第5話 アラタ博士とカイの出会い

カイは廃墟となったビルの屋上に腰を下ろし、夜空を見上げた。冬の澄んだ空気の中、めずらしく星が瞬いているのが見える。

彼の胸の内には相反する感情があった。グループの仲間たちとの絆、そして彼らを守る責任感。

一方で、より良い生活があるのではないかという期待と、また大人たちに裏切られるのではないかという不信と恐れ、それからピラニータとしての自分たちの行動への疑問。


彼は深いため息をつき、目を閉じた。古い記憶が巡る。施設での生活、ナオとユウキとの出会い、そして彼らと共に逃げ出した日々やピラニータに加わってからの過酷で危険と隣り合わせの、けれど自由な日々が断片的に脈絡なく浮かんでくる。

カイの顔に複雑な表情が浮かぶ。


「このままでいいはずがない」と彼は呟いた。冷たい夜風が彼の短い黒髪を揺らす。


カイは立ち上がり、建物を降り、図書館へと向かう。


図書館の入り口に着くと、カイはゲートをくぐるや否や、周囲を素早く見回した。ポケットから小型のハッキングデバイスを取り出し、図書館の裏口に近づく。

指先が素早く動き、画面上で複雑な操作を行う。数秒後、電子ロックから小さなビープ音が鳴り、ドアが静かに開いた。


中に入ると、カイは即座に次の段階に移る。壁に埋め込まれた端末を見つけ、デバイスを接続。画面上には複雑なコードが流れ、カイはコードに集中した。

「よし」と小さくつぶやくと、監視カメラの映像が一瞬乱れ、その後何事もなかったかのように戻る。


最後の障害、モーションセンサーに向き合う。カイは深呼吸し、デバイスに最後のコマンドを入力。何度やってもこの時が一番緊張する。背中がヒヤッとするのだ。

建物全体がわずかに震えたかのような感覚があり、それと同時にセンサーのライトが消えた。


全てが終わると、カイは静かに安堵の息をつき、図書館の奥へと足を進めた。


書架の間を歩きながら、カイは指先で本の背表紙を優しく撫でた。

ここでは、彼は別の世界を垣間見ることができる。

彼の住む混沌とした世界にはない秩序と静けさがあり、彼が求める答えがここにあるかもしれないという直感があった。



アラタ博士と彼の部下であるコウヨウ氏は、研究所近くの焼肉店で食事を楽しんでいた。


コウヨウ(43歳)氏は、日常的なARIAの運用と監視の責任者である。

学生時代にアラタ博士に師事し、その卓越した才能と独特の人間性に魅了された彼は、博士への尊敬の念を今も変わらず抱いている。

180cmを超える長身で、浅黒く奥二重で年齢相応の顔立ちだが、誰にもおもねらない鷹揚な態度のせいで年齢より老けて見られることが多い。


大学卒業後、家電メーカーの開発部に就職。IoTやAI技術の実用化に携わった。


2025年の大災害時にはブラジルに出張中で難を逃れたが、帰国後の日本の惨状に衝撃を受ける。

その後、かつての恩師であるアラタ博士に声をかけられ、ARIA開発プロジェクトに参画。

実務経験に裏打ちされた能力と柔軟な思考力が買われ、現在の地位に抜擢された。


仕事面では几帳面で緻密な性格の持ち主だが、プライベートでは「よく働き、よく遊ぶ」をモットーとしている。

趣味はスノーボードとクライミング。冬には雪山を求めて各地を飛び回り、平日でも週に2回はクライミングジムに通う生活を欠かさない。


人間関係は広く浅く、社交的な性格で多くの人と交流を持つ。酒豪でその気さくな人柄とフットワークの軽さで、様々な立場の人々と円滑なコミュニケーションを取ることができる。

アラタ博士とは、尊敬する恩師でありながら、時に軽口を叩き合える間柄であり、

博士の面白くない冗談には容赦なく「それ、面白くないですよ」とツッコミを入れる男である。


煙の立ち上る鉄板を挟んで、二人は和やかな雰囲気で談笑していた。


アラタ博士が豚バラを鉄板に乗せ、じゅうじゅうと音を立てながら焼き始める。


「よし、焼けたぞ。ああ〜ん、共食いになっちゃう。」

と博士が言うと、コウヨウは即座に反応した。


「博士、それ笑えないですよ。」


アラタ博士は軽く肩をすくめ、

「コトリちゃんは笑ってくれたけどなぁ〜」

と呟いてから豚バラを箸で摘んで口に運んだ。


コトリちゃんとは博士の研究のいちばん雑用的なことをする20代の研究員である。彼女もドーナツが好物で全国津々浦々のドーナツを食べ歩きすることを趣味とし、尋常じゃないドーナツの美味しい店の情報網を持っている。博士と一緒に美味しいと有名なドーナツを取り寄せて、研究室でよくお茶をしている。博士はこのコトリの情報網が欲しくて彼女を雇ったのではないかというのが研究員同士でよく交わされる冗談だった。


食事が進むにつれ、コウヨウは博士の予定を尋ねた。

「博士、また図書館行くんすか〜?博士はSF小説を研究する文学者じゃないんだから、

SF小説の閲覧のために特別許可を使うって職権濫用じゃないすかね〜」


2025年の災害時、多くの図書館が建物の崩壊や浸水により完全に失われ、貴重な書籍や資料の大部分が破壊された。そのため、2040年の現在、紙の本は大変希少価値が高かった。図書館は厳重なセキュリティの下、紙の書籍は館外持ち出し厳禁で、特別な許可を得た研究者のみが閉館後や特定時間に貴重書を閲覧できる権限を持つ。アラタ博士もその特別許可を得た1人だった。


アラタ博士はすました顔で答えた。

「いやいやそんなことはないよ。SF小説は僕の研究のインスピレーションの元になってるんだからね。」

そう言いながら、博士は突然思い出したように顔を上げた。

「ああ〜ん、しまった、ゆるふわ亭はもう閉店の時間だった。僕のチョコレートドーナツが〜。」

コウヨウは呆れながら

「博士、ドーナツいい加減に控えないと、ずっと焼肉で共食いすることになりますよ。」

と言う。

「チョコレートドーナツは脳と体にいいんだから、チョコレートドーナツで太るのはいいことなんだよ。ほら良い豚にするために良い餌であるドングリを与えるっていうだろ。そうすることで肉質が最高になるって」

とアラタ博士が真顔で言い返す。


「あの、ちょっと何言ってるかわからないです。」

とコウヨウは苦笑気味に答える。


食事を終え、二人は店を出た。冷たい夜風が頬を撫でる。アラタ博士は図書館へ向かう方向を指差した。

「じゃあ、僕はこっちだ。コウヨウ君も無理せず早く帰るんだぞ。」


コウヨウは軽く手を振りながら答えた。

「はいはい。博士こそ、夜更かし過ぎないようにしてくださいよ。」


アラタ博士は笑顔で頷き、図書館へ歩き出した。


ふたりが出会う

アラタ博士は特別閲覧室で本を探していると、本棚の向こうで微かな物音を聞いた。

「誰かいるのかな?」

と声をかけたが、返事はない。


カイは息を潜め、動かずにいた。逃げ出したい衝動と戦いながら、頭の中で脱出経路を探っていた。


博士は慎重に近づき、カイの姿を捉えた。

「君はここで何をしているんだい?」

驚きと困惑の色が博士の顔に浮かぶ。


カイは無言のまま、不機嫌そうな表情で博士を見つめた。アラタ博士が何を言っても、カイは僅かに目を動かすだけで、一切の反応を示さなかった。


そんな緊張した空気の中、突然カイの腹から大きな音が鳴った。アラタ博士は微笑んで言った。

「お腹が空いているみたいだね。近くに24時間営業のファストフード店があるんだ。一緒に食べに行かない?」


カイは一瞬戸惑ったが、空腹には勝てず、無言でうなずいた。


店に着くと、カイはハンバーガー、コーラ、ポテトを注文。博士はコーヒーとチョコレートドーナツを選んだ。


カイの食べ方は荒々しく、ハンバーガーの具材が飛び散り、口の周りにケチャップが付いていた。しかし博士は何も言わず、むしろ微笑ましそうに見ていた。


博士はつい先ほど出会ったばかりのこの少年に好感を持っていた。図書館のセキュリティは相当厳重であるし、博士がいた特別室はさらに複雑な構造のセキュリティである。にもかかわらず、彼は図書館に何度か来ているようだった。これは彼のハッキング技術や機転の利く行動力の高さをあらわすものだし、本が好きだからこそ危険を顧みず何度も侵入しているのだろう。博士はどのような形であれ、知を求める若者に好感を持つし寛大である。


アラタ博士はコーヒーを一口飲んでから、唐突に尋ねた。

「君のグループは何人いるの?」


その瞬間、カイの表情が一変し、警戒心を剥き出しにした。博士は慌てて言葉を続けた。

「ああ、君はピラニータだろう?グループの子たちもお腹が減っているんじゃないかな。お土産を持っていったらいいと思ってね。ハンバーガーやポテト、チキンナゲットなんかどうかな」


カイは一瞬躊躇したが、

「11」

とぼそっと答えた。


2040年の世界では、ARIAを支持する人が多い一方で、決して少なくない数の人々がAIの管理社会に反対していた。この反対派は無視できない規模で存在し、社会に一定の影響力を持っていた。ピラニータを援助する人々は、主に二つのグループに分かれていた。


一つ目は、政府の管理社会に強く反発するグループだ。彼らは、ピラニータたちが監視を逃れ、管理されない自由な生き方を選んでいることに共感を覚えていた。このグループにとって、ピラニータへの援助は一種の政治的抵抗の形であり、彼らの理想を体現する行動だった。


もう一つは、政治的意図を全く持たず、純粋な慈善精神から行動する人々だった。彼らは単に困窮した子どもたちを助けたいという思いから、食料や衣類を提供していた。この グループは必ずしも管理社会に反対しているわけではなかったが、人道的な観点からピラニータを支援していた。


これら二つのグループの存在により、見知らぬ大人からの援助を受けることは、ピラニータたちにとって珍しい経験ではなくなっていた。カイもこのような状況に慣れていたため、アラタ博士が食べ物を提供してくれることを、怪しむことなく自然に受け入れることができた。博士の本当の意図や立場は分からなかったものの、このような援助が危険だとは考えなかった。そのため、カイは比較的抵抗なくグループの人数を明かすことにしたのだ。


面白いことにアラタ博士はARIAの創設者でありながら、管理社会に懐疑的だった。博士は個人の自由と博愛を旨としていたし、自由からユニークな発想と創造性も生まれると思っていたからである。

それと同時にどの世界にも自分の頭で考えて行動するより、誰かや何かに管理され、指示されてその通りに動くことを好む人々が一定数いることもよくわかっていた。だからこそARIAは受け入れられたともいえる。


このような考えから、博士はこの少年がピラニータであることに気づいていても、通報しようとは一切思わなかった。むしろ彼らの自立性と創意工夫、独特のカルチャーに興味を持っており、機会があれば彼らの生活様式や行動パターンを研究してAIに取り入れたいと思っていたくらいである。博士は、ピラニータたちの適応力や柔軟な思考が、AIシステムの発展に新たな視点をもたらし、より人間らしい判断や創造的な問題解決能力を持つAIの開発につながると考えていたのだ。


「わかった」

博士は頷き、数種類のハンバーガーとポテト、ナゲットを大量に注文した。それらをカイに手渡しながら、博士は優しく言った。


「困ったことがあったら、連絡しなさい。君の名前は?」

そう言って、博士はカイのデバイスに自分の電子ビジネスカードをスキャンさせた。


「カイ」

カイは下を向きながら答え、重そうな袋を両手に抱えて立ち上がった。


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