三.

 


 あの日は色なき風が吹いていた涼しくも寒さを感じる秋の明け方だったかと思う。


「おい、どこ行くんだよ!」


 翔吾の言葉も無視して、ボクは邪魔ったらしいリードを引っ提げ、この細長い階段を駆け上がった。栗が焼ける香ばしい匂いがしたのだ。ホクホクして柔らか栗は、ボクの好物の一つだった。だから、ボクは駆け上がる。若くて無知だったボクは、人間という生物は皆、可愛いボクになんでも食べ物を分け与えてくれる存在だと思っていたのだ。ボクは一刻も早く栗をたべたかった。


 駆け上がった先には、比較的小さな、けれど、存在感のある古い神社が聳え立っていた。ボクが栗を求めて鼻をヒクヒクと懸命に働かせていると、境内の裏の方でヒソヒソとおしゃべりする声が耳に入ってくる。


「貴女はね、とても強い神力があるから、声を失って生まれたの。だから、喋れないことは誉れなのよ」


 若くもなく年老いてもいない女の声が優しい口調で、説得するかのように語尾を強めて誰かを諭している。ボクは栗を探すことを一旦やめ、トイレをするのにちょうどいいところを探しているフリをしながら、そば耳を立てる。今の時代、『喋れない』なんてことがあるのだろうか。技術が発展した世の中だ。声帯移植や声帯を作り出す機械があるというのに。


「さぁ、今日も祈りなさい。民のために、国のために、世界のために。そしてなにより、この神社に貢献するために。今日もお金をたんと稼ぐのよ」


 チリンという鈴のような音が聞こえる。それと同時に、


「喋れない貴女にはそれくらいの価値しかないのだから」


 本当に微かな声が風に運ばれて聞こえた。微かな声だけれど、定かな悪意を感じる。


 そうか、喋れないとされていた者はにえなのだ。作られた偶像なのだ。


 合点がいった。この時分、神をひどく崇拝する人々を中心に「この世界に今こそ預言者を」、「神の子の遣いを」、「神力の高い娘を」、「本当に力のある神父や神主を」という声が世界各国で息巻いていた。それを受けた神社や教会は偶像を意図的に作り出したのである。それはまるで、かつての信仰で持ち上げられていたキリストであったり、聖母マリアであったり、その他各種の預言者を模倣するように。


 この神社で預言者の槍玉に挙げられたのは、まさに今、女の悪意に晒されている者のようだが、その者の匂いや動く気配を全く感じられなかった。ボクはどのような者が贄となっているのか気になった。音を立てないよう敷石を歩き、声のする方へと向かう。冷ややかな風に曼珠沙華が揺れ、ビルの隙間からきらりと日が差し込む。翔吾は呑気に大きなあくびをして、ボクの後ろをついてきた。


 こそりと境内の裏を覗く。ここから声が聞こえた気がしたからだ。だけど、そこには誰もいない。ボクはキョロキョロと辺りを見回した。その時だった。十二、三歳の少女が小さな祠からひょこりと顔を出したのだ。


「あれ……キミは……?」


 翔吾が問いかける。少女は黙っていたけれど、ボクにはすぐわかった。この少女が贄だ。声の出せない哀れな偶像。


「初めまして。勝手に入ってきてごめんなさい。俺、レオの……えっと、この犬の散歩をしていて、もしかして、勝手に入ったらダメだった……かな?」


 少女は首を振る。そして、優美な所作で身体全体を祠から出した。パリッと張った巫女服がしなやかに動く。手にはペンとノートを持っていた。


「えっと……」


 翔吾が口籠もると、少女がノートにペンを走らせる。ボクは近づいてノートを覗き込んだ。


「うわっ! レオ! そんなに近づいたら迷惑じゃないか。コラ!」


 翔吾の言葉も無視して、ボクは少女に近づく。シャンプーのいい匂いがした。


『ごめんなさい。私、声が出ないの。……でも、ここにいても大丈夫。神のお膝元はいつだって民に開かれているのだから』


 書道家が書いたような美しい文字がノートに並ぶ。どさくさに紛れてノートを覗き込んだ翔吾が息を呑んだのがわかった。


「え……? 声が出ない……? どうして、声が出ないの? 声を治す手術とかをすればいいのに」


『私は神の子だから。神にもらった体に何かを施してはいけないの』


「神の子って……どういうこと?」


『私は声と引き換えに神聖な力を手に入れたの。だから、その契約を反故にして声を手に入れることは御法度なんだ』


「つまり、キミは声を出したいと思わないってこと?」


 少女が頷く。


「あと、キミが着てるのって、巫女様の和服、だよね? 巫女様ってずっと神社にいないといけないんだよね?」


 少女が再び頷いた。


「でも、キミ、ボクと同い年くらいでしょ? それなのに、巫女様をやっているの? 学校は? 子供は働いちゃいけないって、国の決まり事があるのに、キミの親は決まり事を無視してキミを巫女様にしているの?」


 翔吾はしゃべっているうちに気持ちが昂ってしまったのか、質問を捲し立てる。そんなに尋ねたら彼女も答えを書くのが大変だろうに。


 キュッ、キュッと、マーカーペンがノートを走る音が響いた。


『神に遣える存在は特別。だから、治外法権が適用される。私は政府にも認められた神の子だから、私は学校も行かず、神に従事しているの』


「……ごめんなさい。正直に言います。実はさっきから読めない字があるんだ。だから、あの、恥ずかしながら、キミの言ってることをあまり理解できてないんです」


 気まずそうに頭を掻いてから、


「あっ、そうだ! えっと……このデバイスに文字を入力してもらうことはできるかな?」


 翔吾は真っ黒な竜のイラストが描かれているブレスレットのボタンを押して、ホログラム式ディスプレイを空中に表示させた。少女は首を傾げた。そして、すぐに首を振る。おそらく使い方がわからないのだろう。


「わからない?」


『ごめんなさい』


「わかんないかぁ……」


 翔吾はホログラムを消すと、うむむと腕を組む。随分と大袈裟な動きだ。可愛らしい巫女様に少しでも注目してもらいたいという魂胆が見え見えだ。読み方がわからないなら彼女にルビを振って貰えばいいのに、と思ったのだが、「ワン」としかしゃべれないボクの思いは翔吾に伝わることはなかった。


 それにしても、可哀想な少女である。達筆な文字と使っている漢字から、少なくとも教養やある程度の学力は身につけているのだと思う。しかし、学校に通えず、友人を作れないことはなんと悲しいことか。ボクは人間ではないから、学校の本質はわかっていないけれど、それでも、学校から帰ってくる笑顔の翔吾を見ていたら、学校が如何に楽しいところなのか推察することができる。


 話せないことも、学校に通えないことも、可哀想だ。贄というものが不自由なことは知っていたが、実際の贄を目の当たりにして同情の気持ちが湧いてしまう。


「ちょっと、サヤコ? 何をしているの。朝の祈りの時間でしょう?」


 女の柔で優しい声が突然現れ、少女のことを窘める。女はボクらという異質な存在がいることに気づいているらしい。外行きの友好的な顔をして、少女の隣に立ち並んだ。


『ごめんなさい』


「いいのよ。参拝者の対応も大事なお仕事ですからね。……さて、あなた達。申し訳ないけれど、今はお祈りの大切な時間なの。この子に会いたいのなら、午後の謁見の時間にまた来ていただけるかしら」


 緩んでいる口元とは裏腹に、目元はひきつっている。ボクは翔吾の服を引っ張った。ここにいてはいけない気がしたからだ。


「うわっ。何するんだよ、レオ! ……勝手に入ってすみません。また来ますんで」


 翔吾とボクは足早に小さな神社を後にする。既に日は上りきっていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る