第5話 影が触れる時
夜の祈りを終えたあとも、セリーヌの胸には言いようのないざわめきが残っていた。
試練の夜から幾日が過ぎても、神の声は沈黙を守っている。
だがその沈黙の底に、確かに何かが蠢いているのを、彼女は感じ取っていた。
アッシュ――そう名づけた“声”は、いまや単なる幻聴でも、夢の残滓でもない。
確かにそこに「在る」。
呼吸を合わせるように、心の奥底で寄り添いながら。
それは影でありながら、奇妙に温かい存在だった。
――セリィ。
暗闇の中で、低い声が囁く。
「どうしたの、アッシュ?」
――……外、気をつけろ。いや、なんか嫌な気配がする。
その瞬間、空気がひやりと冷たくなった。
窓辺の灯火が微かに揺れ、夜の風が修道院の壁を撫でていく。
遠くで犬の遠吠えが響き、まるで世界そのものが何かを警告しているようだった。
セリーヌは胸の前で十字を切り、静かに息を整える。
「これは……また試練の前触れなのね。」
――試練、ね。ほんと、お前たちは何でもそう呼ぶな。
――痛みも孤独も、ぜんぶ“神の意志”で片づける。俺にはわからねぇよ。
「わからなくてもいいの。あなたは、見ていてくれるでしょう?」
――……ああ。見てる。離れたくても、離れられねぇしな。
その声に、かすかな優しさが滲んでいた。
セリーヌは微笑み、夜明けまで祈りの姿勢で膝を抱えた。
空の端が白み、鐘が朝を告げる。
修道院の朝は、いつもより冷たく静かだった。
祈りの声が石壁に反響し、まるで天と地の間で揺らめくように漂っている。
セリーヌは祭壇の前で掌を胸に重ね、瞳を閉じた。
彼女の祈りは、神への忠誠と――心の奥に潜む“影”への赦しを織り交ぜたものとなっていた。
――おい、セリィ。今日も祈るのか。
「ええ、祈りは私の一部だから。」
――……理解できねぇ。どうしてそこまで神に縋れる?
「縋るためじゃないの。確かめるためよ。」
――……確かめる?
「信じるということを、ね。」
アッシュは沈黙した。その沈黙が、彼の中に芽生えた小さな迷いのように、胸の奥で微かに震えた。
祈りを終えると、セリーヌは子供たちのもとへ向かった。
教室では幼い声で聖句を唱える練習が始まり、机の上には木の十字架が並んでいる。
セリーヌは一人の子の手を取り、文字をなぞるように指を重ねた。
その瞬間、胸の奥のアッシュが微かに息を呑んだ。
――お前、怖くねぇのか?
「何が?」
――俺のことだよ。お前の中にいるのは“試練”だろ。神が与えた影だ。
「怖いわ。でもね、それでも見つめることをやめたくないの。」
――……わけわかんねぇ。
「そうね。でも、それでいいの。」
昼食の鐘が鳴る頃、修道院の食堂では煮込みスープの香りが立ち込めていた。
子供たちが器を運ぶ中、一人の少年が足を滑らせる。
鍋が傾き、煮えたぎるスープが宙を描いた。
誰かが叫ぶよりも早く、セリーヌは子供を庇って身を投げ出した。
熱が肌を焼く――その瞬間、胸の奥でアッシュが叫んだ。
――危ねぇ!!
影が波紋のように広がり、スープの熱が一瞬で冷めた。
床に落ちた液体が、まるで凍りつくように固まる。
空気が震え、世界の音が一瞬止まる。
セリーヌは息を呑んだ。
「アッシュ……あなた、今……?」
――わかんねぇ。気づいたら、体が勝手に動いた。
「どうして?」
――……お前が火傷するのが、嫌だった。
その声は、これまでになく弱かった。
怒りも皮肉もない。ただ、戸惑いと焦り、そして――微かな痛み。
「ありがとう、アッシュ。」
――やめろ。そんな顔、すんな。俺は、守るつもりなんてなかった。
そう言いながらも、アッシュの気配は確かに揺らいでいた。
それはセリーヌの心に静かに沁み込み、祈りと混ざり合って一つの温もりを生んだ。
夜。
修道院の灯火が消え、石造りの回廊を風が撫でていく。
セリーヌは寝台に腰を下ろし、胸に手を当てた。
そこには、昼間アッシュが放った影の名残がまだ温かく残っていた。
――なぁ、セリィ。
「なに?」
――……俺さ、なんで動いたのか、まだわかんねぇ。
「それはきっと、“感じた”からよ。」
――感じた?
「あなたが、私と同じように“痛み”を知ったから。」
アッシュは答えない。
ただ、静かに息を吸うように、胸の奥で脈打つ。
「神よ、これは罰ですか、それとも祝福ですか……。」
祈りの声が夜に溶けていく。
――神なんて、もう信じてねぇと思ってた。
「でも、私を守ったのはあなたよ。なら、あなたが神様の一部かもしれないわ。」
――……冗談だろ。俺は影だぞ。
「影が光を恐れぬように、光も影を拒まないの。」
静寂の中で、二つの鼓動が重なる。
それはもはや“主と試練”ではなく、“一つの生命”のように響いていた。
その夜、アッシュの存在はより鮮明な形を持った。
神の与えた影が、確かに“心”を得た瞬間だった。
セリーヌは目を閉じ、胸の奥で震えるその鼓動を感じながら、静かに祈り続けた。
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