第十章
「アインシュタインとやら」
「は、はい」
アウシュヴィッツ要塞の地下三階で彼はこの銀髪の白い少年を死神のような方だという印象を持った。その残虐さはアンネとは違う。彼女は雄々しくも武人たる気高さが在る。残虐とはあれを言うのではない。ではどういったものかを残虐というのか。それは無垢である。野心的な残虐ではなく、生まれ持った純真無垢な残虐性が彼である。それは子供が何の躊躇いもなく、ただ純粋な好奇心と言うには突発的な遊び心からありの触覚を引きちぎり、声なき悲鳴を上げてるかのように蟻の顎が開く様子をただ楽しそうに見ている子供のように、あるいは無意味にどれだけ蟻を潰せるのかを試すような、そんな野心の欠片もない純粋な残虐がこの言葉の正体である。
これは人が人足り得る性のようなものである。人は必ず何処かに残虐性を秘めているものである。人が自愛で満ちているというのは傲慢である。それは公共性の慈愛である。最もそれを肯定する旧教は自らの信徒の拡大と影響力からも在るだろうが、本来の言葉は自らの弟子に対して”私を信仰するものには幸福を”が正しい言葉であり、彼を迫害したエジプトは地獄に落ちるべきだというのが裏の本当の言葉である。
理解し難いか? 考えても見て欲しい。貴方を虐めた者が借金に見舞われ、妻に見放され、家族が逃げ去り、友が去った者を見て、貴方は手を差し伸べたいか? 差し伸べるにしても、そこに慈愛などないのだ。その差し伸べられた手は聖書のような言葉にあるような清らかなものでは決してない。そのような慈愛など人類文明には絶対に存在しない。あるのは優越感による主従感情である。かつて貶められた者が貶めていた者への施しは、感情的主従関係である。
否定するか? では、差し伸べた貴方の手によるかつて貴方を虐げた者が感謝もなく、傲慢になったとしよう。反対に貴方は事業が失敗し、借金している。その時、恩を返してもらおうとかつての下僕にこういうのだ『すまないが少し貸してくれないか?』彼はこう言った。『いやだ』その一言だけであなたは計り知れない殺意を芽吹くのだ。
かつて虐げていた立場と施したにも関わらず下僕が反乱したことへの恥辱は、貴方が今まで清らかにその身を護り、法を犯すこと無く、これからもと思っていた価値観を凌駕する自己の凌辱に、貴方は抗えたりしない。抗えるには並々ならぬ精神力と自らの遵法精神を整えるために足り得る即席の自己宗教を何年も構築せねばならない。
それを否定できるのならば、過去の回想でもしてみたら良い。
そして与えられた屈辱をどのように晴らした? 周囲に当たったのではないか? 親に、友人に、知人に あるいは他人に当たり散らしてはなかったか?
割り込みされたから前の平民を杖で殴った。一等車にマナーの足りぬ貴族が居たから貴族裁判で下級貴族であった彼を訴えたりしなかったか? 眼の前にみすぼらしい浮浪者が居たから殺したりはしなかったか?
ん? そちらの世界に身分制度がない?
では何故、浮浪者に手を差し伸べたりせず、侮蔑の眼差しで見る? 社会奉仕の一環として貴方の金を寄付せぬ? アフリカの子供に寄付せぬ? それは貴方の資産は貴方の努力によるもので貴方の幸せのために使うべきものであるという自負である。その為におこがましくも駅で寄付を募る偽善団体に嫌悪を示すのだ。
”何故自からの努力をせぬ者に施しをせねばならんのだ”と思うであろう。そう思うのは貴方が並々ならぬ努力をした成果である。施しを受けたくば、施しを受けるに足る理由がいるのだ。仮に年老いた家族と幼子のために自らが働こうにも、ヨーロッパが用いた資本主義の被害者として稼ぎが足りなく、仕方なくそれまで物々交換で足り得た地域経済を問答無用の紙幣経済が略奪した価値観を押し付けられた少女は、物乞いとして生きるしかなかったのだ。
そうした背景を知るにようやく貴方は寄付をしようと思ったのだ。自らにその似たような過去があるのか、これからその身分に落ちてしまう不安からかは分からぬが、ようやくその物語を知るに寄付の心が芽生えるのだ。
世の慈善活動の根底はこの自らもその将来があるかもしれぬという不安からくるものである。貴族の社会奉仕の活動はその身分から来る義務感であるが、法律的にも奉仕が義務とされていて、その尊厳が維持出来るに足り得る感謝と尊敬の眼差しが貴族の尊厳を護っている。
対価のない奉仕はそれこそ生んでくれた親にのみに存在する。
それ以外はすべて偽善である。
社会に出る前に社会奉仕の活動は就職活動に書けるアピールポイントである以上に感謝されるというのは先の貴族のように気持ちの良いものであるからだ。
快感なのだ他者からの感謝は自己が優位であるという証明である。
しかし、世の中にはこれに当てはまらぬ者が多少なりともいる。それは宗教家ではない、まして奉仕者ですらない。芸術家である。だから芸術家は少なからずではあるものの、社会主義者が居る。
自らの権利は人々の慈愛からであると考えている。
彼らは人でありながら人ではない、真の貴族である。
稼げる、稼げないに関わらず芸術を創作する。真の貴族である。
「核を撃ってはいただけませんか?」
ヴェルへイムの言葉は静かに優しく慈しみの笑みを浮かべながら、人類史上最も忌むべき兵器を慈悲の心のように言うのである。これこそ蟻を潰す無垢である。核を撃つことに通常の人ならば躊躇うのである。自らに撃たれたらという恐怖もある。しかし、彼のように残虐から生まれたような天使のような美しさを持つ少年からは、そのような打算的なものはない。ただひたすらに結果だけを求めるのである。
サイコパスとは共感性のない人間である。人の感情が分からぬがゆえに残虐に走りやすいが、理解できぬものばかりでもない。共感意識が足りぬか足るかは個人差によるものであり、たまに社会でズレている者が居るが、彼らは決断するに躊躇いがないのはこういう人種が少なからずいるからだ。
例えば日本に核が撃たれようとした時、躊躇わずアメリカからの核弾頭に太平洋上で迎撃し、躊躇わずワシントンD.Cに核を撃てる首相が居たとしよう。その後も持てるアメリカの弾頭をことごとく打ち砕くとしよう。背後の中国やロシアに撃たれる恐怖すらも撃ったら打ち返すまでだと考える首相を心強く思うのは有事のときだけだが、自身の存亡を一国の首相に委ねるとした時、これほど心強いものはない。
核とはそういう存在なのだ。撃つ、撃たない以前に人類の価値観を問う道徳兵器が核なのだ。
それをこうも簡単に撃つと言えるヴェルへイムは立派なサイコパスである。
アインシュタインは彼に跪く。
「殿下、核とは人類の尊厳を揺るがす兵器です。それを撃つということは神への挑戦と同義です」
「では、私は神になろう」
その言葉にアインシュタインは感動した。これほど神になろうと躊躇いもなく言える人間は真の王に相応しい。彼になら悪魔の兵器すら委ねてもいいだろう。
「殿下、この兵器は人類滅亡すら叶える兵器です。どうか滅亡だけはおやめください。全ての生物すら死に絶える未来をわずか一万年もの歴史すら持ち得ていない人類が犯すには余りにも大きな過ちです」
「私が居ない世界などに興味がない。私が統治できぬ世界などに興味はない。世界が私を満足させるに足りえるまで私は滅亡させぬよ」
彼はそう言った。
ああ、この悪魔はどこまでも美しい。
アインシュタインはそう思った。
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