第5話 セネカの苦悩と決断

日が沈み、ローマの宮廷に広がる夜の静けさは、まるで街全体が呼吸を止めたかのようだった。セネカは重く響く足音を聞きながら、宮廷を後にして自宅へ向かう道を歩いていた。ネロとの再会――それは、彼が予想していたよりもはるかに苦いものだった。かつては純粋で哲学を愛していた教え子が、今では権力の象徴となり、自らの信念を捨てていた。セネカの胸には、かつてのネロの面影が残る一方で、今の皇帝ネロの姿が彼を苛む。


「私が何を間違えたのだろうか……」

セネカは低くつぶやいた。冷たい夜風が彼の頬を撫で、心の奥底に潜む不安をさらに際立たせるようだった。自分が導いてきた哲学、その理想――それがネロの心に届いていなかったのか?それとも、ネロが変わってしまったのは、権力の残酷な現実が原因なのか?答えは見つからず、ただ暗い夜が広がっていた。


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自宅に戻ると、妻パウリナが心配そうに彼を迎えた。パウリナの優しい表情と温かい言葉に、セネカは一瞬、安らぎを感じるが、その感覚もすぐに消え去る。彼の心は、ネロとの再会以来、絶え間なく揺れ動いていた。自分が果たすべき役割は何なのか?彼は再びネロの側に立ち、彼を正しい道へと導くことができるのか?それとも、このまま距離を置くべきなのか?


「あなた、大丈夫?」

パウリナがそっと手を握り、静かに問いかける。


「……わからない。何もわからなくなったよ、パウリナ」

セネカは目を閉じ、深い溜息を吐いた。ネロを救いたい、かつての純粋な心を取り戻してほしい――その思いは強い。しかし、今のネロは、もはやセネカの言葉に耳を傾けるような少年ではない。彼は権力の象徴となり、自らの道を歩み始めてしまった。


「でも、あなたには彼を導く力があるわ。あなたの教えは、ネロの心の奥底にまだ残っているはず。諦めないで……」

パウリナの言葉には、信じる者の強さがあった。彼女の優しさと信念が、セネカを少しだけ落ち着かせた。しかし、それでも彼の中には葛藤が渦巻いていた。ネロはあまりにも変わりすぎた――それが現実だ。


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その夜、セネカは一睡もできなかった。窓の外に広がるローマの街は、静寂に包まれている。しかし、彼の心の中は嵐のように荒れ狂っていた。寝台に横たわり、天井を見上げながら、彼は自問を繰り返した。


**「私は、ネロを見捨てるべきなのか? それとも……」**


時折、窓から漏れる月明かりが彼の顔を照らす。その光は冷たく、まるで彼の運命を試すかのように鋭かった。セネカは深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。彼が選ぶべき道は、決して簡単なものではない。それは、哲学者としての信念と、現実の権力闘争の狭間で、どちらを取るべきかという、苦渋の選択だった。


**「私にはもう時間がない……」**

セネカは、心の中でそう呟いた。彼の老いは日に日に進んでいた。そして、ローマの未来は、ネロの手にかかっている。自分が介入すべきなのか、それともこのまま遠ざかるべきなのか――その答えを、彼はまだ見つけられないでいた。


夜が更け、彼はようやくひとつの決意を固めた。セネカはゆっくりと寝台から立ち上がり、書斎へと向かった。そこには、彼が若い頃から書きためてきた哲学書が並んでいる。彼は一冊の本を手に取り、ゆっくりとページをめくった。そこには、彼が信じ続けてきたストア派の教えが記されていた。


**「理性こそが我々を導くべきものだ」**

セネカはその言葉を静かに口にした。彼の心にわずかではあるが、かすかな光が差し込んだ。ネロを見放すことはできない――彼が自ら導いた教え子であり、ローマの未来を背負う存在だからだ。セネカはもう一度、ネロに語りかけることを決意した。彼の言葉が届かなくても、それでも彼は試みるしかない。それが、セネカが自らに課した使命であり、哲学者としての信念だった。


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翌朝、セネカはパウリナに静かに告げた。「私はもう一度、ネロと話す。彼を救えるかどうかはわからないが、私はあきらめない。」

パウリナは微笑み、夫を見つめた。「あなたならきっとできるわ。信じています。」


セネカはパウリナに感謝の眼差しを向け、家を出た。彼の心には、依然として不安と葛藤が渦巻いていたが、同時に一つの光も感じていた。それは、哲学者としての使命――理性と信念に基づいて行動することで、ネロに再び光を取り戻させるという希望だった。

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