二.

 


 人影が全く見えない渋谷に、生温かい風が吹き込んでくる。


「最後の晩餐はなににしようか。……といっても、インフラ機能が停止してるから、今日も店に置いてある缶詰を食べるしかないんだけど……」


 インフラが止まり、電気もガスも水道もない無法地帯だけれど、人類は必要最低限のものだけを宇宙船に詰め込み、地球にたくさんの物質を置いて宇宙に旅立って行ったため、飲み食いに困らなかったのは幸いだった。自嘲気味に笑う翔吾を無視して、背筋を伸ばし歩く。誰もいない街を散歩するのは快適だった。排気ガス臭い車も、騒音激しいバイクも、煩わしい信号もない。快適だ。けれど、この状況は寂しくもあった。


 過ぎ去った時間を思い返すのは時間の無駄だとわかっているのに、ボクの脳みそはいつもおしゃべりに過去のことを引っ張り出してくる。思い出すのは、人で溢れかえっていた頃の渋谷だった。


 五年前、隕石が落とされると発表される前まで、この街は若者で溢れていた。古びた街並みと若々しい青年たちが混在する渋谷という街が、ボクはとても好きだった。


 それが一変、隕石落下の推測が出てきてからは、人間がどんどんと減っていった。人類は渋谷を、東京を、日本を、地球を捨てることを選んだのだ。それはそうだろう。今や宇宙旅行ができる時代だ。地球外の惑星に移り住む者も増えてきた。わざわざ滅びゆく地球に残る義理もない。人々は有り余るエネルギーを使い、宇宙船を作った。今まで見たことのないような大きい宇宙船だ。船は大きければ大きいほど安定する。宇宙酔いがしづらくなる。海船と同じ原理だ。


 隕石が落ちると発表されてからというもの、人間たちは慌てふためいた。政治家や大富豪は我先にと宇宙船に乗り込み、地球外へと逃亡する。国民は激怒したが、宇宙船は日々生産され、国民全員が乗れるだけのキャパシティーがあった。なんせ、隕石が落下するまで五年も猶予があったのだ。人々は毎日のように大きな荷物を抱えて宇宙船へ乗り込み、あっという間に地球を離れていく。彼らはあっけなく、何千何万年とお世話になった地球を捨てたのである。


 しかし、それを薄情なことだとは思わない。それが普通なのだ。当たり前なのだ。生きたいと願うのは生物の根本的本能だ。それなのに、コイツ——奥浦翔吾は、地球に残る道を選んだ。本当に意味がわからない。腐り、朽ちていくだけの地球に残ることにどんなメリットがあるのか。自殺願望があるのか、ただの馬鹿野郎なのかは知らないが、翔吾は友人、親戚から毎日のようにされていた夜逃げの誘いを断り、こうして地球最後の日までここで足掻いている。本当にバカだと思うが、ボクは翔吾の飼い犬だ。翔吾に従う事こそ、正義なのだ。だから、ボクは地球に残り、こうして翔吾と共に歩く。共に散歩をする。それだけのことだった。


 ボクたちは誰もいない廃れた渋谷を歩き続ける。さてこのあとどこに行くのだろうと思いあぐねていると、いきなり翔吾が立ち止まった。茶色のトレンチコートがひらりと舞う。そして、


「あれ。こんなところに、人がいるぞ。……彼女の後ろにあるのは、鳥居か?」


 とつぶやき、ビルとビルの隙間にある細い階段をまじまじと眺めている。階段のてっぺんに若い女が座っていた。ボロボロの白い小袖に緋色の袴を履いて、ぼんやりと空を見つめている。彼女の姿から見て、どこぞ巫女様のようだ。


「あんなところで何をしてるんだろう。死にゆく地球に残るなんて物好きもいたもんだ」


 翔吾のこの発言を聞けば、誰しも「お前が言うな」と思うだろう。ボクも思った。


 ボクたちは数分の間、物好きな彼女を観察した。彼女はぴくりとも動かない。ただ空だけを見つめている。まるで宇宙の果てを恋焦がれるように。


 何をしているのだろう……そう思った矢先、ボクは彼女のことを思い出した。ボクたちは彼女と一度だけ会ったことがある。それは、まだボクたちが隕石の存在を知る前、ボクもまだほんの小さな仔犬だった時のことだ。この通りはときどき散歩コースに選ぶことがある道で、何度かこの階段の前を通ったことがある。その時に彼女と出会ったのだ。


 チラリと翔吾を見る。彼は不思議そうな顔で巫女の少女を見つめていた。彼は彼女のことを覚えていないのだ。この階段を登り切った先に小さな神社があること、座っている彼女は巫女様であり、唖者であることを。なんと記憶力の悪い人間だろう。いや、ボクだって今思い出したのだけれど、それでも思い出さないコイツよりは記憶力があると言っていいだろう。


 しかし、巫女様もこの地球を見捨てなかったのか。とても意外だった。科学が発達してからというもの、人々は神はより一層信じるようになり、神社の地位も巫女の地位も信じられないほど向上したからだ。ボクには詳しくわからないが、神が宇宙を観測していない限り宇宙は存在し得ないとか、人間の祈りのエネルギーが証明されたとかで、人間は神への信仰をより厚くしたらしい。それまで無神論を唱えていたはずの日本人も、神の科学的証明がなされると、有神論者に寝返った。無神論犬のボクとしては、なぜ寝返ったのだ、意志の弱い人間め、と責め立てたくなってしまう。


 さてさて、そのお偉くなった巫女様がどうしてここに残ったのだろう。巫女様御一行ならば、待遇良く、かなり条件の良い惑星に移住できただろうに。考えてみてもわからない。巫女様の見ている空を見上げてみる。オレンジと青が混ざった空をしていた。その空はなんとも美しかった。もう少しであたり一面オレンジ色に染まるだろう。


 翔吾が動いた。登る者を拒んでいるかのような薄暗くて細い階段に吸い込まれるがの如く、歩いていく。迷いはないようだった。胸を張り、姿勢正しく階段を登る。巫女様と目が合う。巫女様の体がビクリと跳ねた。驚愕の表情で、翔吾のことを見つめている。巫女様は登り来る翔吾とボクを恐れているのかもしれない。


 ボクは階段を素早く登りながら、巫女様と出会った時のことを思い出していた。


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