 百三十六位』
『数学A 十五点 百二十八位』
『数学B 三点 百三十五位』
どんどん成績表が。
『世界史 百点 一位』
ああ...。この学校の妙な伝統により漢字で表記された順位や点数が胸にグサグサと刺さっていく。僕は呑気に黒ひげ危機一発を思い浮かべた。
『総合 二十九点 百二十八位』
黒ひげが飛んだ。
世界史百点のカバーがあってこれだ。最悪。過去最悪最低の成績。ああ、終わった。下手すれば来年進級できない、そんなレベルの成績だ。当然言い訳はできない。いや、言い訳する余地がない。
「おい、成績どうだったんだ」
僕の傷はまだ癒えてないのに、さらに傷口を抉りに来た奴がいる。本田だ。大滝がいないと何もできない腑抜けだと思ったらにたにたしながらやってきた。
「悪すぎて言えない」
「見せろ」
「無理」
「何だと?」
本田の手が封筒のほうに伸びてくる。僕は封筒を取られないように大事に抱き抱える。あいつに見せたらあいつは大声で僕の成績を読み上げて僕を笑いものにしようとするはずだ。笑いものにされるのは慣れっこだが、抵抗できる相手に抵抗せずに笑いものにされるのは流石にプライドが許せない。
「お前、逆らうのかよ」
本田がムキになって僕の封筒をさらに強く引っ張る。まずい。若干そういう感触を覚えた。
小さくビリッという音が聞こえたような気がした。
本田の引っ張る力の方向と僕の抱き抱える力の方向が真反対であった。
いつしか眠気で虚ろ虚する中聞いた物理の授業を思い出した。
妙に力が抜けるような感覚があった。
ザザザザザザという音が聞こえた。
反動で少し後ろに飛ばされた本田が視界に映った。
まるで一枚ずつシャッターが切られるように事が起こり、気がつけば成績表の封筒が綺麗に半分になっていた。
「ああ、あああ」
僕は放心状態で小さくそんな声(のような音のような)ものを漏らした。そこまで大きい音がしなかったのですぐ近くの席の人以外は誰も気が付いていない。
「お、お前、俺は、いや、えっと。浜辺が、その」
本田は言い訳を必死で考えたが浮かばないようで早足に自分の席へと戻っていった。これは少しざまあみろ、と気持ち良かったが少なくとも今はそういうことを考えてる場合ではない。
「本田やば」
隣の席の生徒が言った。
「これ本田がやったの?」
他の生徒がその生徒に聞く。
「浜辺から強引に奪おうとして破けた」
「え、それはひど」
近くの席の女子が呟いた。僕は少し同情してもらえて嬉しかったが、その次の一言で気分はまたどん底に落ちる。
「冗談でもこれはやりすぎね」
冗談...? 強引に人から成績表を奪おうとして、挙句に破けた。それを冗談で済ませようとするのか。
そして、何より、この成績表をどうしようか。こんな半分に裂けた成績表を親に見せるのは気が進まないし、嫌な予感しかしない。かと言って、見せないわけにはいかない。とりあえず、再印刷ができないか先生に聞いてみるしかないか。
終礼後、僕は職員室に向かい山﨑先生に
「成績表がミスで破けてしまったんですけど、もう一度印刷ってできますか?」
と尋ねた。山﨑先生は困ったような顔をした。
「えっと、うーん」
「難しいですか」
「そうだねぇ。いや、まあ、いけるでしょう」
「ありがとうございます」
僕が頭を下げたところでちょうど大石先生が職員室に入ってきた。
「おお、浜辺さんじゃないですかー」
前の面談の件で大石先生のイメージは奥底まで沈んだので僕は無視する。
「何かあったんですか」
大石先生が山﨑先生に尋ねる。
「浜辺君の成績表が破けてしまったようなんです」
「もう一度刷ったらいいんじゃないですか」
ありがたい。けど、許すつもりはない。
「じゃあもう一度刷るんでちょっと待っててください」
山﨑先生はそう言うと職員室の奥の方の部屋に引っ込んだ。
「この前はすまなかった」
大石先生は改まった様子で言った。僕はお前と話す気はない、とそっぽを向く。
「ちゃんと考えずに行動して本当に悪かった。ちゃんと気持ちを考えられていなかった」
大石先生は小さく頭を下げた。僕は依然返事をしない。謝って済むレベルの問題ではないし、ここで譲るのは何となく嫌だ。
「そりゃ、怒るよな」
大石先生は少し寂しげにそう言うとそれっきり黙ってしまった。その行動を見て、ちょっと申し訳なくなった。
この先生は良かれと思ってしたのだろう。確かに浅はかな考えで、許せないことだが、僕も僕でこんな態度を取るのは妥当ではない。こんな失礼な態度を取っておいて全く怒らない大石先生にここまで強く当たる必要はないのかもしれない。
そもそも大石先生は僕がいじめられているということに気づいてくれたのだ。同級生ですら、戯れあっているだけとか、冗談だとか勘違いしている中で、気が付いてくれたのだ。これは心から感謝しないといけないことなのかもしれない。
気まずい時間が過ぎた。実際は一分ぐらいのことなのだろうけど、体感ではそれ以上に感じられた。
「もう破れないように気をつけてください」
戻ってきた山﨑先生は僕に刷り直した成績表を渡して言った。僕は、ありがとうございます、と頭を下げて、大石先生の方を見ないように職員室を出た。
今日のメインイベント、成績表を親に見せる。
「成績はどうだったの」
僕が家に帰るなり、昼食を作りながら母が言った。僕は目を細める。
「帰るなりそれかよ」
「言わなかったらはぐらかすでしょ」
「はーあ、僕の成績が悪い前提かよ」
こう言っておいて好成績を取っていれば格好よく、母を見返せるのだろうが。
「いや、そういうことじゃ」
「まあご名答だけど。机に置いとく」
僕は制鞄から封筒を取り出し、乱暴に机の上に置いた。母はキッチンから出てきて封筒から成績表を取り出す。あー、すぐに色々小言言われるんだろうな、面倒。
「え」
しかし、予想に反し母はそう言ったきり黙ってしまった。今にも泣き出してしまいそうなくしゃくしゃの顔をしている。この程度で泣いてしまうとは、老化の影響で数倍気が弱くなってらっしゃるようだ。
「ちゃんと、勉強したの」
抑揚のない声が尋ねる。
「正直に言います。少しサボりました。次から頑張ります」
僕は適当にそうやって受け流そうとしたが、そううまくはいかない。
「何でサボったの」
「面倒だったから」
「違う、何でサボったの」
母は取り乱すように言った。なぜ、という意味の何で、ではなく、なにによって、という意味の何で、だったようだ。
「ゲームかな」
僕が弱気になったら説教タイムに入ってしまうので強気な態度で返す。
「『MWS』ね」
「そうだよ」
「パソコンを暫く没収します」
「は?」
「次の考査でいい成績取るまで没収」
「は? そんなの」
僕は母を睨む。
「そんなの、が何」
母は震える声で言う。
「おかしいだろ。その娯楽奪われたら僕することないじゃん。すること奪ったら勉強に専念するようになるとでも思ってるの。なら、それは間違いだ。そもそも、僕自身の問題でもあるし。結局僕が勉強しなかったら意味ないじゃん。ネット環境を大きく制限されたら、僕は代わりにカードゲームとかゲーセンとかにハマると思う。だから、結局意味ないんだよ。大人は頭硬いからわかんねえだろうけど。まずそもそも、僕は今を楽しめたら将来がどうなってもいい。だから、自由にしたい、させろ」
捲し立てるように言った。その中には正直言い過ぎたな、と思う部分もあったがどうでも良かった。兎に角、あの機械を、PCを奪われたら僕はやってられない。家も学校もクソになる。防衛本能が僕の舌に過度に伝えるよう指示を出した。そんな感覚だった。
「想像してるほど楽な社会人生活送れないわよ」
「いいよ、別に僕がどうしようがお前ら関係ないだろ」
「それは」
「僕は別に親にやりたい放題させるために生まれてきたんじゃない。僕は操り人形になって高校生活不意にしたくないから。そろそろ僕にも進路を決めさせてくれよ」
僕はそう吐き捨てると駆け足で階段を上がり自分の部屋に飛び込むと、乱雑にドアを閉めた。バン、というドアを閉める音が家を震わせた。母は諦めたのか追ってきたり、部屋に強引に入ってきたりはしなかった。
何とか守り抜いたPCを起動して、イヤホンを付けてから僕は考える。
僕はこのままでいいのだろうか?
そして、もし(いや...)このままではよくないのだとしたら。
僕は変われるのだろうか?
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