第6話 ネロとの対峙

セネカは宮廷の広大な廊下を静かに歩いていた。朝の薄明かりが大理石の床に柔らかく反射し、彼の足音が広がる空間にこだました。再びネロと話すために呼び出されたのはこれで最後かもしれない、そんな予感が胸の奥にあった。彼が前回ここを訪れたとき、ネロの心はすでに遠く離れてしまっていた。しかし、今日もまた、セネカは一縷の望みを抱いていた。


彼は一度、深く息を吸い込み、目を閉じた。そして、これまで積み重ねてきた哲学的思索の数々を心の中で反芻する。理性こそが人間を導く最も偉大な力であり、欲望や感情に支配されることなく行動するべきだ――彼が若い頃から信じ、教え続けてきた信念だ。


だが、今のネロには、その言葉は届かないのかもしれない。


---


扉が開かれると、そこには玉座に座るネロの姿があった。かつての教え子だった少年の面影は、もはや完全に消え失せていた。彼の目には冷徹な光が宿り、その視線は鋭くセネカを捉えていた。彼の周囲には側近たちが立ち並び、宮廷全体に張り詰めた緊張感が漂っている。


「セネカ、来てくれたか」

ネロの声は低く響き、部屋の中に不穏な空気を生み出していた。


「お呼びいただき、光栄です、陛下」

セネカは一礼し、静かに言葉を返した。彼の心には緊張が走っていたが、表情にはそれを一切見せなかった。


ネロはゆっくりと立ち上がり、玉座から降りてセネカの前に歩み寄った。その足取りは自信に満ちていたが、そこには何か不安定さも感じられた。彼はセネカをじっと見つめる。その瞳には、かつての無邪気さはなく、代わりに権力に毒された者の冷たさがあった。


「セネカ、お前が私に教えてくれた哲学――それはもう過去のものだ。今、私はローマの皇帝として自らの道を進んでいる。お前の教えは、私には何の意味も持たない」

ネロの言葉は鋭く、セネカの胸を貫いた。


セネカは息を飲み、冷静さを保とうと努めたが、その言葉に深い失望を覚えた。彼は教え子がこのように冷酷な人物へと変わり果ててしまったことを受け入れることができなかった。だが、彼はなおも希望を捨てず、ゆっくりと口を開いた。


「陛下、私は今もあなたの成長を信じています。あなたが権力を持ちながらも理性を失わない存在であることを。ローマの未来は、あなたの決断にかかっている。ですが、もしあなたが感情や欲望に支配されるなら、ローマは――」

セネカの言葉がそこで途切れた。


ネロは顔をしかめ、突然声を荒げた。「感情? 欲望? お前は私をまだ子供のように見ているのか? 私はローマの支配者だ。お前の教えはもはや無用だ!」

その怒りは一瞬で広間に広がり、側近たちの顔にも動揺が走った。セネカは冷静を装いながらも、内心では危機感を募らせた。ネロの怒りは、単なる言葉以上のものを暗示している――彼の心は、もはや手の届かない場所にいるのかもしれない。


---


セネカは静かに息を整え、再び言葉を紡いだ。「陛下、私はあなたを見捨てません。あなたがどれほど権力を手に入れても、理性を失わなければ、あなたは正しい道を歩むことができるのです。どうか、その力を使ってローマを守ってください。」


ネロはセネカを睨みつけたまま、黙り込んだ。彼の表情には、かつての教え子の姿はもう見えなかった。セネカの言葉は、もはや彼に届いていないのかもしれない――そう思った瞬間、ネロは突然背を向け、再び玉座に戻った。


「もういい、セネカ。お前の時代は終わった。私には、私のやり方がある。お前の助言は、もはや必要ない。」

その言葉は、セネカの心に深い傷を残した。ネロが彼を完全に拒絶した瞬間だった。


---


セネカは深く一礼し、ゆっくりとその場を立ち去った。背後で扉が重く閉じられ、その音が彼の胸に重く響いた。彼は廊下を歩きながら、心の中で自問した。「私は、彼を救うことはできなかったのか?」それとも、ネロはすでに彼の手の届かない場所にいたのだろうか。


夜の静けさが広がるローマの街を、セネカは一人歩いていた。彼の胸には深い失望と、何かを諦めるような悲しみがあった。ネロを救うための最後の努力は、もう終わったのかもしれない。だが、それでもセネカは、どこかで希望を手放すことができなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る