第8話 検証が一番楽しいまである
「まずは、今の時点での能力の限界を測る。それによって、できることが違ってくるから」
とキリエが言った。
元々、今日の訓練の目的は【
だが、俺に奇妙な能力が備わっていることが発覚して、その方針は大きく変更になっている。
目標は、能力の詳細を確認すること。
そのために、ツカサとキリエが協力してくれるというのは、俺にとっても非常にありがたい話だった。
なにしろ、この能力は自分一人じゃろくに発動することもできないのだ。
「私が『矢』を放つから、ナオヤは能力の発動から終了までの時間を測って」
「正確には測れないかもだけど、いいか?」
「大丈夫。何回か測ればいい」
それに、と続ける。
「あくまで、ナオヤが何秒だと自覚してることが重要。どうせ、その時間のなかで動けるのはナオヤだけ」
「わかった」
――何度か計測した結果、“認識のズレ”が起きるのは最長で約十秒間だとわかった。
十秒。
決して短くはないが、微妙な時間のようにも思える。
もちろん、瞬間的になにかをやるには十分すぎるだろう。
ただ、その時間をいっぱいに使って具体的になにができるかということを考えると、あまりいい案が思いつかなかった。
「あっちの世界の話だけど、100メートルの世界記録で10秒切るよね」
「そんなに動けたら凄いけどなー」
ツカサのだしてくれた例に苦笑する。
当たり前だが、プロのアスリートがだすような記録なんて、俺なんかには到底真似できない。
「高校の時とか、体力測定で測らなかった? 100メートル」
「測ったけど。正直、覚えてないなぁ。普通ぐらいのタイムだったと思うけど」
「高校男子の平均タイムなら、だいたい13秒くらいかな。13~14秒ってところだと思う」
「あー。たしか、そのくらいだった気がする。14秒ちょい切るくらい」
走るのが得意とかではなかったけれど、特に苦手だったわけでもない。
せいぜい、十人並みってところだろう。ちなみに、持久走はいつも手を抜いてサボってた。
「100メートルを13秒台なら……、10秒だと70~80メートルくらい?」
ツカサがすぐに計算してくれたが、そこに関わってくる大きな変数があることを彼女は忘れている。
昔と違って、最近は運動なんてたまに友人連中と遊びでやるくらいだ。中学高校時代に比べて身体が訛っていないわけがなかった。
「あはは。それじゃ、余裕をもって50メートルくらいにしとく?」
「だな。よーいドン! ってクラウンチングでスタート切れるわけでもないし」
「……五十メートルなら、だいたいあそこの岩あたり」
話を聞いていたキリエが指し示してくれた場所を眺める。
ぽつんと平原に落ちてある大岩までは、ちょっとした距離。
もしあそこに誰かがいたとして、多少は声を張り上げないと、向こうには届かないかもしれない。
「……こうしてみると、50メートルってけっこうあるんだな」
「うん。この距離を詰められるなら、十分凄いと思う!」
ツカサが興奮した様子で拳をにぎっている。
殺気は不安そうにしていたが、実際に検証をはじめてみると楽しくなってきたらしい。
気持ちはわかる。
「歩いてみた場合も測ってみる? 歩幅って、身長×0.45でだいたいは計算できると思うから」
へえ、そうなのか。
そんなことよく知ってるな。さすが元陸上部。
「そう言えば、ツカサは100メートル何秒だったんだ?」
「私? んっとね、中学の時の自己タイムが、12秒51だったなあ」
「いや、普通に早いな!」
「ふふ、ありがと。でも、そこから先が壁なんだよね。結局、50を切れなかったし……」
言いながら、ツカサはなにかを懐かしむ顔になる。
中学の頃の思い出か、それとも元の世界のことを思い出しているんだろう。
そして、そんな表情を眺めながら、コースを走る彼女の姿を想像してしまった俺がいることは内緒だ。
さあ、いやらしい想像が二人にバレないうちに、計測を再開しよう。
今度は能力が発動中、あまり急がずにゆっくりと歩いた距離を測って、結果は十メートル~十二メートルだった。ちなみに、歩幅は八十センチで計算した。
これで、俺が能力をつかって移動できる距離はだいたい十メートル~五十メートルとわかった。
五十メートル。五十メートル、と具体的になった数字を頭のなかで弄んでいると、ふと気になることを思いついた。
「そういえば、この世界で攻撃魔法を使う時の適切な距離とかってあるのかな?」
射程距離とか、有効距離とか。
魔法も、風とか自転の影響を受けたりするんだろうか。
それとも、基本的には必中だったり?
ゲームによってはそういうシステムもありえるだろうけれど、とか思いながら訊ねると、キリエが首を振った。
「撃てば必ず当たるなんてことはない。魔力の影響も受けるし、属性の影響もある」
「属性?」
「相反する属性同士の魔法がぶつかると、基本はどっちも消滅しちゃうの。ほら、このあいだの時みたいに、火と水とかね」
あー。トールとやりあった時の、あれか。
ん? じゃあ、ぶつかった直後に霧が生まれたのはなんだったんだろう。あれも消滅の余波ってことだろうか。
まあいいや。そのあたりは、また今度訊くことにしよう。
「基本的な魔法戦の適正距離は、十メートル。これ以下だと、相手に近づかれて接近戦になる恐れがあるし、これ以上だと命中率がかなり落ちる」
「ふむふむ」
「二十メートル以上は、基本的に当たらないこと前提。手数で圧倒するか、範囲を強化して相手がどこかでひっかかることを期待した戦術」
「それじゃ、範囲を限界まで広くしたらだいぶ有利になるのか?」
「当たる可能性は高くなる。けど、その分、周囲への被害は増えるし、味方を巻き込む可能性も高まる」
なるほど。そりゃそうだ。
「五十メートル以上は、基本的に魔法戦とは言わない。一方的な破壊。周囲もろとも、相手を吹っ飛ばすつもりでやるしかない。あんまり効率的じゃない」
「へえ、どうして」
遠くから一方的に相手を攻撃できるなら、それが一番安全な気もするけど。
「距離が遠くなればなるほど、消費するMPがどんどん増える。威力は下がる。総じて、効率が悪い」
「ああ。距離による減衰があるのか。なら、そりゃそうか」
キリエはこくりと頷いた。
「普通、あまりに遠距離だと魔法じゃ勝負がつきにくい。一対一での魔法戦は基本、中距離で延々と撃ちあって相手のミス、またはMPの枯渇を待つか。それとも、近距離で決着をつけることを前提に中距離での牽制か。そのどっちか」
ようするに、純魔法使いと魔法戦士との違いってことか。
昔やったゲームの内容を思い出しながら、目の前の二人に聞いてみる。
「二人はどっちのタイプなんだ?」
「私は、中距離でひたすら撃ち合うタイプかな」
「わたしは、中距離で牽制して近距離で仕留めるほう」
……意外だ。なんとなく、逆っぽい気がした。
というか、キリエはそんな体格で近距離とか逆にすごくないか?
「もちろん、これは同格同士での戦いの話。相手がとんでもない格上なら、距離とか相性とか関係なく、範囲、精度を強化しまくった攻撃魔法で完封される可能性が高い」
「ははあ。相手の程度を知ることが重要ってことね」
「そういうこと。噂じゃ、街一つを吹き飛ばすような魔法を唱える使い手もいるらしい。そんな相手には、出会ってしまった時点でどうしようもない」
なにそれ怖い。
そんな輩にはなるべく近寄らないでおこう、と心から思った。
キリエの説明で、魔法戦における攻撃魔法の適正距離はよくわかった。
そのうえで、十メートル~五十メートルという、能力をつかった移動可能な距離を考えたなら、
「……けっこう、有効なんじゃないか?」
「かなり有効」
「有効どころじゃないよ!」
二人から同意が返ってくる。
それぞれの表情で、興奮した様子が伝わってきた。
「最低でも十メートル距離を詰められるということは、一般的な魔法戦の距離がほとんど意味を為さなくなる。相手が攻撃魔法を使おうとしたら、相手に近づいてしまえばいい。相手の身体に触れれば、発動前の魔法はキャンセルされる」
「そんな簡単にキャンセルできるもん?」
「少なくとも、わたしはされた。相手の
エルフって耐性が高いのか。
まあ、なんとなくイメージとしてはわかる。
「相手との距離が近ければ、そのまま近づいて魔法キャンセル。遠ければ、こっちも遠くに逃げちゃえばいいか」
さっきの話だと、距離をとればとるほど安全になるっぽいし。
だが、キリエは俺の発言に、「そうとも限らない」と首を振った。
「ナオヤの場合、さっきの話とはちょっと変わってくる。……さっき、わたしは遠距離魔法戦の効率が悪いと言ったでしょ」
「うん、聞いた」
「それは、距離による威力の減少、消費MPの増大以外にも理由がある。反対属性による相殺リスク。防御魔法による防御など。遠距離での魔法戦は、基本的に護る方が有利」
だけど、とキリエは続ける。
「ナオヤの場合は違う。魔法が使えないから。ナオヤには、相殺を狙うことや、防御魔法で自分を護ることができない。遠距離でも、十分に注意が必要」
「……なるほど」
「ナオヤの能力は凄いけど、決して無敵じゃない。実際、私はいくつか勝てる手段がある」
「……後学のために聞いておきたいんだけど。それって、たとえばどんなやり方で?」
キリエはまっすぐに俺を見上げて一言。
「空を飛ぶ」
あ、ずっこい。
「遠くから空へ逃げてしまえば、ナオヤは近づいてこれない。あとは、中距離から攻撃魔法を撃ち続ければいい。避けられるかもしれないけど、そのうちにナオヤの体力が尽きる。そこを狙う」
「…………」
「他にも、崖を挟んで対岸から狙うとか、自分とナオヤのあいだに障害をつくっておくとか。とれる対策は色々ある。ナオヤが歩いて近づかないといけないって情報を知ってるからこそできる対策」
「……なるほどね。初見殺しとしては有効だけど、ネタがばれたら普通に対策されちゃうか」
「でも、そんなにすぐにわかるかなぁ。誰だって、あれを見たら【
ツカサの言葉に、キリエはこくりとうなずいて、
「わたしもそう思う。むしろ、相手にそう思わせるような立ち回りをする必要がある。今のナオヤは、あくまでスキルも魔法も使えない状態。それを知られたら、簡単に対応されてしまう」
たしかに、それはそうだ。
「なあ、ツカサ。俺の【ステータス】を見て、【
「あ、うん。関係が友人以上じゃないと、そのあたりの『個人ステータス』は見れないから」
俺には異世界人の知り合いはツカサ以外にいない。
とりあえず、そっちから俺の能力に疑問を持たれる可能性はないわけだ。
「ってことは、ひとまず【
この能力以外にも普通のスキルや魔法を使えるようになれば、もっと安定した戦闘ができるようになるだろう。
――よし。
ざっくりではあるけれど、方向性が定まってきた。
少なくとも、ステータスも見えない。スキルも使えないなんて嘆いていた昨日までとは、状況は全然ちがっている。
将来に希望が持てて、俺は晴れ晴れとした気分だったが、
「……それについて、懸念がある」
そんな昂揚した気分に暗雲をもたらすように、キリエが静かに声をかけてきた。
「懸念?」
「ナオヤの能力について」
ちみっこエルフは慎重な口調で、
「恐らく、ナオヤの能力には【ステータス】を見れないことが関係している。異世界人ならできることが、できない。【
不安定?
その言葉を聞いて、俺は顔をしかめる。
別に聞きなれないわけでもないのに、どことなく、不吉な気配をともなっているような気がした。
「……まあ、偶然の産物ってことについては、俺もそうだろうなと思うよ。それで?」
「今のナオヤの状況が是正されたら、状況が変化してしまうかも」
「それは、つまり?」
「スキルや魔法を覚えてしまったら、その時点でその能力は失われてしまうかもしれない。可能性だけど、そういうこともありえることは理解しておいたほうがいい」
◇
それからしばらく確認や、話し合いをおこなって、そろそろ食堂の昼時間が始まるということで、今日の訓練はそこでお開きとなった。
俺は今日、中番なのでそのまま食堂の手伝いへ。
ツカサは自警団の話し合いがあるということで、食堂の手伝いは休みだった。
キリエは今日からしばらく世話になる「眠れる子豚亭」につくと、さっさと部屋にこもってしまった。なんでも、寝溜めするらしい。
「豚焼きふたつ上がったよー!」
「フレッドさんがエール五つだって! 大至急!」
「ナオヤ、こっちは大丈夫だから~。向こうの人たちをかまってあげて~」
「ナオヤぁ! 酒はまだかあ!」
ああ、もう。うるせえな、あのおっさんどもは!
夜時間の「眠れる子豚亭」は、今日も大盛況。
今日も今日とてウザ絡みをしてくるおっさん連中をあしらいながら店内をかけまわり、九時を過ぎたところでお役御免となった。
「ナオヤ、もう上がりかあ!? なら、こっち来てお前も飲め!」
「明日、自警団の訓練があるんで! おやすみなさーい!」
厨房でまかないだけ受け取って、俺は脱兎のごとく二階へと駆け上がる。
階段の上にはツカサの姿があった。
大量の書類や道具を両手いっぱいに抱えたまま、なんとか自分の部屋の扉をあけようと四苦八苦している。
「ほい」
「わ、ありがと」
隣からひょいと手を伸ばして扉を開けると、ツカサはほっとしたように肩の力を抜いた。
「おかえり。話し合いはどうだった?」
「うん、バッチリ確認してきた。これで明日は大丈夫! だと思うんだけど……」
明日は、自警団のメンバーで街の郊外まで魔物退治を兼ねた戦闘訓練にでかける予定になっている。
自警団の活動としては初めての実戦。
俺もそれに参加することになっていて、もちろん実戦は初めてだ。
緊張していないといったら嘘になるが、そんな俺とおなじくらいかそれ以上、目の前のツカサはナーバスになっているようだった。
ツカサは明日のリーダーだ。その重圧もあるのだろう。
今日も昼から出かけて、帰ってきたのがついさっき。だいぶ長いあいだ、外で話し合ってきたことになる。
表面にはださないようにしているが、その顔には疲労のあとが見て取れた。
「……あんまり、ガチガチにならないほうがいいんじゃないか? って、俺なんかが言える立場じゃないけどさ」
とりあえず、彼女の手のなかから零れ落ちそうな道具のいくつかを受け取りながら、声をかけた。
「大丈夫だって。キリエが護衛についてくれるし、フレッドのおっさんもいるんだろ?」
なんでも、あの奥テーブルでいつも騒いでいるおっさんたちは、全員が元冒険者で、昔はかなりブイブイいわしてた(本人談)んだとか。
自警団には経験不足の若手が多いから、オブザーバーとして明日は服屋のおっさんのフレッドが同行することになっていた。
でも、あのおっさん、いつもと変わらない様子で酒飲みまくってたけど、明日は大丈夫なのか?
……いやいや、大丈夫だよな。いい大人なんだから。
俺と同じ疑問を抱いたのかどうかはわからないが、ツカサは眉をしかめて、
「うん。大丈夫だと思うんだけど。……やっぱりちょっと不安だな」
「フレッドのおっさんが、明日、二日酔いになってないかどうか?」
「そうじゃないけど。……そっちも、ちょっと心配だけどね」
彼女は苦笑するように首をすくめてみせる。
「明日は、そんなにヤバいとこまで行くわけじゃないんだろ?」
「うん。森の浅い部分まで。いくつかポイントを回って、新しい群れができてたら追い払って。そんな感じかな」
「なら、大丈夫だろ。それにほら。いざとなったら、俺の能力があるだろ? ばーんと、一網打尽にしてやるからさ」
ツカサはきょとんとしてから、くすくすと笑う。
「明日は、
「ありゃ、そうなの? まあ、なんとかなるって!」
ツカサはじっとこちらを見つめてから、ほうっと息を吐いた。
「――うん。大丈夫だよね」
「俺には、フレッドのおっさんのほうがよっぽど心配だけどな。なんなら、今から一緒に下にいって叱りつけてくる?」
俺はともかく、ツカサに言われたらあのおっさんも大人しく家に帰るだろう。
半分以上本気の提案だったが、ツカサは首を振った。
「ううん、大丈夫。……ありがと、ナオヤくん」
「どういたしまして。――これ、持てる?」
「あ、ごめん。ちょっと、今持ってるのだけ部屋に置いてくるね」
パタパタと自分の部屋に向かう後ろ姿を見送りながら、これで少しは緊張が解けるといいけどな、と考える。
ツカサはいい子だけど、ちょっと真面目すぎる気がする。
あれじゃなにかあったとき、全部を自分一人で背負いこんでペチャンコになりかねない。
……とはいえ、性格なんて簡単に変えられるもんじゃないからなぁ。
なんてことを思っていると、
「――ナオヤくんは、大丈夫?」
部屋のなかのツカサに声をかけられた。
「俺?」
「うん。能力のこと。……不安じゃないのかなって」
――能力が失われてしまうかもしれない。
――そういうこともありえることは理解しておいたほうがいい。
「ああ、あれね」
俺は頭をかいて、
「ま、可能性として全然あるのはその通りだし。不安定な状態ってのもわかるから、どうなるかなんてわかんないよな」
別に、キリエは嫌がらせであんなことを言ったわけではないだろう。
そうなった時のこともきちんと考えておけ、と彼女は言ってくれたのだ。
「せっかくの能力がなくなっちゃうのは寂しいけどさ。でも、その時はスキルとか魔法が使えてる可能性が高いわけだろ? だったら、今度はそっちで楽しむしかないよなー」
振り返ったツカサが、こちらに戻ってくる。
「……ナオヤくんは、強いなあ」
「そんなんじゃないけどな」
目の前で立ち止まったツカサは暗い顔。
彼女がたまに見せる、なにかを思いつめるような表情だった。
「ううん。そんなことあるよ。きっと、私がナオヤくんみたいに強かったら――」
唇を噛みしめる。
そんな彼女の様子をしばらく見つめてから、
「あの能力ってさ」
俺は語りだした。
小首をかしげるツカサに、
「思ったけど、結局、誰かの協力がないと無意味なんだよな」
相手に近づいて魔法をキャンセルしたところで、それからの手段が俺にはない。
素人が武器を振り回したところで、それでどうなるとは思えない。
なにかの【
「そんなこと、」
否定しようとしてくるツカサに手を振って、
「あ、違う違う。卑下するわけじゃなくて。それで、ありがたいなって思ってんの」
「ありがたい?」
「そ。自分一人で出来るより、周りと協力して出来たほうが楽しいじゃん?」
「そう、かな……」
「そうだって。少なくとも、俺はそう思うね」
きっぱりと断定して、がしりと相手の肩をつかむ。
びくりと震えるツカサの顔を覗き込んで、
「――だから、能力とか。スキルとか、魔法とか。これからなにがどうなっても、ツカサには迷惑かける気満々、甘える気満々だから。そこんとこよろしく」
ツカサが目をぱちくりさせた。
徐々にその顔に生気が戻っていく。
嬉しそうに、彼女は大きくうなずいた。
「――うん! たくさん、甘えてほしい!」
「あいよ。ってことで、明日も早いからさ。もう寝ようぜ」
――ふと。
そこで、やけに周囲が静かなことに気づいた。
さっきまで騒々しいくらいだった、一階の喧騒が消えている。
俺は顔をしかめて、預かっていたものをツカサに手渡すと、そっと階段に向かう。
きょとんとしているツカサに静かにするようジェスチャーで伝えておいて、さらに足を進めて、階段の下をのぞくと――
すし詰めになって、こちらを見上げるたくさんの顔と目が合った。
常連のおっさんカルテットを中心に、それ以外のお客や、店の先輩まで。全員が興味津々といった表情で、わざとらしく耳を澄ませている。
こ、こいつら……。
「なにやってんだ! この酔っぱらいども!」
俺の怒声に、下の連中はまるで悪びれた様子もみせず。
全員を代表するように、先頭に陣取ったおっさんカルテットたちが、手にした木製ジョッキを掲げてみせた。
高らかに唱和する。
「迷惑かける気、満まーん!」
『甘える気、満まーん!』
「死にさらせ、このクソ酔っぱらい! 酒で死ね!」
心からの暴言を叩きつけて部屋に戻る途中、苦笑しているツカサと目が合った。
「……おやすみなさい」
下の階に聞こえないように小声で言ってくる相手に仏頂面でうなずいて、自分の部屋へ。
ベッドに飛び込む。
一階の連中の冷やかしのせいで、自分がやけに恥ずかしいやりとりをしてしまったような気がして、そのうえを転げまわった。
――もしかしたら、この宿は早いうちに出ていくべきかもしれない。
そんなことを思いながらひとしきり恥ずかしさにのたうち回ってから、強引に睡魔を手繰り寄せて眠りについたのだった。
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