第7話 沈黙の祈り

夜明けの光が、焼け焦げた大地を慰めるように修道院の回廊を照らしていた。

昨日の戦いの跡は、生々しく残っている。

砕けた聖像、裂けた壁、祈りの席に散った聖書の頁――。

だが、それ以上に痛ましかったのは、そこにいたはずの人々の沈黙だった。

審問官たちは去った。

あの異様な光景を見て――黒い影が彼女を包み、炎の中で彼女だけが立ち尽くしていた姿を見て――彼らは恐怖と混乱のままに撤退した。

セリィを討つべきか、赦すべきか。誰も判断できなかったのだ。

そして今、修道院には深い静寂が降りている。

崩れた聖堂の中央で、セリィは膝をつき、血のついたロザリオを両手で握りしめていた。その頬には涙の跡が乾ききらぬまま残っている。

 ――セリィ。

耳の奥に、低く響く声が蘇る。

「……アッシュ?」

影のように、アッシュの気配が胸の奥でうごめいた。

だが、その存在は以前よりも薄い。昨夜、彼が現れてからの記憶は曖昧だ。

審問官の刃が自分に迫った瞬間、アッシュは確かに形を持った――闇の翼を広げ、セリィを包み、神の炎を跳ね返した。

その代償として、アッシュの力は今、彼自身を蝕んでいる。


――あの時……俺は、お前を庇ったんだな。

――……バカみたいだな、俺。影のくせに、光から逃げもしねぇで。


「バカなんかじゃないわ」


セリィは小さく微笑んだ。声は震えていたが、その瞳はまっすぐだった。


「あなたがいなければ、誰も生きていなかった。あの人たちも、私も。……ありがとう、アッシュ」


――やめろ。そう言われるのが、一番苦しい。

――俺はただ……お前が泣くのが嫌だっただけだ。


沈黙が降りる。崩れた天井の隙間から、一筋の光が差し込み、セリィの頬を照らした。

まるで、神が再び彼女を見ているかのように。

その光の中で、セリィはゆっくりと立ち上がった。

焼け焦げた聖書を拾い上げ、指でその頁を撫でる。

そこには、見慣れた祈りの一節――

「主は試練を与え、その中に赦しを宿す」――が、煤にまみれながらも残っていた。


「……神は沈黙していたのではないのね」


セリィの声は、穏やかで、それでいて確信に満ちていた。


「沈黙の中に、あなたを置いた。私が見落としていた“赦し”は、あなたの中にあったの」


――お前、それ……神の言葉みたいに言うなよ。

――俺はただ、居場所を見つけただけだ。お前の中っていう、な。


「それでもいいわ」


セリィは微笑み、胸に手を当てた。


「あなたがここにいてくれるなら、神の沈黙も、もう怖くない」


その瞬間、空気がわずかに震えた。

鐘の音でも風の音でもない――もっと静かな、しかし確かな“響き”。

セリィの胸の奥に、懐かしい声が満ちていく。


 ――セリーヌよ。


神の声。その声がセリィの心を包み込むとき、胸の奥でひとつの感情が交錯した。それは赦しでも、悲しみでも、祝福でもない。

もっと厳しく、冷徹で――怒りだった。


 ――お前は、なぜ異端に頼った? その影の中に、我が手を差し伸べようとは、どういうつもりだ? 


セリィの肩が震え、彼女は一瞬言葉を失った。


「……でも、あのとき、私には他に頼れるものがなかった。」


神の怒りは、まだ彼女に届かない。

だがその声の中に、初めて迷いが含まれていることに気づいた。


 ――その選択を、私は許さない。


セリィは息を呑んだ。

その言葉は痛みと共に胸に刺さった。

だが、すぐに彼女は顔を上げた。


「私が、神を裏切ったわけじゃないわ。」


セリィの声は確かだった。

神の怒りがどれほど大きくても、それを乗り越えた先にある信念に揺るぎはなかった。


「神が私を試すのなら、私はそれに耐え抜く。あなたの怒りが私を押し潰しても、それでも私は生きていく。」


――お前は……それで、どうするつもりだ?


その問いに、セリィは一度深く息を吸った。


「あなたが怒るのも無理はないわ。私が選んだ道は、確かに異端のものかもしれない。でも、私が望んでいるのはただひとつ――生きること。そのために、何もかも捨ててでも守りたいものがある。」


神の声はしばらく沈黙した。

しかし、その後に訪れたのは、まるで試練のような言葉だった。


 ――お前にもう一度、チャンスを与えよう。


その言葉は、セリィにとっても予想外のものだった。

神が怒りをぶつけるだけではない。

赦しを与え、もう一度生きる道を開けてくれるというのだ。

セリィは胸の奥で深い安堵を感じた。だが、それと同時に覚悟が決まった。


「……ありがとうございます。」


その声に、神の温もりが含まれていた気がした。

セリィは目を閉じ、静かに祈りを捧げた。それはもはや神への祈りではない。

彼女の内なる信念に対する誓いだった。

神はしばらく黙ったままでいたが、その後、セリィに対して別れの言葉を告げることなく、静かにその声を沈めた。

その時、セリィは感じた。

自分が選んだ道――アッシュと共に歩む道は、神の怒りをも超えていく力を持っていると。

そしてその力を使い、彼女は再び立ち上がる決意を固めた。


「もう一度、戦おう」


その一言が、静寂を破り、朝の光の中で響いた。

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