第2話 脱兎の報道局長、またの名を

 「あ、いや」

と、その大新聞社の報道局長がみずから応答してくれたので、七郎しちろうは何も言わずにすんだ。

 「ちょっと、店を探してるんだ。昔、このあたりに、こじか食堂って食堂がなかったか、って」

 「あ!」

 少女は高い声で反応する。

 もしかして、この子は何かを知っている?

 でも、確実に、三十何年前には、この子は生まれていない。

 「ちょっと心当たりありますので、うんっと、おばさんかおばあちゃん、あ、祖母に聞いてきます」

とその子はくるんと向こうを向き、身軽にその店の自動ドアから中に入って行く。

 ちょっとちぢれ気味の髪の毛を肩の上で切っている。それが体の動きに合わせて揺れるのが、かわいらしいというのか、印象的だ。

 「ほら」

大塚おおつか万次郎まんじろう報道局長が得意げに言う。

 「聞いてみるもんだろう?」

 いまのは「聞いてみる」というよりは。

 男二人がその店のほうを向いて道ばたに立っているので、少女が親切にも向こうから声をかけてくれたのだが。

 でも、まあ。

 たぶん

「おばさんもおばあちゃんも知らないって」

という返事が来て、おしまいだろう。

 そう思って、その「清華せいか」という店の看板の下、赤いのれんがかかっていところの近くまで移動して、少女が戻ってくるのを待つ。

 少女はすぐにまた出て来た。

 表情からは、どういう答えを持って来たのか、わからない。

 その後ろから、赤いエプロンに赤いキャップという姿の、背の高い女の人も出て来た。

 エプロンの下は白いブラウスにダメージの入ったジーパンだ。最初から破れたジーパンを買ったのではなく、仕事で酷使しているあいだに破れたように見える。

 とても活動的な感じだ。

 髪の毛を向かって右に流して、その向かって右のところで銀色の髪ばさみで留めている。

 眉が細く、目がぱっちりしている。薄い唇には明るいピンクの口紅を塗っていた。

 この人が、少女の言った「おばさん」か「おばあちゃん」のどちらかなのだろうけど。

 目尻のしわを見るとそこそこ歳はとっていそうだが、ぜんぜん老けた感じはない。

 「はい」

と、その女の人が言った。

 細くて、高めで、ちょっとぶっきらぼうな感じ?

 「昔、こじか食堂をやっていました、小鹿こが美寿枝みすえですが」

 そうか。

 実在したんだ。

 報道局長の思い出の食堂。

 しかも、関係者がいまも同じところに住んでいるなんて、この三十何年のこの国の変化を考えれば、奇跡と言っていいのかも知れない。

 「よかったですね」ぐらいは声をかけてあげようか、と、報道局長の顔を見上げると。

 大塚万次郎報道局長は、口を閉じるのも忘れて目を大きく見開いて、固まっていた。

 頬が赤くなって、汗でも垂らしそうな感じだ。

 もしかして、この女の人って、万次郎局長のあこがれの人とか?

 ところが、その万次郎局長の顔をふしぎそうにじっと見ていた、その小鹿美寿枝という女の人が

「あーっ」

と声を立てた。

 少女が、びくっ、として、その美寿枝さんを見上げている。

 美寿枝さんは、遠慮のない大声で言った。

 「脱兎だっとの万次郎、またの名を、食い逃げの万次郎!」

 「いっ!」

 さっそく逃げに入ろうとする報道局長。

 しかし!

 「食い逃げ」と声をかけられて逃げれば罪を認めたことになってしまう。もし他社の記者に見られていたら、「敷島しきしま新聞報道局長、食い逃げ」という記事が、ライバル紙のトップは飾らなくても、社会面のトップぐらいは飾るかも知れない。

 「はい」

と七郎がすばやく腕を組んで、万次郎局長を引き戻す。

 「せっかく探してた店のご主人に出会えたんでしょ?」

邪慳じゃけんに言う。

 逃げられなくなった大塚万次郎報道局長は、

「あ、あのおりは」

と小さい声で首をすくめて言った。

 さっきは、支局員を、堂々としてつけいる隙のない態度で見回して、「訓示」とかをしゃべっていた本社報道局長が……。

 「すいませんでしたっ!」

 大きな声で言って、両手を体の横につけて、きちんと「礼」をする。

 これは。

 写真に撮っておいて、「礼」の模範写真として支局に貼り出しておけばいいのでは?

 「まあ、あんたも大きい新聞社の、本社の偉い人になったってことだから」

 ……しかも、その美寿枝さんにいまのステータスを知られてるし。

 「取材で超多忙かも知れないけど、少しのあいだでも寄って行けば?」

 美寿枝さんは、相変わらず、細くて高くてどこかぶっきらぼうな声を報道局長にかけた。

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