2:助力者

1 


 兄はいじめられている。そう気がついたのは今年になってから、つまり中二になってからだった。休み時間、幸太は兄が前庭で殴られているのを目撃した。殴られている、というだけでは単なる喧嘩も可能性もある。しかし、その時、兄は三人の男子生徒に囲まれていた。囲まれて殴られていた。喧嘩で複数人に囲まれて一人が殴られるなどということは普通ない。それで幸太は確信した。これは、いじめだ。

 幸太は兄のことを尊敬していた。自分勝手で、親とも関わらなくなってきている兄だが、幸太には以前と変わらず接してくれる。

 喧嘩をしたことは当然ある。だが、まさに喧嘩するほど仲が良い、で長々と喧嘩することは全くなかった。

 兄の方が賢いし、兄の方がゲームも得意だし、兄の方が大きくて、兄の方が色々なことに詳しい。幸太は兄と比べて色々な点で劣っていると感じ、何とか兄のようになろうと努力した。勉学に励み、兄と同じ三丙中学校高等学校に受験し、無事合格、ひたすら兄の背を追っていた。

 部活はサッカー部に入り、中一ながら、中三の試合の控えに選ばれるなど必死で努力した。兄は部活に入っていなかったので、自分も部活に入らずに兄のように自由奔放と放課後を過ごそうかとも考えたが、兄の次に尊敬していたのがサッカーだったということもあっての入部だった。

 入学後も、勉学は努力して、学年の十本指には入る成績を納め続けた。成績では中一の頃の兄には勝っていた。兄は喜んでくれた。だが、それだけで幸太は満足できなかった。もっともっとやらなければ。思えば幸太のモチベーションは兄のおかげで保たれていたのかもしれない。

 

 兄がいじめられている。これは幸太にとっては驚き、そして失望そのものだった。嘘だ、何で兄のような人が、兄がいじめられているのを目撃した時、目を疑った。そして、本当にいじめられているのか確かめたかった。しかし、もし、兄にこちらが見ていることを気付かれたらまずいので、ゆっくり確認することはできなかった。

 兄がいじめられているのは度々目撃した。最初は、自分の尊敬する人への失望で胸が一杯だったが、次第に幸太は兄を助けたいと思うようになった。いわば恩返しである。ここまで導いてくれたのは兄だ。その兄に何かしてあげなければと考えた。

 

 兄がいじめられているという証拠を得るなら、どうするのが妥当だろうか。やはり、どうにかして兄をいじめている三人組の中心人物、大滝という男を懲らしめ、兄を救いたい。しかし、今の段階では大滝がどのような人物かもほとんどわからず、証拠集め以前の問題だ。ならば、大滝を知れば自ずと良い方法が見つかるのではないか。大滝を知るにはどうすればいいか? 毎日ストーカー? いや、ストーカーするほど暇ではない。ならばどうしようか。

 良い作戦が浮かばず頭を悩ませていた幸太は暇潰しにテレビを見ることにして自室を出た。すると、そこでこれまたちょうど部屋から出てきた兄に会った。

「ご飯まだ?」

 兄はそう訊ねた。兄と話すのは数日ぶりなので、幸太はその声に新鮮さを覚えた。最近の兄はネットへの依存が進行して家にいる時間のほとんどを部屋に篭ってネット共に過ごしている。堕落してしまっている兄だが、幸太はいじめから救ってあげればまた元の兄に戻ると信じている。

「今何時だと思ってるの?」

 幸太は呆れた様子で言った。

「午後七時ぐらい?」

「正解。ご飯は七時半からってお母さんが言ってたじゃん」

「ああ、そうだっけ」

 兄はポリポリと後ろ髪を掻くとまた部屋に引っ込んでしまった。幸太はその様子を見てやや感傷的な気分になりつつ、階段を降りた。

 リビングルームにあるテレビを点けて、適当にチャンネルを切り替える。この時間はどのチャンネルもバラエティーやドキュメンタリー、またはアニメばかりだ。『密着、洗練された仕事』、『七時のミュージックナイト』、『大食い芸人全員集合! 大食い対決!』と興味ない番組ばかりで、他にも『僕の冒険者物語』『天才犬名探偵ぽち』と...うん?

 幸太はチャンネルを切り替えようとした指を止め、リモコンを机に置いた。

「あ、そうか」

 『天才犬名探偵ぽち』の丁度推理を語るシーンで、ゴールデンレトリーバーが犯人である証拠を発見する際に登場していたアイテム。盗聴器。ああ、まさにそう、これだ。幸太は飛び上がった。盗聴器をしかけてやればいいのだ、大滝の家に。そうすれば、大滝の内情を探ることができる。

 

2


 翌日、幸太は学年でも顔が広いので、録音機や盗聴器のようなものに詳しそうな人を見つけて、どこで購入すればいいのか、どのようなものがいいのか、と尋ねた。

「何が目的なの? 確かに私は盗聴器とかそういうものに詳しいけど」

 薄い黒縁で長方形の研究者風の眼鏡をかけていて、愛想のない女子、名前は本田というそうだ。愛想はないが、顔立ちは美しく、勿体ない。そんな彼女は盗聴器などのグッズに詳しい。

「ちょっと恋愛話で...」

 これは考えてきた言い訳。実際は、幸太には彼女などいない。女友達は結構いるのだが。

「相手が浮気してないか確認したいのね。子供なのに大人みたいなことするわね」

「褒め言葉と取っていいよね。犯罪に手を出す決心はできてるよ」

 何も言わなければ教えてもらえないような気がしたので、付け足した。

「まあ盗聴は犯罪じゃないけど」

「え」

「まあいいや。わかった。じゃあいいものを紹介する」

 彼女は素早く、机の引き出しからメモ帳を取り出し、一枚ちぎると、見惚れるようなスピードでさらさらと物品名や値段、購入できるサイトを記すと、無愛想に幸太に押し付けるように渡した。

「ありがと」

 幸太は礼を言ってぴょんぴょんと跳ねるように教室を退出した。


 聞いたこともないサイトで、盗聴器の名前も聞いたこともない英語や数字の並びだったが、調べると実際に見つかり、受信機も合わせて十数万円というなかなかな額だったが、親のクレジットカードを拝借して購入した。あとで色々言われるかもしれないが、現金十万円ぐらいを貯金箱から取り出して返せばいいだろう。もしくは、毎年お年玉から銀行に預けるという名目で(実際はどうなのだろうか)数万ずつ抜き取って行った分がこの分だ、と主張するのも手だ。多分、言い訳はできるし、運が良ければ気づかないで済むかもしれない。

 

3


 二日ほど経って、受信機、盗聴器、ボイスレコーダーの三つが届いた。親がいる時に宅配がきたため、誤魔化すのには一苦労だったが、友人からのプレゼント、と適当な言い訳をして回避した。

 そこまで重たいわけではなかったが、落として壊してしまったら十万円が無駄になると考えると、自分の部屋へ階段を登るのにはなかなか精神がすり減った。

 そんな三つを自分の机の上に並べて作戦を練る。この作戦において最も重要なのは盗聴器を気づかれないように、大滝の持ち物に隠すことだ。

 この直方体の物体を隠せるような場所...。筆箱に隠すには少し大きい。アンテナが入りきらない可能性もある。しかも。筆箱は開けた時にバレる可能性が高い。なら、どこに入れようか。

 幸太はぐるりと部屋中を見渡した。何かに包んで隠せばバレないのではないか、と考えたからだ。しかし、特に盗聴器を覆って違和感のないものはない。ならば、直接盗聴器を大滝の持ち物に...。

 結局、三十分ぐらい三つの盗聴キッドと向かい合って考えた挙句、大滝の家に忍び込んで仕掛けることにした。しかし、問題はどのように大滝の家に侵入するか。大滝の家は、大滝を追跡すれば特定することは容易だ。しかし、大滝の家に侵入するのは至難の業である。幸太と大滝は無縁である。彼が家にいるうちに侵入することは不可能に等しい。となると、狙い目は彼が家にいない間だ。ただ、当然、彼が家にいなくても彼の家族が家にいたら意味はない。だから、彼の家族の不在を狙うしかない。しかし、幸太は大滝と無縁。彼ら家族が家を開けている日がいつなのか、などわかるはずがない。

 もし、彼が一軒家に住んでいればベランダからこっそり侵入して窓辺に置いて撤収するという作戦も実行可能だ。しかし、マンションに住んでいた場合は話が変わってくる。マンションなら彼の家に訪問しなければ盗聴器を仕掛けることはできない。しかし、彼の留守は家に鍵がかかっている可能性も高い。

 だが、ここは一か八かだ。もし、彼がマンションに住んでいたら作戦は失敗、この盗聴器はどこかの店に売ろう。

 彼が一軒家に住んでいた場合はベランダから侵入する。鉢合わせになるリスクはあるが、ちゃんとタイミングを見計らえばまだ安全だ。

 しかし、ここまで考えて幸太は疑問を抱かざるを得なかった。その疑問とは、ここまでして兄を救わなければならないのか、というものだ。盗聴すること自体はあ彼女...本田が言う様に犯罪ではないのかもしれない。だが、その盗聴器を仕掛ける際に家宅侵入しなければならない。それは立派な犯罪だ。わざわざ、犯罪を犯して、そして、バレるリスクを冒してまで兄を救わなければならないのだろうか。まず、兄を救うことはできるのだろうか。

 盗聴でいじめに関する証拠を手に入れたとしよう。それをどう使えばいい。直接学校の方に渡せば、なぜこんな音声が手に入ったんだ、と咎められれば言い訳しようがない。なら匿名で...誰に届けるのが妥当だろうか。大滝を脅そうか、それとも学校に届けて然るべき対処をする様に言うべきか。しかし、学校のいじめに対する対応には正直疑問を覚える。よくテレビでもいじめの発見しづらさや、指導しづらさが言われている。ならば、大滝を脅していじめをやめさせるしかない。

 後はいつ仕掛けるか。無難に夜仕掛けるのが良いだろうが、夜に外に出歩くとなると親に対しての言い訳を考えなければならない。まあ、適当にコンビニに買いに行きたいものがある、という様な言い訳でいいだろう。

 幸太は一連の計画を忘れないようにノートに書き記しておいて、とりあえず、明日、大滝の跡をつけて、大滝の家を特定する。そして、来週にでも盗聴器を仕掛けに行けばいい。


4


 放課後、終礼から一時間ほど経って、大滝が校門に姿を表した。ずっと校門の脇の茂みに身を潜めて大滝を待っていたので足が攣ってしまいすぐには立ち上がれなかったが、何とか立ち上がり、彼の跡を追った。

 大滝は校門を左に曲がるとまっすぐ歩いて行く。幸太はあからさまにならないよう電柱の影に隠れつつ、彼の跡を追っていく。

 大滝はしばらく真っ直ぐ歩いて行った後、十字路を曲がり、商店街の方へ行く。商店街の駄菓子屋や美味しい香りを漂わせている新しくできたレストランなどに興味を示しつつ、店には入らず真っ直ぐ突っ切る。

 商店街を出ると高級住宅街がある。煌びやかな建物と、美しい緑の庭は外から見るだけでも羨ましい。少し運が悪かったのは道路が整備されているせいか、もし、大滝が振り返った時に隠れるものがなかったことだ。しかし、その心配はなかった。大滝は振り返らずにその高級住宅街のうちの一軒に入って行ったのだ。

 まさか、ここが家なのか。もっと普通の一軒家か、『ドラえもん』のジャイアンの家のような場所を想像していた。

 幸太は忘れないようにスマートフォンでその家の写真を撮影しておいたが、驚きのせいで夏だというのにひたすら手は震えていた。


 家に帰り、夕飯を食べ終えるとすぐにその写真をもとに、WEB上の地図サービスを用いて大滝の家を見つけて、どこからなら侵入できそうか、間取りは大まかにどうなっているだろうか、という作戦を練った。わざわざ目的地にいかなくてもWEB上の3D地図で立体的にその場所の特徴を見ることができる今の世の中に感謝だ。

 大滝の家の外見で言えば、二階建てに小さなベランダという一般的な戸建なのだが、一般的な戸建と違うところはまず何よりも大きさだ。ここの高級住宅街のほとんどの家を担当する建築業者のホームページによると、6LDKだそうだ。幸太の家は二階建ての4LDK。これでも十分裕福な方ではあるのだが...。

 しかし、特にこれといった目立った特殊な防犯機能はないようだ。ベランダを取り囲む植木もびっしり植わっているわけではなく、ところどころ隙間があり、小柄な幸太ならその隙間からベランダに侵入できる。また同ホームページにて家の間取りもアップロードされており、ベランダ側の二階に一部屋個室があることもわかった。大滝が一人っ子ならば、そこが大滝の部屋である可能性が高そうだが、二階に仕掛けるのは正直難しい。だから、ここは妥協して仕掛けるのは一階にするしかない。

 間取りによるとベランダに面しているのはリビングルーム。なので、真夜中に人はいないだろう。こっそりベランダからリビングルームに侵入し、どこか見つかりにくい隅の方に盗聴器を設置して撤退する。ベランダ、リビングルーム間の窓は、夏なので開けっぱなしになっている可能性も高い。

 間取りから立てられる計画はこんなところだろうか。あとは日程だけだ。幸太は本棚から手帳を取り出して開いた。部活の日程で埋まっている日も多くあるが、当然、そういう日も夜は暇だ。しかし、疲れて帰ってきて夜に外出、は流石に体に鞭を振るうことになってしまうため、実行日は部活の日程外にするのがいいだろう。

 様々に考慮した末に一番効率の良い日は六月の二十日だとわかった。


5


 六月二十日、午後十時。予定決行時刻が来た。

 朝から緊張とワクワクとドキドキで学校でもまともに授業に集中できなかったが、こんな経験人生でもう二度と味わうことはないだろう。

 盗聴器をしかけることなど、普通に生きていればテレビの中のスパイドラマや探偵ドラマでしか出てこないことだ。

 幸太は盗聴器と、大滝の家の写真を持って、家を飛び出した。親にはコンビニに買い物に行くと伝えた。当然、コンビニを言い訳にしているので長時間外出することはできない。さっさと設置してさっさと家に帰らなければならない。幸太はダッシュで学校を通り過ぎて、商店街の入り口まで来た...。

 のだが、シャッターが閉まっている。完全に忘れていた、夜は商店街はシャッターが閉まるのだ。時間効率は悪いが仕方ない、回り道をしよう。 

 幸太は回り道をして、国道沿いを一直線に走り抜け、高級住宅街へとたどり着いた。そして、街灯の下に立って、大滝の家の写真を確認する。ここの高級住宅街はどの家も外見が大して変わらないので写真がないと覚えていられない。

 二階のカーテンが緑色、右隣の家の二階のカーテンは白い。この特徴に合致する家は、一つしかなかった。

 その家の『大滝』という表札も確認ができた。この家で間違いはない。

 大滝の家の前に立って幸太は大きく深呼吸をした。ここは大滝の家で合っているはず。忍び込んで、これを設置して、すぐにずらかるだけ。緊張することはない。大丈夫大丈夫。幸太はそう言い聞かせて実行に移した。

 まず、家の裏手に回り込む。そして、植木の茂みをかき分ける。植木には人が通れるだけの隙間はあったものの、木が両腕に刺さり、ちくちく傷んだ。真夏なので、半袖で来てしまったことを後悔したがもう遅い。さらにガサガサと音がして、気づかれるのかとヒヤヒヤした。

 しかし、盗聴器の方は、体で覆って守ったので、傷すらつかず、無事、大滝の家のベランダにたどり着いた。事前に間取りで確認した通り、ベランダにはリビングルームが面している。そして、リビングルームの明かりはついていない。さらに、リビングルームとベランダの間の扉は開けっぱなしだ。読み通り、夏なので開けっ放しになっている。

 幸太はほっとして、一度落ち着くために体に絡みついた小枝や葉を払った。

 そして、慎重に窓に近づく。窓を開けて室内に入り込もうかと思ったが、流石にそれはリスクがあるので、盗聴器を持った手だけを隙間から入れることにした。とりあえず、バレないような場所を探すため、必死で手を伸ばして手探りでいい隠し場所を探す。ソファの下や、ソファのクッションの隙間、机の下、チャックで中の綿を取り出せるタイプのクッションの中。

 幸太は手探りでついに、隠すのにちょうど良さそうな場所を見つけた。

 それは大きな棚の裏だ。埃だらけで見る限り、設置されてから掃除はされていなさそうな、とても好都合な場所。さらに、ちょうど盗聴器を挟めるスペースがあるので、好都合中の好都合。

 幸太はそこに盗聴器を設置すると窓の隙間から手を引っこ抜き、踵を返した。当然、逃走時にバレて仕舞えばここまでの苦労が水の泡というものだ。植木の隙間を出来るだけ音を立てないように通り抜け、大滝家の敷地を抜け出す。

 後は走るだけ。

 幸太は爽快に住宅街を走り抜けた。最速で帰ってきたと言えるだろう。しかし、家に帰ってくる頃には時刻は十時半を指していた。三十分。やや遅いが悪くない。何より重要なのは作戦の成功だ。

 父はなぜこんな夜遅くに三十分も外出したのかと尋ねてはきたものの叱り飛ばしたりはしてこなかった。

 幸太は作戦成功の喜びを胸いっぱいに抱き、ぐっすりと眠りについた。


6


 翌朝、昨晩はなかなかハードなことをしたが、ゆっくり寝たおかげで特に眠気はなかった。むしろ、いつもより元気なぐらいで、授業でも一睡もせず、部活もきびきび動いて満足した一日を送ることができた。

 幸太は帰宅して、夕飯を食べてすぐ、自分の部屋に駆け込んだ。いつもは兄の方が先に食べ終えて部屋に戻ってしまうのだが、ウキウキの幸太は兄よりも早く夕飯を食べ終えた。

 ボイスレコーダーでレコーディングした音声を再生する。多分、現在録音されている音声の大部分は、大滝が学校に行っている間の音声だろうけれど、ちゃんと盗聴ができているかという確認も込みだ。

〈おはようーーー〉

〈うーーーやべーーー学校〉

 これは起きた時の声だろう。所々、雑音が混じっていたり音が完全に採れていなかったりもするが、この感じなら盗聴器としては十分だ。

 ここからは大滝の母親の声が続いていたので、幸太はそれはスキップした。あくまで幸太の目的は大滝を盗聴することで関係ない人を盗聴するようなことは絶対にしたくない。

 九時間ほどスキップしたところで、ターゲットが帰宅してきた。

〈邪魔ーーー井伊とゲームの約束してんだよ〉

〈宿題はーーー〉

 この大滝の母の声に重なるようにどかどかという音が聞こえた。大滝は自室に篭ったらしい。ターゲットが自室から出てくるまで、約一時間ほどスキップ。

〈夕飯よ〉

 夕飯の時刻になり大滝が階段をどかどかと降りてきた。設置した場所と階段は数メートル離れていたが結構音は聞こえるので、数十万を使った甲斐はある。

〈サラダ減らせーーー〉

〈ーーー〉

〈はあ、こっちは十分健康だーーーはよしろばばあ〉

 家でもこのような口を聞いているようだ。ところどころ、大滝が何か物を叩く音などで、声が切れたりはしたもののしっかり録音はされている。

〈いい加減にーーー〉

〈もういいよーーーじゃあーーー飯なしーーー〉

〈ちょっとーーー〉

 またどかどかと階段を上がっていく音がした。

 大滝は家でも相当我儘極まりない様子だ。しかし、大滝の親もそれをしつこく責める様子もないので、それが原因でこんなふうに育ってしまったのだろう、と幸太は納得する。

 その一方でどこか今の兄の様子と重ね合わせられる部分があり、複雑な思いに駆られた。いじめられる側よりいじめる側の方が病んでいる、とはよく言われる話だが、もしかしたらそうなのかもしれない。

 そして、大滝はそれから下には降りてこず、今も降りてきていないようだ。

 幸太は一通り聞き終えて息を吐いた。大滝が今後も家でこんな様子ならば、正直、いじめの証拠を入手するのは困難極まりない話だ。基本的に二階の自室でしか生活しない。

 その様子も...まるで、兄のようだった。

 しかし、盗聴を止めるわけにはいかない。例えば、大滝の親が不在の時、大滝はリビングにて何か重要な発言をするかもしれないのだ。つまり、諦めるにはまだ早い。


7


 そして、その日は案外早く盗聴を初めて二日後に来た。大滝の母親はママ友同士の買い物で家を空けており、大滝が一人で留守番していた。

〈ちょっと待てちょっと待てーーー今コーラ開けてるーーー〉

 予想通り、親がいないので大滝はリビングに降りてきた。これは大滝の声。どうやら、誰かと通話をしているようだ。

〈おしーーーでーーーあいつらはまだだなーーーそうか〉

 あいつらとは、大滝の子分、井伊、本田のことを指しているのだろう。では、大滝の通話相手は誰だろうか。しかし、大滝はイヤホンをしているようで大滝の声しか聞こえない。仕方ない、大滝の発言から推測していこう。

〈お前は黙っとけーーーややこしくなるーーーあいつが来ないと話が始まらないからな〉

 お前は黙っとけ...つまり複数人の間で通話をしているのか。あいつというのは、井伊か本田だ。しかし、その二人が来ないと話が始まらないとは...? 大滝にとってそこまで重要な存在なのだろうか。

〈浜辺はなぁーーーあいつは面白いからなーーーやめとけ?やめねえよ〉

 浜辺、という単語が聞こえて幸太ははっとした。やめとけ、やめねえよ、はいじめに関する話だろうか。つまり、大滝の通話相手は浜辺円をいじめることを止めようとしているということか?

〈コーラうめー〉 

 シューっという開閉音がした。コーラを開けて飲んだのだろう。

〈コーラ飲んだら眠くなったーーーあぶね、大事な要件忘れるとこだったーーー模範解答ーーー一睡したらーーーおう〉

 通話を切ったのだろう、そこで静かになった。幸太は大滝の寝息など聞きたくもないのでイヤホンを外して席を立つ。自分の部屋を出たところ、正面の兄の部屋から出てきた、兄と鉢合わせになった。

「眠」

「夕飯はまだだよ」

 前、鉢合わせになった時に夕飯まだか、と聞かれたので先にそう答えておいた。

「りょ。まさか、今から幸太もトイレ? 」

「違うけど。トイレ今お父さんが使ってる」

「あいつもう帰ってきたのかよ」

 兄は父のことをあいつ、と呼ぶ。喧嘩してばかりで互いに険悪な状態がずっと続いている。

「先週の『漫才チャンピオンシップ』録画してるから見ようよ?兄ちゃん、まだ見てないよね」

 そういえばここ数ヶ月兄とテレビを見ることがないなと思って、幸太は兄を誘った。だが

「悪いけど、眠いから寝るわ。夕飯になったら起こしてよろしく。部屋の鍵は開けとく」

「わかった」

 ちょっと寂しかったが、幸太は仕方ないと考えて階段を降り、リビングルームのソファに腰掛け、録画していた『漫才チャンピオンシップ』を見る。リビングルームはキッチンから流れてきた夕飯のカレーの匂いで包まれていた。幸太も好物なので胸が躍る。

 『漫才チャンピオンシップ』には幸太の推す漫才師『アボリXY』が出場していた。結成十年目の漫才師で、安定感ある笑いと、イカれている面白さで五年連続の『漫才チャンピオンシップ』出場となる。

 確か、この芸人は兄の好きな芸人だったはずだ。これも兄譲り、更にはカレー好きも兄譲りだったはずだ。幸太は改めて、自分に大きく影響を与えている兄への尊敬の念を覚え、いじめから兄を救わなければという正義感が、さらにさらに体にまとわりついてくるのを感じた。

 『漫才チャンピオンシップ』を見終えて、夕飯を終えて自室に戻り、また、録音した内容を確認する。

 さっき大滝が寝た部分から一時間ほどスキップすると、大滝が起きたようで大滝がまた通話を始める。大滝の親はまだ帰ってきていないようだ。

〈よく寝たーーーああ、お前ら戻ってきたかーーー一時間ほど仮眠をなーーーえーーーそれーーーあーーー期末ーーー模範解答なーーーPDFーーー金は明日でいいな〉

 期末の模範解答、と聞こえたが、これはどういうことだろうか。金は明日? ということは...。何か金のやり取りが、期末の模範解答に関連して行われている。とすると、まさか、大滝は一学期期末の模範解答の押し売りをしているのか? あいつのことだから何か狡賢い方法で盗んで学年の生徒たちに押し売りしている可能性はある。でも。

 しかし、これが正しいとすれば、それはつまり、大滝は通話で同級生に連絡をして、期末考査の模範解答を押し売りしていることになる。

 ならば、今、幸太は奇跡的にも大滝の押し売りの現場を捉えたということになる。これは脅しに使える。幸太はほくそ笑んだ。いや、脅しに使うよりいっそのこと教師にチクって大滝らを根こそぎ検挙してもらった方が良いのかもしれない。どちらにせよ、これは相当有益な情報だ。

 そう考えているうちに会話は進展していて、幸太は慌てて意識を録音した会話の方に戻す。

〈儲け? 教えるかよーーー配分? 言うかよ、言ったらーーーだろ。じゃあーーー了解。ああーーー親がそろそろ帰ってくるーーー一旦自室上がるわーーーじゃーーー一旦切るな〉

 ここで通話は終わり、どかどかと彼が二階へ上がっていく音がした。考え事をして聞き逃した分の会話はまた後で確認しよう。そんなことより、この有益な情報だ。とりあえずこの部分だけカットして持っておけば何かしらの形で利用できるだろう。

 幸太はパソコンで動画編集サイトを開き、先程録音した音声を編集して、大滝の期末考査模範解答押し売りの音声だけが入ったものを準備した。

 まだ確信は持てないので、行動には移さないでおこう。行動...つまり、何かしらの方法でこの音声を学校に届ける。

 今後の盗聴や、調査で確信を持てるようになる情報を確認することはできるはずだ。そうすれば、大滝を痛い目に合わせることができ、上手くやれば、兄を少しでも助けることができる。

 結局はそう、兄を助けたい。だが、これはそれに向けての一つのステップになるはずだ。盗聴を続けるうちに兄を大瀧のいじめから助けられるような情報が手に入るかもしれない。

 幸太はウキウキだった。そのせいか、大滝が浜辺円に模範解答を盗ませたという可能性は全くもって考えなかったのだ。


 それからは暫く、大滝が一階で通話をすることはなかった。しかし、いつの間にか幸太は他人の家の会話や、雑音に耳を傾けることが楽しくなってきて、特に用がなくても、盗聴した音声を聞き、家族でテレビを見ることも、友人と外で遊ぶことも、部活動すらも疎かになっていった。

〈隣の家のーーーそうそうあの禿頭のーーーバツニなんですってーーー〉

 大滝の母はとてもおばちゃん気質の人でよく、知人と電話で長時間話し込む。その世間話の内容が意外と面白い。時には、幸太の友人の名前も話題に出てきた。

〈そうそう西岡さんとこのお坊ちゃんーーーなのよーーーエロ本なんてーーー必死で隠したそうよーーーなんで知ってるかって? ーーーまさか私は盗聴なんてーーー噂ですよ噂〉

 西岡さんとこのお坊ちゃん、西岡良は幸太の同級生だ。

 幸太は大滝の母の電話だけでなく、真夜中に仕事から帰ってきた大滝の父の愚痴も聞いた。

〈本当にーーーあいつも大きくなったーーー偉そうになりやがってーーー集団で溜まってコソコソとーーー〉

 時には会社の愚痴もあった。

〈なぜ俺が叱られるんだーーーあんな無能のせいでーーーくそーーー死んじまえーーー訴えてやる〉

 中でも幸太が一番聞いていて不快になったのは大滝が親から叱られているところである。

〈我儘な態度を取るのはーーーもっと謙虚にしろ〉

〈ほとんど仕事でいねえくせにーーー見てもねえのに偉そうにーーー〉

〈お母さんからーーーからな〉

〈知らねえよーーー実際に見てから言えーーーお前こそーーーするなよ〉

〈家に帰ってきたら真っ先にーーースマホスマホスマホーーーもっとーーーそんなのでーーー甘くはない〉

〈スマホ買い与えといてーーーそっちこそーーーだろ偉そうに〉

〈ふざけるなーーー勉強はーーー成績はーーー〉

〈じゃあ今から勉強しなきゃ〉

 他にも説教は録音できたが全て大滝がうまく交わしていた。そして、その度に夜、大滝の父が一人愚痴を吐く。だんだんそういったパターンは見えてきたものの、それでも幸太にとっては盗聴が最高の楽しみだった。

 

8


 そして、ついに再び大滝が留守番する機会がやってきたのだ。

 その日は異様に暑い日で幸太はアイスクリームを食べ、扇風機を回しながら音声を聞いていた。どうやら、大滝の家の扇風機が一台壊れたようで、大滝の母が買い物で家を開けたのだ。

〈今? 学年の八割ぐらいにはーーーそろそろ売るのやめるかーーー長々やるとバレるしなーーー俺は売るとかいうリスクのある仕事したんだから六割は貰うぞーーー二人にも四割やるから文句言うな〉

 ピッピッと音が聞こえた。エアコンをつけたのだろう。

〈お前見た? 昨日のあれだよーーー結構白熱したよなーーーあの最後の一球はすごかったーーーよく抑えたよな〉

 野球の話? 大滝は野球部だったっけ。

〈キーパーはよくあのボールキャッチしたよ〉

 サッカーかい。と呑気にツッコミを入れてしまうのは漫才の見過ぎか。

〈うん? ーーーあいつはええやつだからなぁーーーお前もイラチだなーーーちゃんと順調にいってんのか〉

 何の話だろうか。

〈本田二割、井伊二割でも、どっちかが全部でもーーー俺は興味ないからなーーーそれはなしに決まってんだろーーーこれで十割だ〉

 強欲だ。幸太は音声を聴きながら苛立ちを覚える。

〈エアコンが全然効かーーー親? ーーーそうそうーーー壊れやすいもん買うなよなーーーま、模範解答盗んで売ってーーー問題ねえな〉

 この音声は使える。前回編集したものとこの音声を匿名で学校側に届けられれば。

〈とりま、これぐらいにしとくかーーーそうそうバレたら台無しだろーーーああーーーだから、頼むぜ〉

 そこで通話が終わったようで大滝の鼻歌が聞こえてきた。その鼻歌がきたないものだったわけではないが、反吐が出そうなので再生を止めて、イヤホンを外した。

 確実に大滝を面談室送りにできる。更には停学、退学もありうるのではないか? 井伊本田の二人も停学にできれば、兄を救える。

 兄はずっと苦労してきた。ずっといじめられていて、ずっと耐えてきた。やっと、やっと兄を救える。ここまでの苦労も、辛さも痛みも、全てから。そして、恩返しができる、やっと。

 いや、厳密にはこの一回じゃ救えないかもしれない。停学ぐらいで済まされて退学までは持っていけないかもしれない。しかし、今後も盗聴を利用して大滝の悪事を暴いていけば。いずれは退させることも可能だ。

 幸太はそう考えて、この音声を切り取り、USBに二つの音声をまとめて保存した。

 これでいいだろう。学校に届ける際の告発のメッセージの準備も含めて終わった頃には日が暮れていた。夏は日が長いというのに、あっという間だ。

 USBを入れた封筒をポストに出し終えて、幸太が家に帰ってくる頃にはリビングルームは宅配ピザの良い匂いが立ち込めていた。トマトとチーズがこんがり焼かれた匂いと共にまるで、幸太を祝うかのように温かく。


 

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