第3話 育母制度とM博士
M博士は一見すると、クールな印象を与える女性研究者だった。スラリと細身で切れ長の目と通った鼻筋、卵形の整った顔立ちは、まさにクールビューティーで、その外見と理路整然とした話し方から、冷たい印象を人に与えた。しかし、実際の彼女は自分の子供と犬にメロメロで犬の肉球とその匂いとサンリオのキキララをこよなく愛する、いわゆる「ツンデレ」キャラだった。
そして、M博士は変わった趣向の持ち主で匂いフェチである。特に犬の肉球の匂いは大好物だ。植物は草の青々とした匂いと枯葉の匂い、白百合と金木犀の香りが好きでかつては白百合と金木犀をベースにした香水を愛用していたが、ある出来事をきっかけに使用をやめている。
その出来事とは、第一子が乳児だった頃のこと。ある夜、シャワー後にスキンケアをしていた彼女に、飼い犬の柴犬が誤って香水をこぼしてしまった。香水まみれになった彼女が赤ん坊を抱くと、普段はほとんど泣かない長女が激しく泣き出したのだ。夫の「香水のせいじゃないの?もう一回シャワー浴びてきたら」という助言で再度シャワーを浴び、香水の匂いを落とすと、赤ん坊は泣き止んだ。
この経験から、M博士は母子関係と匂いの関係に強い関心を抱くようになる。
M博士は研究者であると同時に、良き母親でもあった。乳幼児の行動が彼女にとっては大変興味深く、自分の子供を何時間でも飽きずに見ることができた。彼女は乳幼児の発達と行動に関する論文や文献を読み漁っていたので、ある程度の乳幼児の行動に関しては何のためにこの行動をしているのか検討がついた。そのおかげで、彼女は母親として子供に対してその場その場で適切な対応を取ることができ、子育てに関するストレスを感じることはほぼなかったと言える。
とはいえ、なぜ、子どもが今こうした行動をしたのかよくわからないこともたくさんあり、子どもがなぜその行動に至ったのか推測することも彼女を楽しませた。これは、彼女の研究者としての資質と母性がうまくマッチしたケースである。
M博士の研究と母性の融合が、後の育母制度という革新的な概念を生み出す原動力となったのだった。
【M博士のプロフィール】
M博士は、母子関係研究の第一人者として知られる女性研究者だ。彼女の人生と研究は、個人的な経験と社会的な出来事によって深く形作られた。
M博士は元々、仕事熱心で結婚や子育てには興味がないと考えていた女性だった。しかし、晩婚ながら結婚し、3人の子どもを授かった。子どもの誕生により、自身の強い母性に気づき、人生の優先順位が大きく変化。仕事は継続しつつも、子どもたちが生活の中心となった。
2025年の大災害で3人の子どもを全て失うという悲劇に見舞われる。夫は生存したが、深い喪失感から立ち直れず、最終的に離婚に至った。この経験が、後の研究方向性に大きな影響を与えることになる。
経歴
1. 助産師として約10年間の臨床経験
2. 看護学の博士課程に進学(専攻:母子保健学)
3. 博士号取得後、大学研究機関で研究職に就任
4. 災害後、研究の焦点を代替的養育環境と愛着形成メカニズムに移行
5. 遺伝学と脳科学の専門家との共同研究を開始
研究内容
1. 代替的養育環境の研究:
- 血縁関係のない養育者と子どもの関係性構築に関する研究
- 施設養育と個別養育の比較研究
- 災害後の社会における新たな家族形態の探求
2. 脳科学と母子関係:
- 母子の相互作用が子どもの脳発達に与える影響の研究
- 愛着と脳の可塑性の関連性の解明
- 喪失経験が母性的反応に与える影響の神経科学的研究
3. 遺伝子と匂いによる愛着形成メカニズムの研究:
- MHC遺伝子と体臭の関連性分析
- 匂いが愛着形成に与える影響の神経科学的研究
- 遺伝子情報に基づく匂い推測システムの開発
- 育母制度のためのマッチングシステムへの応用研究
M博士の研究は、自身の喪失経験と母性への深い理解、そして助産師としての臨床経験を基盤としている。彼女の研究目標は、血縁関係に依存しない新たな愛着形成の方法を科学的に解明し、災害後の社会における子どもたちの健全な成長を支援することだ。
2040年の時点で、育母制度は導入されてから10年が経過した。この間、幾度もの試行錯誤を重ね、現在の高い完成度に近づいていった。育母制度が始まったのは2030年のことだった。
大災害は日本社会に壊滅的な打撃を与え、多くの高齢者と子どもが犠牲となった。生き残った人々も深い心の傷を負い、日々の生存と基本的なインフラの再建に全精力を注ぐ日々が続いた。食料や住居の確保、仕事の再建など、自身や家族の生存に直結する問題に追われ、子育てどころではない状況が社会全体に蔓延していた。
このような極限状態の中、新たな命を育む余裕は失われ、出生率は大災害前と比べて急激に下落した。さらに悲劇的なことに、既にいる子どもたちさえも適切に保護することが困難になった。親たちは自身の生存と再建に必死で、子どもたちへの十分なケアを提供できず、多くの子どもが事実上の「孤児」状態に陥った。
虐待というよりもネグレクト、つまり養育の放棄が社会問題として浮上し、路上に放置されたり、最悪の場合は捨てられたりする子どもたちが後を絶たなかった。大人たちも、自らのトラウマに苦しみながら生きることで精一杯で、次世代を守り育てるだけの心の余裕を失っていたのだ。
この深刻な社会状況は、日本の未来そのものを危うくする重大な危機として認識されるようになった。
2030年頃には、ARIAの采配のおかげで社会がだいぶ落ち着きを取り戻してきた。しかし、災害による子供の激減と出生率の低下によって、政府は喫緊に少子化対策を迫られることになる。ちょうどこの頃、ピラニータが社会問題として注目を浴びることとなった。
このような状況下で、ある母子関係の研究者から革新的な提案がなされた。従来の児童保護施設では、子どもたちが頻繁に施設や担当職員の変更を経験し、時には職員からの虐待も報告されており、これが子どもたちの情緒不安定の原因となっていた。この研究者は、一人の大人が一定期間継続して子どもを育てることの重要性を強調し、それが子どもの健全な発達に不可欠であると主張した。
同時に、大災害で子どもを失った多くの女性たちから、「虐待で子どもが亡くなるくらいなら、自分たちが育てたい」という声が上がっていた。この切実な願いと、子どもたちの保護と育成に合致する形で、育母制度のアイデアが生まれた。
政府は、出生率を上げることに躍起になるよりも、今いる子供を社会全体で大切に育てるという方向に舵を切った。虐待やネグレクトを素早く察知し、即座に国が介入・保護できるように、全ての新生児の肩にチップを埋め込むことが提案され、大きな議論を呼んだ。
育母制度は、保護された子供たちに個別のケアを提供し、健全な成長を支援することを目指した。この制度により、血縁に頼らない新しい形の親子関係が生まれ、社会全体で子どもを育てるという理念が具現化されたのだ。
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