第20話
五月も過ぎ、汗ばむ陽気が多くなる六月。
腕を伝い、肘から汗を垂らしながら朱利たちは来る日も竹刀を振り続けた。
様になってる、とは言えないが真っすぐ振りかぶり、真っすぐ振り下ろすという当分の目標は達成した。
他の部活の喧騒を聞きながらしばしの休憩をとった後、朱利たちが再び竹刀を握る。
「黒、ちょっと」
志姫が竹刀を持った黒を呼び左手を手に取った。
「ああ、やっぱり。血マメが潰れたんだ」
「その、大丈夫ですから。やれます」
黒がちらりと朱利の方を見て言うと呵々と志姫が笑った。
「根性論か。まあ、それも悪くはない。ただ、出鱈目な方向に振り絞ったところで自己満足しか得りゃしないよ」
そう言うなり、ちょいちょい、と朱利と茅も呼んで小部屋に入った。
「えっと、弟切草、弟切草――と、あった、あった」
志姫は事務机の引き出しから粉末の入った小袋を一つ取り出し、冷蔵庫横の天然水の封を切ると、すり鉢状の椀の中に小袋の中身と共に流し入れた。
溶かし切ったその液にガーゼを浸す。
「黒、手を出して。ちょっと沁みるよ」
志姫は黒の手をしっかりと握るとガーゼで血マメのまわりを拭き、軽く叩いた。
「うし、流血は止まったし、後は自然に良くなるのを待つだけ」
「ありがとうございます――」
そう、お礼を言う黒の言葉には後ろめたさがあった。
「朱利」と悄然としている黒を見て志姫が言う「手を借りるよ」
志姫は朱利の左手を掴み手の内を黒にみせた。
まだ柔らかい手の内にいくつかのマメがあり、その中で一つ潰れて水が出ている。
「このレベルのマメなら消毒して、包帯なりすれば素振りは出来るだろうさ。だけど血マメとなると傷が広がる可能性や菌による悪化とかも考えられる。でさ、豆の話は一旦置いておいて、例えばだけど今、外で練習してるソフトボールは雨が降ったら練習は無しになる?」
「それは――ならないです」
「そうだね。校舎の階段を駆けたり多目的室にマットを引いて筋トレや素振りをしてる。外の練習が全部というわけじゃないんだ、出来ることやれる場所でどう鍛錬するのかが大事なんじゃないかな」
どこか生気のなかった黒の瞳に光が射す。
顔を上げ、気恥ずかしそうに志姫を見る。
「あの、走り込み行ってきていいですか。とりあえず五周、無理はしないので」
「気を付けてな」
黒が立ち上がり一礼し小部屋からでる。
ふぅ。と安堵のため息を志姫が漏らし、朱利と茅を見た。
「今の説明、説明?変じゃなかったかな」
「そんなことないです!」
茅が掛かり気味で答えた。
「なら、よかった」
ふぅ。と再び志姫が息をもらす。
「あの」と、おどおどとした様子で朱利が言う「コレなんですか?」
指さしたのは先ほど志姫が作った液。
「これはね、お手製の消毒液、といったところかな」
志姫はそういうと救急箱から新しいガーゼを取り出し浸す。
そして再び朱利の手をとると、潰れたマメの上を叩くようにして拭いた。
すかさず茅も左手を差し出す。
「まだ潰れてはいないけど、直ぐ潰れそうだな」
志姫はそういいながら救急箱から針を取り出し、新しいガーゼと同様に液に浸すと真新しい布で拭いた。
「じっとしててね」
針を大きめの水膨れたマメに突き立て水を抜きガーゼで叩く。
志姫は朱利と茅にガーゼと包帯を手渡した。
「と、まあこういうことに使うわけさ。ただ、こんな回りくどいやり方なんてしなくても消毒液ならそこにあるんだけどさ」
志姫は救急箱をちらりとみて、包帯を巻くのに悪戦苦闘している朱利たちに視線を向ける。
「さっき、黒の言うことを『根性論』なんて言ったけど、私の方がずっと古い考え方をしてるんだ。だから不安になる」
志姫は自身の手に包帯を巻きつける様子を朱利たちにみせた。
何度も見ては巻き直し、ようやく朱利たちが手に包帯を巻き終わる。
「竹本先輩のは古い考えなんかじゃなくて知恵だと思います。私も写真を撮るうえでいろんなことを親から教わりました。そのなかでわざわざそうしなくても、と思ったこともあります。でもそれは知恵なんです、ですから――」
「茅、ありがとう。でも、それいじょうは、ね」
志姫は照れながら呵々と笑った。
「よし」と志姫が膝を叩いて立ち上がる「素振りをしようか」
「ただいま」
黒はそう言いつつ玄関の明かりをつけ、鍵を閉める。
テレビと長机だけの居間に入り電気をつける。長机の上には手紙と夕餉のおかずが置いてあった。
黒は台所から風呂の湯を沸かすスイッチを押すと、換気扇を回しフライパンに夕餉のおかずを移し炒めだした。
『次は話題のスポーツニュース――』
天気予報を知る為に黒がつけたテレビからそう流れてきた。
台所から半身になりながらフライパンとテレビを交互にみる。
『なんとかここまで戻せたので、次は今まで以上を目指せるようにしていきます』
インタビューに答えていたのは怪我で一年半休養を余儀なくされ、復帰後五位という順位ながら会場を沸かせた選手。
インタビューに見入っていた黒は話題が変わると左手を見た。
破れ、流血したマメは渇き、縁取るように赤黒い。
「やばい、やばい」
口では慌てながら慣れた手つきで火を止め、しっかり火が消えてるか確認する。
「いただきます」とおかずを頬張り、よそったごはんもいただく。
「ごちそうさまでした」
誰と話すわけでもない黒の食事は直ぐに終わった。
炊飯器の保温を切り、余ったご飯をラップに小分けし冷凍庫へ移し食器を洗う。
一息つく間もなく台所と居間の施錠を確認し明かりを消す。
自動点灯する廊下を通り自室に入ったかと思えば風呂用具を持って風呂場へ。
マメに水が掛からないように左手を伸ばしシャワーを浴び、まるで降参と表すように両腕を湯船から伸ばし浸かる。
「ふぅ――」
長い、長いため息が湯船にとけてゆく。
黒がゆっくりと視線を落とす。湯船に映った顔がぐわんと撓んでは幾重に揺れている。
それをそっと黒が掬う。
「イッツッ!」
黒は左手を湯船の外に放り出すと何度も手を振った。
土日を挟んで黒の手に血マメが出来て四日目。
朝練の折、志姫が黒の左手を覗き見る。
「――今までに『傷の直りが早い』とか言われたことある?」
「いえ。どっちかというと体の弱さを言われることの方が多いです」
志姫がそっと手を離す。
「もう傷の方は大丈夫そうだ。また午後から素振りをしよう」
「はい」と、どこか嬉しそうに黒が言った。
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