第3話 ローマの荒波

セネカの旅は長く、乾燥した大地を馬で越えるたびに、彼の胸の中には期待と不安が交錯していた。道中、幾度も空を見上げた。どこまでも続く空は、彼にとって自由と可能性を象徴しているかのように感じられた。しかし、それと同時に、その広大さは彼の内なる小ささをも突きつけてきた。ローマという未知の大都市へ向かう彼の心は、激しく揺れ動いていた。


数日後、ついにローマの街並みが遠くに見え始めた。彼は馬を止め、その光景をじっくりと目に焼き付ける。初めて目にするローマの雄大さ、遠くにそびえ立つ建物、賑わう人々の姿に、セネカは息を呑んだ。これが、世界の中心。自分がこれから歩む運命の舞台だ。


「ここが、ローマ……」セネカは低く呟いた。自分の声が、まるで誰か別の人間の声のように感じられた。


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街に入ると、すぐにその活気と混沌が彼を包み込んだ。馬車の音、人々の叫び声、物売りの喧騒が、あらゆる方向から彼に押し寄せてきた。彼が育ったコルドバとはまったく異なる世界だった。ローマは広く、何もかもが目まぐるしく動いている。人々の目には野心と焦りが交じり合い、街の隅々には権力の匂いが漂っていた。彼が求めていたものがここには確かにあった。だが、同時にその危険も。


セネカは深呼吸をし、気持ちを落ち着けた。彼はこの街で哲学を学び、知識を深め、そして自分の存在を証明しなければならない。それが彼の使命であり、家族に誓ったことだった。しかし、そんな彼の決意を試すかのように、ローマの街は無慈悲に彼を迎えた。


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その夜、セネカは街外れの小さな宿屋に泊まった。狭い部屋の窓からは、遠くにぼんやりとローマの明かりが見える。彼はその光景を見つめながら、今日一日の出来事を振り返っていた。ローマの喧騒はまだ彼の耳に残っていたが、それ以上に彼の心を揺さぶったのは、この街が持つ冷たさだった。人々の目には、競争心が宿り、互いに先を取ろうとする焦りが見えた。彼の理想としていた哲学的な対話や知識の追求は、ここではただの道具に過ぎないのかもしれない――そんな不安が彼の心をよぎった。


彼はため息をつき、鞄の中から書物を取り出した。コルドバで父からもらった哲学書だ。ページをめくると、そこには自分の目指すべき道が明確に書かれている。冷静さと理性を保ち、あらゆる欲望から解放されること――それがストア派哲学の基本であり、彼の目指すべき道だった。


「私は、この街に飲み込まれはしない」

セネカは自らにそう言い聞かせた。目の前の壁に映る自分の影を見つめながら、彼はもう一度心の中で誓った。彼は権力や富に翻弄されることなく、ただ哲学者としての道を進む。それが彼の使命であり、この街で生き抜くための唯一の方法だった。


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翌朝、セネカは早くから街を歩いた。知識人や哲学者たちが集まる場所を探し求めていた彼は、街の広場で一人の老人に声をかけられた。


「若者よ、何を求めている?」

老人の声は低く、どこか達観した響きがあった。


セネカはその男を見つめた。老人の目は、どこか彼の父を思い起こさせるような知識と経験を湛えていた。彼は、セネカが何を求めているのかをすでに見抜いているかのようだった。


「私は、知識を。哲学を深く学びたいと思っています」


老人は静かに笑い、「ここでは知識は武器だ。お前がそれをどう使うかで、お前の運命が決まる」とだけ告げた。


セネカはその言葉に不思議な感覚を覚えた。それは、彼が抱いていた理想と現実とのギャップを、初めて意識させられる瞬間だった。この街では、知識さえも一つの道具として利用される――それがローマだった。


彼は再び、街の喧騒に溶け込むように歩き出した。セネカの心には、新たな決意とともに、これから待ち受ける試練への覚悟が生まれていた。

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