第7話

 俺への中傷は続く。SNSにはクズだのゴミだの、捻りのない悪意が毎日書き込まれていて、最早俺の心は麻痺し始めていた。考えるのも馬鹿らしい。


「……もう辞めようかな」


 すぐにでも楽になる方法は二つある。

 一つは自殺で、もう一つは芸人を辞めること。


 この程度の悪口雑言あっこうぞうげんを受けたくらいで自らの命を絶つなんて馬鹿らしいことこの上ないし、必然的に後者を選ぶことになるのは間違いないけれど。


 でもまあ、もうどっちにしても無理だよな。こんな空気の中、どうやって笑わせるんだって話だ。ただでさえ笑いがないのに、更に追い打ちをかけるみたいに笑えない状況を作ってしまったんだから、諦めるしかないだろうな。


 引きこもり生活がもう何日目になるのかすら判らなくなってきている俺は、自室から出てキッチンへ飲み物を取りに向かう。最近は俺に代わって父親が買い物をしてくれるようになっているので、常に飲み物は冷蔵庫に用意されている。皮肉にも、俺が忙しい時は俺が全部熟していた家事は、俺が暇になってからは全部父親がやっている。


 感謝はしない。当たり前だからだ。今までやってきていた分、今度はそのくらいやってもらっても罰は当たらないし、むしろまだ俺がやっていた期間のほうが圧倒的に長いんだから、感謝どころかもっとしっかりやれよとどやしてやりたいとすら思う。


 キッチンに行きパックのまま直接牛乳を飲んでいると、リビングでテレビを観ている父親の後ろ姿が目に入る。


 ああそうか、今日は仕事、休みなのか。そういえば今日は日曜日だな。曜日の感覚もなくなってきた。芸人は平日も祝日も関係ない仕事だけど、それでも曜日感覚はなくならなかったんだけどな。


 そしてボーっとそんなことを考えながら部屋に戻ろうとすると、テレビの映像がチラリと見える。

 画面には、俺が出ていた。


 あれは確か、グルメリポートの時だ。スタジオのMCから無茶振りをされ、ラーメン屋の店長に殴られそうなったやつ。スタジオに怒鳴り込んでやりたいのをグッと堪えた記憶が沸々ふつふつと沸き起こる。忘れたい記憶が穿ほじくり返された気がして、俺は眉間に皺を寄せる。


 それは録画した番組だったみたいで、俺のシーンが終わると父親は録画リスト画面に切り替える。そしてまた別の番組が始まる。やっぱり出てくるのは俺だった。それは朝の情報番組で、三分くらい時間を貰ってネタを披露したあとに深夜のネタ番組の番宣するというものだった。


 ここでは司会者がとびきりの作り笑顔で「やっぱり面白いですね」と言ってくれて、俺も顔を引きつらせながらありがとうございますと返して、そのあとは特に盛り上がりのない会話が続いて番宣して終了する。


 次に切り替えらた番組はゴールデンにやってるネタ番組。基本は漫才がメインだけど、箸休め的な感じで俺が小ネタをしてスタジオを微妙な空気にするという感じだった。


 その後も父親はいくつも番組を変えていく。どれもここ数ヶ月で撮ったものばかりだからどれも鮮明に覚えている。くだんの番組もあった。俺が名を売って、そして嘲笑あざわらわれる切っ掛けとなった忌まわしき番組も。やっぱりなぜかうちのテレビでは女の笑い声は聞こえないけれど、父親は職場の人からその話を聞かされたらしいので、当然その奇っ怪な出来事を知っているはずだ。


 そして俺は自分が映るテレビから目を背け、現実からも目を背け、ただ直立している。

 俺が逃げようとした世界が、我が家のテレビに映し出されている。

 俺は途端に腹立たしくなり、父親に怒鳴り散らす。


「ふざけんなよ、おい! 当て付けかよ!」


 いきなり激昂した息子を振り返らずに父親はテレビを観ている。


「無視すんじゃねーよ! てめーは……いつも……いつも俺を無視して……全然話を、聞いてくれないし……」


 俺は泣きながら父親を罵倒する。


「いつも、いつも……俺がどれだけ傷ついてても、困ってても、どうしたらいいかわからなくても……いつもなにも言わない……だから……」


 俺の話を聞いてくれたのはいつも母親だった。


 俺には母親しかいなかったのだ。あの人はいつだって、なにをしていたって、俺が話したいときには必ず手を止めて、俺の話を聞いてくれた。何分でも何時間でも、俺の面白くもない話に付き合ってくれた。


 そして、笑ってくれた。俺はあの笑顔が見たくて、あの笑い声が聞きたくて――。

 ……? あれ、もしかして――


たかし


 数年ぶりに聞いたんじゃないかってくらい、耳に馴染みのない声で父親が俺の名を呼ぶ。


「俺も翔子しょうこも、お前の味方だ」


 こちらを振り返ることなく、俺に背を向けたまま、頼りない大黒柱であり続けた父親はそう言った。


 いつも後ろ姿しか見てないなかった俺が見飽きた頼りない背中はやっぱりどうしても頼りなくて、でもそれは歳の分だけ俺が成長した代わりに歳の分だけ老化が進んだ父親の背中が少しだけ小さくなったからで、俺はなんだか自分がまだ小学生の男の子として父親に甘えたいんじゃないかみたいなことを考えてしまい目を閉じる。


 目を閉じて、父親の言葉を反芻はんすうする。

 両親は、俺の味方らしい。

 そんなの、言われなくてもわかってる。

 あんた達が、俺の味方だってことくらい。


 一言も俺を叱らなかったのは、俺が叱ってほしくないと思っていたからだし、なにも言わなかったのは、俺がなにも言ってほしくなかったからだ。


 昔からそうだった。俺が母親に話すから、多分俺の話を聞かなくても色々と気付いていたし、必要であれば俺から話しかけてくるはずだから、自分からはなにも言わなかったんだろう。


 不器用な男だから。


 他にやり方なんていくらでもあるはずなのに、一番下手くそなコミュニケーションをいつも選ぶんだ。


 当て付けみたいに俺に自分が出演した番組を見させたのも、きっとなにかを気付かせたかったからだ。そして俺は偶然だけど気付いてしまう。父親がなにをしたかったのか。でも言葉にすれば簡単なのに、それを選ばず回りくどいやり方で俺に教えた父親は本当に不器用で、むしろここまで来ると笑ってしまう。客を笑わすことができなかった俺が、笑ってしまう。


 ふぅー。

 嘆息するかのように、そして、胸の中に溜まった悪性の感情の全てを吐露するかのように、俺は大きく息を吐き出して、未だにテレビから目を離さない父親の背に言う。


「……これから墓参りに行ってくるよ」

「……気を付けてな」

「伝言は?」

「別に」


 俺は部屋に戻って着替えてから軽く身だしなみを整えて電車とバスとタクシーを乗り継いで、それほど高くない山の麓にある墓地へ向かう。

 タクシーの中で、花でも用意していくべきだったかと今更ながら気付くけど、でもまあいいかと思い直す。どうせまたすぐに来るつもりだし。

 目的地に着いた頃には日が沈み始めていて、辺りは夕闇に包まれている。


「遅くなってごめん」


 俺は母親の墓前にしゃがみ、目を閉じて、手を合わせる。


「思い上がってたつもりはないけど、やっぱ調子に乗ってたみたいだ。こんなつもりじゃなかったって言いたいけど、でもこれが俺の実力で、頑張ったつもりだったけど、及ばなかったんだ」


 風が冷たくなってきて、もう一枚羽織って来たほうが良かったかなと少しだけ後悔しながら、俺は目を開ける。


「今日は報告だけしに来たんだ。俺、もう少し頑張ってみる。頑張りが足らないなら、もう少しだけ――いや、精一杯やってみるよ」


 運動不足のせいか、立ち上がると目眩がして蹌踉よろめきながら俺は苦笑する。


「だからさ、もう少しだけ母さんも見守っててよ」


 母親の笑顔を思い出しながら俺は感謝を込めて伝える。


「もう、みんなに笑い声を聞かせなくてもいいからさ」


 過保護な親だなと、言われてしまうだろうか。俺もそう思うから仕方ない。いつまで経っても子供が心配なのは普通の親心なんだろうな。


 今度は俺が作った笑い声を、そっちまで届かせるから。

 約束するよ。

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Life of Laughter 入月純 @sindri

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