第16話 練習
6月中旬の日曜日。
すでに梅雨入りしたこともあり朝から雨が降っている。
「あー美味かった、ざるそば。結斗は将来、料理人になれるぞ」
「いや、スーパーで買ったそばを茹でただけだから誰でも作れるぞ。あと、そばつゆも」
父さんと夕子さんは日曜出勤の日が多く、今日も俺と陽菜の二人きり。
「さて、洗い物片付けるか」
「あ、結斗。私がやっておいてやるよ。この後、買い物行くんだろう?」
「え、ああ。一緒に行かないのか?」
「ネット通販で注文した化粧品が今日届くから、家にいないと」
「そっか。良いのか?洗い物頼んでも」
「任せとけって。そのかわり例のお菓子買って来いよ」
「あの激辛スナック菓子か……よくあんな物を好き好んで食べるな」
昼食の後片付けを陽菜に任せて、俺は地元のスーパーへ向かった。
日曜日ともなればいつも大勢の人で賑わっているこの店も雨が降っているせいか、かなり人が少ない。
「えっと、醤油と味醂と……あと例のお菓子か」
目的の商品をカゴに入れて、レジで会計を済ませる。
「結ちゃん!」
「ん?あ、美玖。奇遇だな」
買った品物をエコバッグに詰めていると、偶然美玖と鉢合わせた。
「今日は、スーパーすいてるな。美玖も買い物?」
「うん。いつもみたいに混んでたら結ちゃんのこと見つけられなかったかも」
俺たちは買い物を終えスーパーを後にして、帰路に就く。
「結ちゃん。さっきバッグに入れてた物って凄く辛いお菓子だよね。辛いもの苦手じゃなかったけ?」
「え!?あー、パッケージに釣られて……冒険してみようかと思って、な」
(陽菜に頼まれたからとは言えないよな)
雨が一時的に止んで、傘を差す必要もない帰り道を俺たちは雑談をしながら歩く。
10分ほど歩いて、美玖の家の前までたどり着いた。
「送ってくれて、ありがとう」
「ああ。また、学校で」
「あ、あの!」
彼女の少し大きな声に呼び止められて、俺は振り返った。
「ちょっと寄っていかない?……もう少しお話したいし」
「え?いや、でも」
「お母さんも……久しぶりに結ちゃんに会いたがってるんだ!だから……」
(そういえば、美玖のお母さん……おばさんには、しばらく会ってないな。昔は良く俺の面倒も見てくれた気がする)
「そっか。俺もおばさんに久しぶりに会いたいかな」
「う、うん!じゃあ、上がって」
こうして、俺は数年ぶりに美玖の自宅にお邪魔することになった。
「お邪魔します」
「はい、スリッパどうぞ」
久しぶりに訪れた美玖の自宅は何というか、物凄く懐かしい気持ちにさせてくれる。
「ごめんね。リビング散らかってるから……私の部屋で」
「あ、ああ。うん」
少し緊張しながら入った美玖の部屋は綺麗に整理整頓がされていて、あまり派手さを感じさせないスタンスはどこか俺と似ているような気がした。
「殺風景でしょ。私の部屋」
「いや、俺も似たようなものだし……着飾らない美玖らしいなって思うよ」
そんな部屋の中で、唯一目立っていたのがベッドに置かれていた大きなイルカのぬいぐるみ。
「それって……俺が昔……美玖にあげた」
「!?そ、そう!覚えてる!?」
「い、いや。なんとなく……そんな気がして」
一瞬だけ、昔の映像が脳裏をよぎった。
浴衣姿の俺と美玖と……イルカのぬいぐるみ。
「そういえば、おばさんは?久しぶりに挨拶しないと」
「あ!あの……ちょっと今出掛けてて少ししたら帰ってくると思う……かな」
少し慌てるようにそう言った美玖は、本棚から何かを取り出して部屋のテーブル前に座るよう促してくる。
「ねえ、一緒にこれ見ようか」
床に腰かけた俺に見せてきたのは美玖のアルバムだった。
「私たちが小学校の時の写真が沢山あるんだ」
「俺の写真も?」
「勿論。昔はどこ行くのも一緒だったでしょ?」
開かれたアルバムの中には、確かに俺と美玖の楽しそうな写真が何枚も保存されていた。
市民プールに一緒に行ったり、家族ぐるみで遊園地に行ったり、地元の夏祭りに行ったり……。
なんだろう……この気持ちは……?
「懐かしいね」
「ああ、懐かしい……な」
……そうか。
俺は懐かしいと思っているのか。
頭の中にかかっていたモヤが少しずつ晴れていくような、そんな気がした。
でも、もっと大切なことを忘れているような……。
そのことは、どうしても思い出せない。
「ん、あれ?もう、こんなに時間経っていたのか」
「そうだね。一時間近くアルバム見るのに夢中になってたね」
「おばさん、帰ってこないな」
「え?あ……うん」
「そろそろ俺帰るよ。家の事もしなくちゃいけないし」
俺は立ち上がり、荷物を持ったその時だった。
「待って!」
美玖の大きな声が室内に響き渡り、俺の手を力強く握ってくる。
「ねえ、西条さんのこと……どう思ってるの?」
「え!?な、なんで急に西条さんの話に?」
「急なのは、結ちゃんのほうじゃない!」
怒っているのか、悲しんでいるのか……何かにムキになっている美玖の表情は久しぶりに見た気がする。
「教室で少し仲が良いだけかなと思ってたら、一緒に下校するようになってるし!西条さんは絶対に結ちゃんのこと……」
そこで美玖の言葉が止まり、少し沈黙の時間が流れる。
「あ、あの……美玖」
俯いている美玖の顔を覗き込もうとした矢先、俺は力強く腕を引っ張られて強引にベッドの上に座らされる。
「この間の話、覚えてる?」
「な、なんの話?」
妙な緊張感が俺の体を蝕んでいく。
「性教育」
「え、え!?」
「私、何も経験ないから……結ちゃんに色々と教えてもらおうと思って」
彼女は、俺の右手を取ってそれを自身の胸に押し当ててくる。
「ちょ、ちょっと待て!こ、こういうのは好きな人同士でするって言ったじゃないか!」
「うん、そうだね。だから、これはその時上手にできるようにするための練習だよ」
「い、いや、こんなところをそろそろ帰ってくるおばさんに見られでもしたら」
「それは大丈夫。お母さん、今日実家に戻ってて遅くまで帰ってこない。お父さんはお仕事だから、家には他に誰もいないよ」
「さっきは少ししたら、おばさん帰ってくるって……」
「それは嘘。そうでもしないと、結ちゃん、家に上がってくれなかったでしょ?」
「そ、そんな嘘なんかつかなくても」
「結ちゃん、昔からよく言ってたよね。嘘も方便だって」
美玖は、俺に体をより近づけてくる。
その体から漂ってくる甘い良い香りが俺の脳内を刺激する。
「ご、ごめん!俺、帰る!」
そんな彼女の誘惑を振り払うように、俺は立ち上がり美玖の家を出た。
さっき込みあげてきた男の欲求を押し殺して俺は走って家に向かった。
▼▽▼▽
小雨だったため、走ってもあまり濡れずに家に帰ってくることができた。
俺の右手には、まだ美玖の柔らかい感触が……。
首を左右に大きく振り、自制心を思い出す。
「ただいま」
「遅い!」
玄関の扉を開けると、そこにはイライラしている陽菜が待ち構えていた。
「買い物するだけで、なんでこんなに遅くなるんだ!?」
「え!?あ、ああ。ちょっと寄り道をしてて……な」
「寄り道?どこ行ってたんだよ?」
さっき、あんなことがあったばかりで美玖の家だとは言いづらい……。
「え、えっと……コンビニに行ってて」
「なんでスーパーに行った帰りにコンビニに行くんだよ!いつもコンビニは単価が高いって言って結斗は行かないだろうが!」
「そ、それは……コンビニに置かれてる雑誌が読みたくて」
「それで、こんな時間になるのか?ていうか、何で手ぶらなんだよ!?」
「ん?あ!」
ここで俺は慌てて美玖の家を飛び出してきた時、荷物を置き忘れてきたことに気が付いた。
「あー、いや。どこいったんだろう……荷物……ハハ」
「結斗。どこ行ってたか正直に答えろ!」
「どこって、それは──────」
インターホンのチャイムが俺のひ弱な声をかき消すように鳴った。
「ネット通販の商品届いたか」
陽菜が玄関の扉を開けて外に向かったのを見て、俺は一息ついた。
「な、何しに来たんだよ!?」
玄関の外にいる陽菜の大きな声が俺の耳に入ってくる。
何事かと思い、俺も玄関の扉を開けた。
「な、なんで西条さんが結ちゃんの家にいるの……?」
そこにいたのは、俺の忘れてきた荷物を持って茫然と立ち尽くしている美玖だった。
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