フルオート

はらわた

鼓動編 一章

「正【せい】」

 一つの疑問が俺の箸を止めさせた──。

 正は顔を上げて、俺に目を向けた後にゆっくりと視線を交わす。

「なぁ、正。俺とお前は兄と妹という切れない絆があるが、遺伝的な繋がりはない義兄妹だ」

「……うん。そうだ……ね」

「これから高校、大学、社会人になって、大人になっていく時、隣にお前がいないことを考えると胸が張り裂けそうな思いをしてしまうだろう。もしも俺に彼女が出来なかったら、俺と結婚しよう」

「わかった。……でも、家族の繋がりがあるんだからわざわざ結婚しなくても良いと思うけどなぁ」

「お前を幸せにしたいんだよ!」

 ──何故俺はここに居るのか。

 親の顔を知らず、六歳までの記憶すら持っていない。気は弱いが可愛さが限界突破している義妹と一緒に風見家に引き取られた哀れな男だ。

 恵まれているのは顔の良さと高い能力くらいか。

 天才として生まれてきてしまうと、刺激というものが極端に薄れてしまって活力がわかなくなる。残りの余生を正に費やすことで終わらせる方が効率がいいと思い至った。

 中学一年生にして、既に義妹は綺麗になっている。持て余した青春をぶつける相手としても適任だろう。

 大体、正を幸せにできるのは俺だけなんだ。誰が他所に渡すものか!

「……お兄様は人を釣るのが上手いから、被害者が出ないように付いていかないと心配だもんね。私が居ないとお兄様は駄目なんだから」

「んな、悪人みたいに言うなよ」

 えー、と味噌汁の椀を持ち上げる。

「わざと隙を晒して、そこに手を突っ込んだ男の子を全力でボコボコにするのがお兄様でしょ。とぼけたり調子に乗ったり、そんな因果応報を受けそうな状態が一番の怖い所なんだよ」

 ……と、そこまで性根が腐っていることを理解しておいて、慕ってくれる所がお前の一番の優しい所だぞ。

 俺は最後のウインナーと米を口に入れ、食器を台所に置いた後、キャップ付きの空き缶を手に玄関を出た。

 錆びついた手すりにもたりかかり、二階から見える灰色の桜道を眺めながら、ポケットからたばこを咥えた。

 ライターで火の玉を点け、先端に火を灯して煙を吸った。

 ジン……と、俺の眠気を乗せて息を吐く。それは空へ登っていき、いつしか雲へと混ざるだろう。

 十二ミリの味は俺に程よい刺激を与えてくれる。

 ……俺は自問する。

「……このまま何も起きないのか? 善人でいるのは飽きたぞ」

 習慣とは恐ろしいもので、同じことを繰り返すほど時間は速く感じる。二本目に手を付けようとして、もう五分も経ってしまったことに驚いた。

「……前世は高校一年生、だったっけ」

 玄関扉が煩わしく、錆び付いた丁番から金切りのような音があがる。

 正が俺を迎えに出てきたのだ。

「やめるよ……」

「いいよ、だって前世を含めたら大人でしょ。吸って何が悪いの?」

「人がいる所では吸わないことにしてんだよ」

「怪しいなー」

 俺の常識を疑いながら、俺の手を引いて家の中へ戻していく。

 ふざけた思い付きで話したことを引き合いに出されては、コントロールがしにくいもの。抗うことも面倒になる。

 洗面台まで連れて来られ、右手に歯ブラシを握らされる。正は俺の左腕に組んだまま器用に歯を磨き始めた。

 こうなってしまうと学校をサボることが出来ない。もしも正から無理にでも離れようとしたところで、コアラのように俺の腕に掴まるからだ。

 ただ、見方を変えれば、正がいるから不良になれるわけで、正がいなかったらタバコもサボりも出来なかっただろう。越えてはならない一線は見えているつもりだ。

 だから正にだけは優しくありたいと考えている。彼女の苦労を知る俺には、それに見合うだけの幸せを与えなければならないから。

 正は口の中を濯いだ後、俺の顔を下から覗く。

「今、私のことを想ってたでしょ?」

「んだよ」

「お兄様はそうやって、フラグというものに挑発をするんですから。駄目だよ? フラグ回収者をボコボコにしちゃ」

「言ってる意味がわかんねぇ」

 ここで正が死んだり悲劇に遭う展開は、確かに俺の心に大きな傷を残すだろうが……そんなことは起きない。

 俺ほどではないが、彼女は腕も口も化け物のように強い。どんな強大な悪でも沈めてしまえるのが正なのだ。

 ……さらっと、互いに意思疎通が出来てしまう程に、今更ながら他人ではないのだと気付かされる。

 正は妹なんだな。

 登校の支度を始め、家がボロくて狭いが為、同じ部屋で互いに背を向け合って制服に着替える。

 思春期に近付く身としては、数年後には俺が玄関で着替える羽目になるのだろうかと憂いてしまう。……いや、ありえない。正は俺のことが好きなのだ。俺が自分で玄関に行くのだ。

 俺は自分の中にある良心という壁から頭を出す。正がまだ着終わっていないのに振り返った。

 白人種とも……黄色人種とも相容れない絶妙な白く滑らかな肌が、彼女の目が肌色という事実と合わさって精霊のような存在感を放つ。

 いくら妄想をした所で、居るはずがない幻がここにある。俺は夢を見続けているのだろうか。

 就寝用のブラジャーを外して外出用に替えようとしたところで、ようやく俺は見るのをやめた。

 あんなに綺麗だったとは、今まで全く分からなかった。アダルトビデオやグラビア雑誌くらいでしか見られなかった女性の肌とは比べるまでもない。

 まさしく……人形。生物には到達できない領域ではないか。

 今更になって、自分の行動が恥ずかしくなった俺は、すぐに部屋から出て玄関で正を待つことにした。

 その五、六分後だろうか、正が少し頬を赤く染めて、俺と目を合わせないようにしながら小さく、

「まだそういう関係でもないのに、盗み見るなんて違うと思う」

 至極真っ当な意見を出した。

 習慣から逸脱した行為は違和感を起こし、こうして相手に行動を悟られるのだろう。

「今なんか言ったか?」

「まだ! そういう関係でもないのに! 盗み見るのはやめていただこう!」

 俺の高尚な頭脳にインプットされているテンプレートの術式は真っ向から破壊された。

 しかし、その通りだ。誰にもその姿を見せず、体育の時間でさえ肌は見せないように着替え、プールの授業は必ず見学した。そのガードの硬さの価値を俺は今不正に見てしまったわけだ。

 淑女と呼ぶにふさわしい淑女、彼女は正しく淑女である。

「……悪かったな、なんか」

「そうです。そこが良いんです。お兄様の素敵なところは大切に想ってくれているところなんですから。自惚れた私には、お兄様の一つ一つの丁寧な気遣いがすごく嬉しいです」

 そして、またしても俺を逃さないように腕を組んで外へと引き連れて行く。

 しょうがないさ。俺は正のことが大切で、正のことを傷つけられないのだ。彼女のお願いを聞かないのは兄として男として紳士として、恥じるべき行為だ。

 逃げることを許されない灰色の空の桜並木を俺達二人は歩む。片道四十分、誘惑の商店街を横通りしながら、公園で休憩もせず、たびたびいりこを与えていた猫に囲まれながらも振り切って、妹の拘束で周囲の視線を一心に受けて私刃丸【しはまる】中学校に着いた。





 学校生活は退屈なものだ。何よりも授業のレベルが低すぎて過ぎ去る時間が無駄に思えてしまう。

 それがホームルームの後に行われるという事実が憂鬱な気分にさせる。

 正面が教壇として見るのなら、一番左側の前から数えて二番目の席に座る俺は、隣の席の正によって退路を防がれていた。

 およそ十分のタイムリミット。できることといえば、頬杖でもついて空を眺める位だろう。

 しばらく灰色の空を眺めていた。雨が降れば、裾が濡れて嫌な気分になると言うものだが、どうにも奇妙なことに、嵐が強まるごとに幸運な事しか起きない。

 幸運と不幸のバランスは天秤にかければ均衡していると言われているが、俺に関しては実際に秤に乗せられているのかもしれない。

「おはようございますボンクラくん!」

 右肩を二回叩かれて、横にいるそいつを見上げた。

 そこらかしこにいる色のはずなのに、だれよりも漆黒であり、夜を連想させる長い髪は異様なほど綺麗で、黄金に煌めく満月の瞳は俺を見下ろしている。

 彼女は黒夜。市絆黒夜【しほだくろや】。俺の……唯一の仲間だ。

「なんだよ……。将来の見通しが甘いってか?」

「そうですよ占ちゃん。確かに授業は私達のレベルでは必要ないかも知れません。しかし、それを教える技術や、教わる人間の動きなど、頭の片隅に入れておいてもギリギリ良いかも知れないことだってあるんです」

「ねぇよ」

「ね、授業の時は起きていましょうよ!」

「やだね」

「正直、私が明るく振る舞うのもそろそろ限界で無理だって思うのなら、私のこの言いようのない疲れを取るためにも是非!」

「だめだね」

「あのですね、私の話題のストックも尽きそうなので、せめて眠らないで欲しいんです。それとも私が嫌いですか?」

「は? お前は俺の義妹である正と同じくらい綺麗だわ!」

「ではなんです? どうすれば私のこのさり気ない提案をのんでくれるんですか?」

 実際は、俺が寝てようが起きてようが、学校に来ようが来なかろうが、生きてようが死んでようが、彼女は俺に話しかけてくれているだろう。

 何故なら黒夜の価値観が合う人間は俺であり、俺以外の誰かと一緒になることがあり得ない。

 ……意味のないものを意味がないと断じること。それによって無駄なものが一つ、二つ、四つ、八つ。分かってくれるだろうか、この世の無意味さを見出してからの途方もない闇は、俺の気力を全てを吸い上げてしまった。

 自分のために生きることの難しさを理解し合えるのは黒夜だけなのだ。

「──じゃあ、俺の女になれよ」

「分かりました。一緒に幸せになりましょうね、占ちゃん」

 ──チャイムが鳴った。しかし、それは俺にとってあってはならない事実をもみ消すことはなく、見えなかったはずの絆を確かなものにした祝福のように聞こえる。

 正の肩がぴくりと動く。朝用の日記を書く手も止まる。絶望……だった。初めて見る彼女の絶望の目は俺を見ている。

 それに気付かないはずもない黒夜は、何重もの厚い仮面を付けたような不自然な笑顔を作り、教室の中央の席へ戻った。

 ……俺、壊れてしまったのか?

 それでも時の歩みは止まらない。時は戻らない。守るべき者を傷つけた。

「お兄様は……そうやって、私の前から居なくなるんだね。その加虐心を受け入れようと思ったのに……ここまでいじめられるなんて思いたくなかった!」

 正は……俺といるのが耐えられなくなったのだろう。後ろの扉から教室を出て行ってしまった。それから入れ替わりのように前の扉から担任の先生が入ってくる。

「えー、起立」

 黒板の隅に書かれた日直担当の名前に目をやり、ああそうか『和々切占七』『風見正』で俺達が日直かと気づかされながら号令を掛けた。

「礼、着席」

 俺の一声でクラスメートは意のままに操られ、教師に向かって頭を下げる。それが少し気に入らなかった。

 担当の教師、佐沼先生は出席票を開き、死にかけたような腐りかけているような、なんとも気の毒な目で確認する。

「風見さんが居ないようだけど」

「トイレの手洗い場に置き忘れたヘアゴム取りに行きました」

「ふむ」

 俺がなあなあでついた嘘は、正の机の上に置かれた筆記用具と合わさって信憑性を増した。

「維崎【いざき】さんも居ないようだけど」

「あいつは母親から親戚の訃報の連絡が来たようで、最上階の階段で電話しています」

「鞄も何も置かれていないようだが……」

「色図【いろず】は俺の大親友です。俺が嘘をついて彼女を傷つけるようなことなどしませんが!」

 ダメ押しの話題逸らしが、佐沼先生の働いていない脳味噌の領域に踏み込んでしまったようで、何の反論も思い付かずむぅとか唸りながら納得した。

「井田君は?」

「知らね」

 ──バッ! と前の扉が開かれた。

 ツンツン頭がトレードマーク。見た目ど直球の熱いヤツが腰を低くして教壇を横切る。

「井田君……遅刻だよ?」

「ぐっ」

 しかし無駄な努力だ。最早、言い逃れできない状態になってしまった井田は俺の前に堂々と着席し、ふんぞり返った。

「そういう先生だってホームルーム遅れてきたじゃんか! 人のこと言えんのかよ!」

「ええ、確かに。ですが……ホームルームに遅れて何が悪いのでしょうか。私は学校からの連絡をあなた方に教えているだけ、それを決められた時間を全部使って言う必要はない。生徒は、決められた時間を守る必要がある。分かりますか?」

「な、なにをー! それならプリントの一枚でも刷って黒板に貼りゃあ良いじゃんよ! そしたら登校時間の短縮なりなんなり出来るだろ!?」

「井田君を評価するのは私です。私が居なくて誰が黒板に貼られた連絡を読む生徒を評価するのでしょうか。覚えておきなさい、大人と子供は平等でも公平でも無いんですよ」

 そう言って出席票に何かしら書き込んで、軽やかに閉じた。

「しかし、私にカマをかけたこと、意見を言ったこと、その素晴らしい評価から遅刻に関して目を瞑りましょう。特別だぞ?」

 佐沼先生は再度井田を見ることなく、全体を見渡すと言うよりは……虚空を眺めた。

「明日ですが、このクラスに転入生が来ます。まだ皆さんが入学して二日目、ほぼ入学生と変わらないとは思いますが……小学生の時の友達がいるあなた方と違い、彼女はそのような関係はないと伺っている。なので、クラスの雰囲気を良くしたいのならあなた方から関わっていくようになさい」

 ……? おかしいな、むず痒い。

 転校生という要素があるのは構わないが、それは俺の中で黒夜に当てはまるものであり、既に俺と学生生活を送っているために違和感を得る。

 俺の直感だと、恐らく女子だ。俺のこの正に嫌われる不幸の穴を埋めるために女子が来るはずだ。

 分かるのだ。世界が俺を中心に動いている、その錯覚に悩まされている俺には……。

「そんなところでホームルームは終わりだ。次は上級生からの歓迎会の後、総合学習をやります。午後は真っ直ぐ帰宅するように」

「なんで帰宅するんだよ」

「井田君……正午に学生が出歩くことにクレームを入れる厄介な人が居るんです。外で遊びたいのなら着替えてから頼みますよ」

 ……しかし、井田は不満な様子。新しい制服を着て街中を歩いてみたい気持ちは分からなくないが、パンダのようなでかい隈が出来ている佐沼先生を見ているととてもではないが勝手なことをしようとは思えなくなる。

 これ以上の野暮は流石に見過ごせないので、俺は号令を掛けることにした。

 その後、佐沼先生の牽引でクラスは体育館に向かうことになる。出席番号順に並んで進む中、途中で正が混ざった。

 涙で若干腫れてしまった目元から察するに、俺と黒夜の関係の変化に対するショックの大きさを物語る。

「正、苦しいのか?」

 睨むように俺を見た後、すぐに前を向く。

「そうですよね、お兄様は。好きな人が嬉しがるよりも、悲しむ方が嫌だから恋愛をしないんだもんね。黒夜さんの方が私なんかよりも良い人だし、私なんか無視してよ」

 うわー、と井田の居心地の悪そうな声があがる。

 突発的にとはいえ、黒夜に告白も同然のことをしたために、俺の口から正に言える言葉が極端に減ってしまっている。言葉選びを誤ればすぐに会話は止まるだろう。

 黒夜……お前の優しさに甘えることになるな。

「あれはな、俺の理想の彼女に当てはまるくらいにならないと聞いてやんないぞって意味なんだよ」

「そんなこと言ったら、お兄様の相手が務まる人は誰も居ないよ」

「理想の女の子ならもういるじゃないか……」

 俺は手をそっと絡めようとした。些細な過ちで二度と仲良くなれないのが嫌で、逃げられないように捕まえたかった。

 しかし、正は両手を後ろ手で組んだ。

「黒夜さんはどうなるの」

「どうもないさ」

「あ、あんな優しさの象徴のような人を傷つけるの? 言っときますけどね、お兄様を好きになれる女の子はこの世で指で数えられるくらいしか居ないから。お兄様の心を理解出来る人がポンポン出てくる訳ないんだからね」

「お前がぽんぽん出て来ても困るわ!」

「黒夜さんの話でしょ!?」

「お前に話してんだろ!」

 元から周りで起きていた私語を飲み込んで、俺と正の怒声が響く。佐沼先生は話の内容だけに、注意出来ないようだった。

「また夫婦喧嘩だよ」「市絆も不幸だよな」「俺だったらこんな可愛い子がそばに居たら絶対に喧嘩しないわ」「お前はあいつになれねぇよ」

 小学校に在学していた時に正と仲が良かった二人の男子が小声のようで大きな声をあげた。俺と彼女の印象を出来るだけ悪くならないように配慮したものであると理解出来る。

 男女の友情を実現してしまった正への援護射撃だ。俺はこうやってやられ役になるんだよな。

「もういいよ。彼女を作るの早すぎると思ってるし、後で謝っとくよ」

「なら授業中に寝ないんだね? 言い訳しないんですね?」

「ああ」

 それでも不満は残っているのだろうが、正は俺の腕を両腕でがっちりと掴んだ。

 親愛の証にして、寝ないとなればサボる俺を逃さないためだ。流石に長い付き合い故に俺のことを分かっている。

 ……今日の不良ごっこは終わりだな。





 ──あれから一年の付き合いだ、彼女が悩んでいることくらい見破れる。

 仲間を増やさず、数十人規模の依頼を二人でこなして来た。だからこそ絆は誰よりも強くなり、その信頼が困難を打ち破ったのだ。

 俺は集めた枝を薪に放り投げ、切り株を椅子代わりに座るパートナーの隣に移動し、転がった丸太に座った。

 木々の葉の音が丁度よく鳴りを潜める。

 張り詰めたものを息に乗せ、少し吐いた後に話しかけた。

「俺たちは後、どのくらい成長できるんだろうな」

 彼女は膝に置いた手と手を合わせ、夜空を見上げる。

「学校に通いたいんですか?」

「自分のことを一人前だと思うことが出来ないっていうか、冒険をやめてのんびりした生活を送る準備をするのもいいんじゃないかって……」

 本当は彼女に友人に恵まれて欲しいという気遣いだった。俺達は恐らくまだ十三歳程しか歳をとっていない。これから先、文化的な暮らしをするために、冒険者を続けるしかない状況を打開して、未来の選択肢を増やすべきなのは明白だ。

 大人と言うにはあまりにも成長できる幅が大きすぎる。俺達は子供なのだ。

「……選びにくいですね、言葉。私とセンナノくんは人間のフリをしている化け物ですよ。世界が科学的でも、幻想的でも、現実的でも、度の過ぎた行為は崩壊を招きます」

「学ぶことに限界があるというのか?」

「学ぶことは一つもありません。義務教育でないのが駄目なんです」

 俺は彼女に手を伸ばし、汗ばんだ手のひらを握りしめた。

 彼女の悲痛な目が合う。

「……センナノくん。私を生涯をかけて愛してくれますか。そうでないと……隣に居るだけでも心が潰れてしまいそうなんです」

「それは……」

「センナノくんには、私達が向かうことのできない別の世界で、大切な女の子が十九人居るのは分かっています。それが永遠の中でのたった十九人だというのも知っています。だとしても私の命はセンナノくんしか愛さない、センナノくんだけ愛したい」

「なんだよ、その十九人って。何を言ってんだよ」

「私は……今のあなたの魂を作った経緯を逆算できるだけの知能があるんです。そして、あなたはもう限界に達している……」

 俺の頬に指先を滑らせ、自分の頬に手を当てた。

「そろそろ、悩むのが馬鹿らしくなるころでしょうか? そうだとすれば……センナノくんのメインヒロインは、あの機械のような女の子なんでしょうね。私はもう……選ばれることはないんです」

 俺の手から解かれる彼女の指は、誰とも結ばれないように硬く拳に変えて、俺から離れていく。

 闇のような長い黒髪が焚き火から逃れるように、あるべき場所へ戻るかのように、夜の森へ溶け込む。

 俺は彼女の語りにより、記憶にはないというのに夢で見たかのような既視感に苛まれた。

 ……夜下。皐、流魅果、亞神、白波、フリアエ……?

 ──トート。

 繰り返される少女達の大恋愛。成功も失敗も許されない永遠の地獄。

 今、彼女を手放せば、必ず消えてしまうだろうと、予感に過ぎない小さな違和感が頭の中を全力で暴れ回った。

「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」

 心の壁に数億数兆、無量大数の穴があいた。封じられた想いは絶叫となって一気に噴き上がる。

 彼女を失いたくない。その気持ちが数の限界を越え、やってはいけない呪いの言葉をついに掛けてしまった。

「ああああああああああああああああ! 待ってくれ! あ、あああああああ、ああああああああああ!!」






「ね、お兄様。起きてください。号令だよ」

 正の優しい声。俺を傷付けないように、春陽【しゅんよう】のような柔らかな手が肩を軽く叩く。

 一番最初に目に映ったのは正の微笑んだ顔。あれだけ注意をしたというのに、すぐに寝てしまっている俺を少しも恨んでいない。

 俺もそうだ。どんなに酷いことを言い合っていても、手と手が触れさえすればそれで充分だから。友達のままで……妹までで、幸せだから。

 永遠にお兄様の隣で笑っているよ。

「────うわああああああああああ! クロヤ!? クロヤ!! クロヤァァアアアアアアア!!」

 くすり、小さく笑う黒夜。俺の寝惚けた顔が愛おしいのだろう、彼の新しい顔を見れることが幸せ。

 そうでなくとも、指一本、一ミリのあたらしい動きの違いでさえ胸がときめく。知らない占七くんが見たいから。

 永遠に占七くんの隣で違う私を見せてあげるよ。

「クロヤッ、あのな? 愛してるんだ。本気だぁ! 俺は本気でお前を愛してる! 片時もお前を離さない! 永遠に一緒だぁ……はっははは!」

 ……黒夜は俺に戸惑いも焦りもせずに、迫る俺の体を受け入れた。

 ──押されどかされた正や他の生徒は床から俺を見ている。いつもの俺なら羞恥心で居なくなりたくなっていただろうに、不思議と自分の存在に自信が持てた。

 俺の背中に黒夜の手がぽんぽんと優しく叩かれる。

「占ちゃんが……占七くんがどんな夢を見たのか分かりませんが……私の方が占七くんを愛してますから、」

「ああ! ……ああ」

「……少し風に当たりましょう。私はもう死のうなんて思いませんから……」

「ああ……そうだな」

 黒夜は俺から少し離れ、自分の指を俺の指に絡ませた。

 前を歩く彼女は俺を引っ張ることはなく、俺の歩みに合わせて動く。固く築き上げた信頼と阿吽の呼吸による合致した動きは、全ての障害を乗り越えていったものだ。

 後ろから聞こえる井田の号令で、俺が壊してしまったクラス内での空気が治りつつあることに安堵し、小さく息を吐いた。

「占ちゃん」

「どうしたんだ、黒夜」

「本当に私、死にませんから。何があっても……占ちゃんの隣にいますから。占ちゃんが誰と結ばれようと……笑いますから」

「黒夜……」

「わた、し……笑って……みせますから。占ちゃんから、あ、愛してるとっ……言われたの初めてで……。嬉し過ぎて……涙が……」

 下りの階段の途中、黒夜は俺にゆっくりと顔を向ける。

「『好き』だと言われたことしかなくて……!」

 それは……繕った笑みさえできない、涙をぼろぼろと流す、俺の知らない少女だった。

 生きる理由そのものである彼女に触れられるだけで、喜びも悲しみも俺にはいらない。彼女の心の変化は分からなくても良い。

 今は……。





 そして一人で帰った。

 死んだ後はどこに行くのか、生きてるうちには誰にも分かる訳がないのだが、俺は今、分かる気がする。

 泣き崩れる黒夜に寄り添い続けることができず、俺を本気で愛してくれた正に会えなかった。

 色図に相談することも違うような気がしているし、井田には逆に殴られそうだ。

 親友の文田【ふみだ】には特に話せない。いや、親友ではあるが好きかどうかだと大嫌いで、まず意見が合わない。

 だから一人になった。

 人が一人では何も出来ないとしても、他者と関わることに疲れたのだ。

 そうさ、疲れたんだ。今まで何人と関わってきたと思ってる。指じゃ数えきれねぇよ。最良の選択を選ぶ為にどれ程の気を使ってきたか想像しろよ。

 ……死にたい。黒夜に本当のことを言って良かったのかどうか、分からない……とでも言いたかった。

 駄目だ。俺は黒夜に愛してるなんて言ってはいけなかった。これから先、他の理想の女性と会うことになった時、必ず傷つけてしまうからだ。

 正でさえ死ぬほど胸が痛いのに、こんなものをまだ味わらないといけないのか?

 苦しい……苦しいよ、和々切占七。

 誰だよ、俺を作ったのは……。

 なぁ! 誰だよちくしょう!

「………………。今なら死ねそう。普段は全くそう思わないのに、口に出るほど軽い」

 無かったことに出来そうだった。死んだ後はどうなるのかなんとなく分かる。そう、死んだって良いんだ。

 俺は死んでも良い人間。特別だ。

「……壊れた人生はあっちゃいけないんだ」

 頭を両手で挟む。そこに力を入れて、脳をすり潰した。




「クロヤ! 好きだ! 本気で!」

「……え?」

「いや……愛してる」




 俺は一人で帰った。

 死んだ後、人はどうなってしまうのか、なんとなく分かる気がする。

 義妹の流魅果を傷つけて、何してんだか。結婚の約束もしたというのに。

 本気で愛してくれた流魅果を裏切って、失いたくない人を本当に失わないようにして、それで俺は生きるのか?

 苦しい。死にたくなる程に。

 これから先、俺にとっての理想の女性と何人も出会うだろう。その度に大切な人である黒夜の存在が、彼女達を傷付けてしまう。

 流魅果一人でさえこの胸の痛み。耐えられそうにない。

 十階のマンションから頭を下にして飛び降りても擦り傷しかつかない俺の体は、やはり自分の力で頭を潰すしか自殺の方法がない。

 黒夜を幸せに出来ないことに後悔が残りながらも、それ以上の惨劇が起きないことの安堵のおかげか、俺は迷いなく脳をすり潰した。




「クロヤ。どうしても聞いて欲しいことがある」

「……私、そんなに死にたがってますか……?」

「……放っておけない。俺はお前がいなきゃ駄目なんだ。お前が……お前程の善人が、報われないと……俺は俺を許せない」

「だからって、五七ちゃんもいるのに?」

「俺は……クロヤが好きなんだ。愛してるんだ」




 一人で帰った。

 義妹の五七【いつなの】も黒夜も、胸の中では愛しているのに、わざわざ口に出すことのなんと愚かしいことか。

 これから先、俺にとっての大切な人と何人も出会うだろう。大切……そう、俺が俺であるための少女達と。

 彼女達が居ないと俺は生きる意味が無い。今を生きることが出来ない。

 会ったことも無ければ記憶にすら無いというのに、そう思う度にやけに悪寒がする。俺は黒夜に告白をするべきでは無かった。

 首を吊っても、俺の全ての管は一つも塞がらない。俺が死ぬ為には自分の手で頭を潰す他ない。

 俺は……無駄に超人なのだ。

 こたつ用のケーブルを畳んでいると、玄関扉の鍵が解かれた。

 扉が開かれると、当たり前だが五七が居た。

 地毛が白くて碧眼、でも日本人でも外国人でもないような、神秘的な顔。細すぎるくらいひょろひょろの小柄な女の子。

 ……そうだよ、この子を残して死ぬなんて、駄目じゃないのか?

「……兄さん、何をしているの」

 表情の変化が少ない子だ。それでも、悲しい目をしたことはほとんどなかった。

 俺と居る時は笑うことはなくても、楽しそうで……。

「──死のうと思って」

 五七は靴を脱ぎ捨て、俺の目の前まで来ると正座した。

「兄さんは……わたしのこと好き?」

「好きだ」

「愛している?」

「あい……。……。」

「……わたしは知っている。兄さんがどれ程一途な男なのか。黒夜さんがどれだけ凄いのかも知っているし、兄さんがわたしを黒夜さんと同じだけ愛していることも」

 俺の手を両手で包み、自分の膝元に置く。

「兄さんのこと、愛してる。兄さんがいないと生きていけない。でも、永遠に愛するということではない。永遠に愛してるって言わないと、きっと黒夜さんもわたしも納得しないと思う」

「五七……」

「その愛が永遠なのか、もう一度確かめた方がいい。確かめる前に手遅れで、死んで来世にやり直したいのなら、わたしは止めないから……」

 ……五七は、ゆっくりと手を離し、静かに外へ出る。

 底無し沼に足を入れて、初めて分かる取り返しのつかなさ。焦燥感に駆られて踏み出してしまった。

 俺は……一人の為に、全てを壊す覚悟はない。黒夜にずっと隣にいてくれる為に告白したとして、それで全てを捨てろとなれば、絶対に出来ない。

 心の中の俺がすぐに死ねと言っている。俺はそれを疑問もなく受け入れられる。

 例えこのまま生きたとして……待っているのはバッドエンドだろう。

 俺は頭を抱えた。

 一度引いた引き金は、永遠に止まることはない。

 一度起きたことは何度も起きる。

 ……黒夜、許してくれるか?






「だぁー! 何が今なら死ねるだ!? 壊れた人生はあっちゃいけないだ!? 馬鹿野郎が!」

 今更込み上げてくる、黒夜に告白をしたという事実の重さ。これから先、周囲に向けられる好奇の視線。死にたくなるのも無理はない。

 泣き崩れる黒夜を置いて、突き飛ばした正を置いて、一人で帰って何がしたい!?

 ……責任を果たせ、和々切占七。俺は彼女のことが好きなんだろ?

 家の近くにある石橋の下の河原の砂利に座り込み、たばこを咥えた。

 外からは影で見えない。だから、今までここで吸っても誰にもバレたことがない。

 頭に詰まりに詰まった悩みを煙に乗せて、一つ一つ冷静に考える。

 俺と黒夜の出会いは小学四年生の、転入生として黒夜がクラスに来た時だ。男の子にしては大人の思考をしていた俺から見て、彼女は正の二番目くらいに可愛過ぎた。

 かっこよさよりも、愛らしさや美しさの希少さに価値を見出していた俺はすぐに黒夜に接近した。そこにはまだ欲はない。あくまで人生の中で一番の最良の行動をしたまでだ。機械に近いかもしれない。メリットや先の未来を考慮して選択肢を絞ることを分岐点と言い表すが、最初からはっきりとした一本道が見えている。

 最初は彼女の美貌や頭脳を利用して、面倒なイベント、主にグループ作業や個人の宿題などの、事を上手く運ばせる要因として仲を持とうとした。これは自分よりも劣るクラスメートには余計に時間が掛かる為、中々お目に掛かれない絶好の機会であると言えよう。

 つまり、友達になろうとした。

 黒夜は暗かった。行動も発言も極端に少なく、珍しがって近づく子供達にはやんわりと断って離れていた。いたずら好きな男子が仕掛けてやろうとしても、異質な雰囲気と隠しきれない神々しさから半径一メートルに入った瞬間やめることもあり、また、気弱そうな子供を弄ったり、頭や体に障害を抱えた子供を面白おかしく話の種にしたりするようないじめ好きな子供達の前を黒夜が通り過ぎると、隠していたエッチな漫画やテストの結果がバレまいとするように一斉に黙りだす。そんな、学校生活においての闇そのものなのだ。

 俺が彼女に話しかける瞬間、周りの視線は俺と黒夜に釘付けだった。放課後になった直後、クラスメートが一人として教室を出ておらず、黒夜がまだ席も立っていない時だったように思う。俺は彼女の肩に手を置いて、

「一緒に帰ろーぜ」

 自分でも何故こんなことを言ってしまったのか、深く考えれば考える程に分からないことを言った。

 ……そこまで、一緒に帰るまでの仲にまでなっては、自分の自由が失われるというのに。

「……占七くんには、私は必要ないと思います」

 顔をこちらに向けず、小さく控えめに、優しく、悲しく、怒りも混ぜて、少しだけ拒絶する。

 俺はそれが許せなかった。

「お前には俺が必要だろうが」

「……」

「生きてるのに死人みたいなことしてんじゃねぇよ」

 彼女の求めているものははっきりとしていた。学校の授業を退屈そうに過ごし、ほぼ全ての人のアプローチを蹴る。何故生きているのかさえも分からない程に虚無の時間を過ごしていながら、俺のクラスに転校してきたのか……。

 消去法で俺に用があったとしか考えられない。だから……俺にまで拒絶をすることは、黒夜の死を意味していたのだ。

 それがたまらなく、嬉しかった。

 ──あふすうりざみれがけましとるせいうなん──。

 黒夜からの返答は……現在から振り返ると曖昧にしか思い出せない。

 嬉しがっていたような、怒っていたような、哀しんでいたような、気が抜けていたような……。

 例えどんな反応だったとしても、今の俺の恋人には違いない。責任を持って添い遂げるしかないのだ。

 どのみち、黒夜と恋人にならなければ彼女は死ぬ。最初から分かっていた。俺のためにしか生きる意味がないことは。

 俺は……黒夜のために生きているが、黒夜が居なくなっても正のために生きられる。生きるだけなら別に黒夜は捨てて良い。

 ……。

 立ち上がった。ブレザーの内ポケットに入れていたキャップ付きの小さい空缶に吸い殻を入れ、家に帰ることにした。

 外は雨が痛いくらいに振っている。走って帰る気力は無く、でこぼこの道に出来た水溜りを蹴り飛ばす。

 正は折り畳み傘を常に持ち歩いている。迎えに行く心配はいらない。

 俺はただ、被った雨を払うだけ。死ぬわけじゃない。服は洗えばまた使える。

 雨に濡れることに不都合などない。煙草がしけるくらいか? 残念だったな、悩んでる間に全部吸っちまったぜ。

 日は沈み、黒い夜。通り過ぎる家々からは食べ物の匂いがしている。

 正のご飯は……食べられる状況じゃないよな。

 ボロアパートに着き、錆だらけの階段を登る。ポケットに入れていた鍵を取り出しながら二階に上がる。

 ……家の前に知らない少女が居た。


「……。占七さん……」


 ──水色の長い髪、血のような赤い目。それらを作り物ではなく自然なものだと錯覚させる美しさ。

 俺と同じ学校の制服をぶかぶかに着て、両手で一つの鞄を持っている。

 それはまさしく人形だ。生き物として見るにはあまりに完成された造形は、人間に付属するあらゆる無駄を省かれていた。

 喜怒哀楽を封じ込め、無の表情で俺を見ると、定規で測ったとしたらそのまま四十五度を叩き出すのではないかと思わせるほどの綺麗な会釈をする。

「……誰だ?」

 俺の……勘ならとっくに気付いていた。知らなくとも、理解出来ないはずはない。

 やがて出会うだろう大切な人が、三日繰り越してやって来ただけだ。

 フルオート……。俺の心は終わりなく撃ち抜かれる。

 彼女は言った。


「和々切、初日【はつひ】です」

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フルオート はらわた @kusabunenotsuki

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