第7話 決断の瞬間

夜が静かにローマを包み込み、星空の下、セネカは広々とした自宅の庭に立ち尽くしていた。月明かりが淡く彼の足元を照らし、冷たい夜風がローブの裾を揺らす。どこか重苦しい空気が漂う中、彼の心は重く沈んでいた。数時間前、宮廷でのネロとの対話は、彼にとって決定的な瞬間だった。かつての教え子、彼が愛情を込めて育てた若者は、今や権力の影に飲み込まれ、冷酷な皇帝となってしまっていた。


セネカは心の中で何度も自問した。

**「私はどこで間違えたのか?彼を救うことはできなかったのか?」**


彼が長年信じてきたストア派の哲学――冷静さと理性をもって生きること、権力や欲望に惑わされることなく真の知恵を追求すること――それが、今やネロにとっては何の意味も持たない言葉に過ぎなかった。セネカはそれを痛感していた。


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「これが、私の最後の教えか……」

彼は低く呟いた。その言葉は夜の空気に溶け込み、消えていく。パウリナは家の中から夫の様子を心配そうに見つめていたが、声をかけることはできなかった。セネカの表情には深い疲れが滲んでおり、その目にはどこか遠くを見つめるような、無限の悲しみが宿っていた。


数分後、セネカはゆっくりと歩き始めた。彼の足取りは重く、何かに引きずられているかのようだった。彼は書斎に向かい、重厚な木製の扉を開けた。机の上には彼が生涯をかけて執筆してきた哲学書や巻物が整然と並んでいた。彼はそのうちの一冊を手に取り、ゆっくりとページをめくった。


そこには、彼が若い頃に書き記した言葉があった――**「生とは短く、我々がそれを無駄にすることこそがその最大の悲劇である。」**


セネカはその言葉をじっと見つめながら、再び深い溜息をついた。彼の心には、ある決意が浮かび上がっていた。彼がローマに戻り、ネロに忠告したのは最後の試みだった。だが、その忠告は届かず、かつての理想は完全に崩れ去ってしまった。


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彼は机の上に本を置き、手紙を書き始めた。**「この人生で私は多くを学び、そして多くを教えた。だが、最後に訪れるこの結末を前に、私は冷静でありたい。」**

彼の手は震えもせず、筆はスムーズに紙の上を走った。自らの運命を受け入れる哲学者としての姿勢が、彼を導いていた。ネロから自殺を命じられるであろうという予感が現実味を帯びていたが、セネカはその知らせが届く前に自ら決断を下すことを選んだ。


**「死は終わりではなく、新たな始まりだ。」** 彼は自らにそう言い聞かせ、筆を置いた。静かに立ち上がり、パウリナのもとへと戻る。彼女はすぐにその異変を察し、涙を堪えるように口元を押さえた。


「セネカ……あなた、まさか……」

彼女はその先の言葉を発することができなかった。


セネカは優しく彼女の手を握り、穏やかな微笑みを浮かべた。「心配しないでくれ。私は、最後まで自分を失わずに生きると決めたのだ。それが、私が君に、そしてネロに示す最後の教えだ。」


パウリナは涙を流しながらも、彼の決意を感じ取り、静かにうなずいた。


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セネカは風呂場へと向かい、脈を切る準備を始めた。手が脈に触れたその瞬間、彼は一瞬だけ目を閉じ、心を静めた。そして、最後の言葉をつぶやく。


**「理性に導かれ、我が運命を受け入れる。それが哲学者としての私の最期だ。」**


彼の最期は、ストア派の教えそのものだった。どんなに苦しみや恐怖が襲いかかろうとも、彼は冷静に、そして確実に自らの運命を受け入れた。彼は決して権力に屈することなく、最後まで理性と信念を守り通したのだ。


その瞬間、セネカの生涯は静かに幕を閉じた。彼が遺した哲学とその教えは、永遠に語り継がれ、ローマの歴史に深く刻まれた。彼の決断と最後の行動は、時代を超えて人々に教訓を与え続けることとなる。

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ストアの影 - ローマ帝国の哲人と権力のはざまで 湊 町(みなと まち) @minatomachi

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