第4話 サクラ

2025年、32歳のサクラの人生は大きな転換点を迎えた。日本を襲った大災害で両親を失い、アメリカにいながら深い喪失感と複雑な罪悪感に苛まれた。

彼女の母親はストレスに弱く、些細なことでヒステリックになることがあり、サクラと弟に対して過度の期待と批判を繰り返す人だった。長年の葛藤の末、サクラはアメリカ人の夫と結婚して渡米し、それ以来、母親との連絡を完全に絶っていた。​​​​​​​​​​​​​​​​

しかし、母の突然の死は、サクラの心に予想外の衝撃を与えた。関係修復の機会を永遠に失ったという現実が、彼女を強く打ちのめしたのだ。サクラは、困難な関係性にもかかわらず、和解の可能性を模索しなかった自分自身を責め始めた。母との最後の会話が冷たいものだったことを思い出し、やり直すチャンスが永遠に失われたという事実に、深い後悔の念を抱いた。​​​​​​​​​​​​​​​​

この喪失感と自責の念は、サクラの心に重くのしかかり、彼女の人生の新たな転換点となった。母との未解決の問題が、今後のサクラの人生における人間関係や自己認識に大きな影響を与えることになるのだ。

災害後、夫との関係は徐々に悪化していった。サクラの日本への帰国願望と、アメリカ人夫のキャリア優先の姿勢が溝を深めていく。サクラは高い共感性と粘り強さを持った女性だったので関係修復に向けて懸命に努力したが、2031年、38歳で離婚。8歳になった息子の親権を失い、深い傷を負ったサクラは日本に単身で帰国した。

帰国後のサクラは、自身の喪失感を紛らわすかのように被災地でのボランティア活動に没頭した。その後、外資系企業に再就職するが、仕事以外の時間は自身の内面と向き合う日々が続く。この時期、オンラインで心理学の講座を受講し始めたのは、自己理解への渇望からだった。

2035年、42歳になったサクラは、民間仮想通貨の規制緩和をきっかけに投資を始める。幼少期から培った観察力と洞察力、そして粘り強さを活かし、独学で市場を研究。慎重かつ大胆な投資判断により、徐々に資産を増やしていく。この成功は、長年の自信の喪失を少しずつ回復させる契機となった。45歳でサクラは経済的自立を果たす。しかし、財産を得た喜びよりも、息子への思いと自身の母親としての役割への葛藤が強まる。完璧主義の傾向と過剰な責任感から、自身の母親としての資質を厳しく問い直す日々が続いた。

そして2039年、46歳のサクラは育母制度の存在を知る。厳しい選考プロセスに挑戦する決意をした背景には、息子を育てられなかった償いの気持ちと、自身の母親との関係を乗り越えたいという強い願いがあった。

VRトレーニングや実地研修を通じて、サクラは自身の感情パターンや反応を客観的に観察する機会を得た。時に涙を流しながら、時に歯を食いしばりながら、300時間のトレーニングを完遂。この過程で、サクラは自身の強さと弱さを受け入れていく。​​​​​​​​​​​​​​​​

サクラは面接室に入ると、3人の審査員が真剣な表情で彼女を見つめていた。緊張で指先が冷えて汗ばむのを感じながら、椅子に座った。

「サクラさん、育母になろうと思った動機を詳しく教えてください」審査員の一人が口を開いた。

サクラは深呼吸をして、アメリカで息子を手放さなければならなかった経験、そして母親との複雑な関係について語り始めた。自分の言葉が適切かどうか不安だったが、正直に答えることに徹した。

「過去の対人関係で困難を感じたことはありますか?それをどのように克服しましたか?」

この質問に、サクラは一瞬言葉につまったが、自分の弱さも含めて全てを話すことが大切だと思い、勇気を出して答え始めた。

「アメリカ人の元夫とは、文化の違いもあって徐々にすれ違いが生じていきました」サクラは静かに語り出した。「些細なことで口論になり、次第にそれがエスカレートしていきました。お互いを傷つける言葉を投げつけ合い、時には罵り合いにまでなることもありました」

サクラは一瞬目を閉じ、苦しい記憶と向き合った。「最悪だったのは、そんな私たちの姿を息子が目撃してしまったことです。彼が泣きながら耳を塞いでいる姿を見たとき、私は母親として完全に失格だと感じました」

彼女の声は少し震えていたが、続けた。「日々、疎外感と惨めさに苛まれました。全てが衝動的になってしまうような気持ちと、日常的に足元が崩れていくような感覚がありました。それは今でも忘れられません。」

サクラは深呼吸をして、審査員の目を見つめた。「でも、この経験があったからこそ、子どもの心の傷の深さや、安定した環境の大切さを身をもって理解できたと思います。二度と同じ過ちを繰り返さないという強い決意も生まれました」

面接は3時間近く続き、サクラは疲れ切っていたが、同時に他人に今まで自分が苦しんできたことを客観的に伝えることによって自己理解が深まったようにも感じた。

数日後、サクラは健康診断のために病院を訪れた。身体測定、血液検査、遺伝子検査のための唾液の採取、レントゲン撮影と詳細な検査が行われた。

「ストレス耐性のテストもあります」と医師に告げられ、サクラは驚いた。育児のストレスに耐えられるかを確認するためだという。

精神科医との面談も行われ、サクラの心の健康状態が細かくチェックされた。過去のトラウマや現在の精神状態について、丁寧に質問された。

最後に、背景調査の同意書にサインを求められた。犯罪歴や金銭トラブルの有無、さらには社会的信用度まで調べられると知り、サクラは少し緊張した。しかし、子どもの安全が最優先であることを理解し、迷わずサインした。


サクラが経験した厳しい適性検査と健康診断は、育母制度における第一次選考の一部だ。

育母制度の第一次選考は、候補者の適性を多角的に評価する厳密なプロセスとして設計された。

まず、適性試験では心理テストを通じて育児ストレス耐性や共感性が測られ、倫理観テストで子どもの権利に対する理解が確認される。パーソナリティ診断も行われ、育母に適した性格特性が評価される。

続いて、遺伝子検査が実施される。これは遺伝性疾患のスクリーニングや健康リスク評価だけでなく、将来担当する可能性のある子どもとの遺伝的相性まで分析するものだ。

面接では、候補者の動機や覚悟が詳しく聞かれ、過去の経験、特に子育てや対人関係についての質問が続く。ストレス状況下での反応を見るための難しい質問も含まれる。

健康診断では身体的健康状態とメンタルヘルスが綿密にチェックされる。同時に、犯罪歴や金銭トラブルの有無、社会的信用度を調べる背景調査も行われる。

実技テストでは基本的な育児スキルと緊急時対応能力が評価され、最後にはグループディスカッションで他の候補者との協調性やコミュニケーションスキル、育児に関する価値観が観察される。


この多岐にわたる評価プロセスは、育母としての基本的な適性を持つ候補者を選び出すことを目的としている。合格者のみが次の段階であるVRトレーニングに進むことができ、そこでさらに実践的なスキルを身につけていくことになる。



1ヶ月後、サクラの個人端末が通知音を鳴らした。画面に「第一次選考合格」の文字が表示され、彼女は安堵の息をついた。

いくつもの厳密な選考プロセスを経ての合格だった。

通知には次のステップの案内があった。300時間にも及ぶVRトレーニングだ。保護された育児のあらゆる場面を想定したシミュレーションを通じて、実践的なスキルを身につける。その後には実地研修も控えている。

育母になるための道のりはまだ始まったばかり。彼女は心を引き締めた。​​​​​​​​​​​​

サクラはVRヘッドセットを装着し、深呼吸をした。目の前に現れたのは、殺風景な部屋だった。そこに座っているのは、5歳くらいの小さな女の子。痩せこけた体にはあざが点々と見られ、目は虚ろで、どこか遠くを見つめているようだった。

「こんにちは」サクラが優しく声をかけても、女の子は反応しない。ただじっと座ったまま、小刻みに震えている。

サクラは女の子の背景情報を思い出した。2歳から続いた壮絶な虐待。食事は1日にわずか1回。日常的に殴られ、蹴られ、体中があざだらけになっていた。最も残酷だったのは、トイレに行きたいことを知らせずにパンツの中で排泄してしまったという理由で与えられた「罰」だった。両親は怒り狂い、女の子の顔中に排泄物を塗りつけ、さらにそれを食べさせるという、人としてあってはならない行為を行っていた。

また、真冬に暖房の入っていない寒いトイレに一晩中閉じ込められたこともあった。その時、低体温症で命を落としかけたところを保護されたのだ。

サクラの胸が締め付けられる。この子が経験した恐怖と苦痛、そして絶望を想像すると、目に涙が浮かんだ。幼い子どもがトイレのコントロールを完全にできないのは当然のことなのに、そのような残酷な仕打ちを受けたことに、サクラは深い怒りと悲しみを感じた。

時が止まったかのような静寂が続く。サクラは急に動いたり、大きな音を立てたりしないよう気をつけながら、ゆっくりと女の子の視界に入った。

「おなかすいてない?」サクラが尋ねると、女の子はわずかに目を動かした。しかし、すぐに元の無表情に戻る。サクラは食べ物を差し出すが、女の子は身を引いた。

夜になると、状況は一変した。女の子は突然、泣き叫び始めた。悪夢にうなされているようだ。サクラが慰めようと近づくと、女の子は更に激しく泣き、体を丸めて震えた。

「大丈夫よ、もう誰も傷つけないわ」サクラは涙を堪えながら言った。しかし、女の子の恐怖を和らげることはできない。

シミュレーションが終わったとき、サクラは深い疲労感と心の痛みを感じていた。虐待の傷跡の深さ、信頼を取り戻すことの難しさを、身をもって体験した。人間の闇の深さに震えを覚えた。

それでも、この子を、そしてこの子のような子どもたちを助けたいという思いが、サクラの心の中で強くなっていった。サクラは、自分がこの育母制度に参加する意味を、改めて深く理解したのだった。​​​​​​​​​​​​​​​​


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