第6話 審問の影
夜の祈りを終えたあとも、セリーヌの胸には静かなざわめきが残っていた。
修道院は沈黙に包まれ、廊の先では灯火がゆらめき、遠くから聞こえる鐘の音が夜の境界を溶かしていく。
あの「試練の夜」から幾日が経っても、神の声はなお沈黙を守り続けていた。
だが、沈黙の底には確かに何かが蠢いている。彼女にはそれが、神の思惑なのか、それとも別の“意志”なのか、判然としなかった。
胸の奥に宿る声――アッシュ。
彼はもう幻聴ではなく、確かな存在として彼女の内に在った。
影でありながら温かく、異質でありながら不思議に安らぎを与える。
互いの呼吸が混ざり合うように、彼の存在はセリーヌの祈りの rhythm にさえ重なっていた。
――セリィ。
アッシュの低い声が闇の底から響いた。
「どうしたの、アッシュ?」
――……“あの嫌な感じ”が、近づいてる。前に言っただろ。あの時の気配が、今夜は
もうすぐそこにいる。
「……試練が、来るのね。」
――試練、ね。ほんとにそう言うんだな。お前たちは何でも神の意志にしてしまう。だが、今回は違う。これは“人”の足音だ。
セリーヌは小さく息を呑み、顔を上げた。
窓の外では夜風がひそやかに木々を揺らし、遠くの闇の向こうから、かすかな金属音が聞こえる。
それは鎖が擦れるような、不吉な音。
アッシュの言葉通り、何かが確かにこちらへ近づいていた。
やがて、修道院の門が低く軋む音を立てた。
誰かが扉を叩く。鈍い衝撃音が静寂を破り、修道女たちの間に緊張が走る。
警備の者も、修道院の長老も、夜分の来訪者にただならぬものを感じ取っていた。
「――異端審問官です。神の名のもとに、調査を行う。」
扉の向こうから聞こえた声は、冷たく、張りつめていた。
修道女の一人が息を詰まらせ、長老が重い足取りで扉を開ける。
そこに立っていたのは、黒衣に身を包んだ男だった。
銀の鎖を垂らした杖を手に、目元には信仰の印――だが、その眼差しは慈愛ではなく、審判の光を宿している。
「この修道院で、禁忌の力が行使された形跡がある。」
彼はそう言い放ち、杖を掲げた。
杖先から淡い光が漏れ、空気が張り詰める。
「神の恩寵を偽る影――“異端の兆し”を見た者がいる。ここで確かめさせてもらおう。」
セリーヌの胸が一瞬だけ高鳴った。
――まさか、あの時の……。
昼の出来事――あの熱湯が凍りついた瞬間。
アッシュが無意識に放った力。それが“証拠”として感知されたのだ。
アッシュの声が小さく響く。
――セリィ、すまねぇ。俺が、余計なことをした。
「違うわ。あなたは、守ってくれたの。」
セリーヌは心の中でそう答えた。
だが、今それを口に出すことはできない。
目の前の審問官は、人の心よりも“神の律”を信じる存在。少しの情けも通じはしない。
審問官は廊下に白い粉を撒き、祈祷文を唱えながら低く呟いた。
淡い光の紋が床に浮かび上がり、まるで大地そのものが応答するように微かに震える。
そしてその光が、セリーヌの胸のあたりで強く揺れた。
「……そこだ。」
審問官の声が冷たく響く。
「……そこに影が宿る。」
修道院の空気が凍りついた。
修道女たちが息を飲み、子どもたちが小さく悲鳴を上げる。
長老のシスターが震える手でセリーヌの前に立った。
「お待ちください。セリーヌは、私たちの信仰そのものです。彼女が異端など――!」
「情けは無用だ。」
審問官は一歩前に出た。
「影が触れた者は、知らず知らずのうちに汚される。神に代わり、我が手が裁きを下す。」
修道院の人々がざわめき、しかしその中でセリーヌだけは静かだった。
アッシュの気配が、胸の奥でわずかに震える。
――お前、逃げる気はないのか。
「逃げられないわ。ここには、守るべき人たちがいる。」
――バレたら、ここの全員が巻き添えになるぞ。
「それでも、私は“この場所”を守りたい。」
彼女の言葉に、アッシュは短く息を呑んだ。
そして――わずかに笑った気配がした。
――あぁ、ほんとお前ってやつは……。
審問官が杖を掲げ、古の呪文を唱える。
光の鎖が走り、空気が裂ける音がした。
聖句の響きが修道院の石壁に反射し、眩い光の輪がセリーヌを囲む。
「異端の証を見せろ。神の名のもとに!」
その瞬間、セリーヌは胸に手を当てた。
祈るように、しかしその祈りは懇願ではなかった。
彼女の意志を形にするための、静かな決意の行為だった。
「……どうか、この者たちを傷つけないでください。すべての罪は、私ひとりが負います。」
審問官が杖を振り下ろす。
光の刃が放たれ、空気が裂ける。
が――その刹那、闇が動いた。
アッシュの影が、セリーヌの周囲を包み込むように膨らむ。
黒い波紋が床を伝い、光を呑み込み、審問官の攻撃を弾き返す。
回廊に衝撃が走り、壁が軋む。
「これは……っ、異端の顕現……!」
審問官の瞳に驚愕が宿る。
影の中心で、セリーヌはただ静かに立っていた。
その姿はもはや、ただの修道女ではない。
影と光の狭間に立つ者――人であり、神の試練を抱く者。
アッシュの声が重く、低く響く。
――俺は、守る。セリィ、お前を。そしてこの場所を。
「アッシュ……。」
その声には恐れではなく、確かな信頼があった。
影と祈りが交わる瞬間、彼女の裾がふわりと舞い上がる。
アッシュの影が手のような形をとり、審問官の放つ光の鎖を絡め取った。
「神よ、これは罰ですか、それとも――」
セリーヌの呟きは祈りに似ていた。
光と影がぶつかり合い、回廊が震える。
子供たちの泣き声が遠くに響き、誰かが名を呼ぶ。
それでも彼女は一歩も退かない。
影を背に、光を正面に、セリーヌはただひとり立ち尽くしていた。
審問官の杖が再び光を帯びる。
その光が放たれる直前、アッシュが低く囁いた。
――セリィ、目を閉じろ。
次の瞬間、眩い閃光とともに、世界が白く染まった。
光と影がぶつかり合い、修道院全体が震える。
その衝撃の中、セリーヌは確かに感じた。
神の沈黙の奥から、何かが彼女を見つめている――
まるで、「これが答えだ」と告げるように。
そして、夜は深く沈み込んだ。
審問の影が、静かに修道院を覆っていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます