異変
自死を決めた少女が最後に残した言葉たちは、ひとつひとつが私の心に突き刺さっていった。
音声を聴き、書き起こしが終わった翌日、私はYちゃんに返却の申し出をした。
返却はそれまで通りに上野の飲み屋で手渡しをする運びになったのだが、約束である土曜日が近づいた木曜日、突如Yちゃんから電話があった。
レコーダーの返却も兼ねて、Yちゃんのいる学校の美術室まで来てほしいというものだった。
『夜でもいいから来てよ。どうしても見せたいものがあるんだ』
電話越しのYちゃんの声は、極度の興奮で上擦っていた。
「いやいや、部外者の私は入れないでしょ」
『いけるって。今日の夜は私残業だけど、他の先生ほとんど帰っちゃうし、何かしら理由作って旧校舎のグラウンドの裏門開けてもらうから』
「さすがにそこまではできない」とその時点で断固として断っておくべきだったのだが、Yちゃんの異様な熱意に押され、退勤後の夜の二十時頃に聖クレール女子学園の美術室を訪れることになった。白状してしまえば、「どうしても見せたいもの」が何なのかという下世話な好奇心がくすぐられたこともある。
待ち合わせの約束をしたのは学園のグラウンド付近の裏門である。豪奢な作りの門の前で待っていると、正面に見えた白くて真新しい校舎ではなく、その左隣の古びた茶色のもう一つの建物からYちゃんが現われた。
Yちゃんの説明によると、聖クレール女学園の教室は二十年前新築された新校舎に加え、学園設立時の一九五〇年代から現存する旧校舎に分かれており、Yちゃんが出てきたのは旧校舎だという。
リノリウムの床を踏みながら一階エントランスをしばらく直進し、左に曲がった突き当り。問題の美術室はそこにあった。
「これをね、どうしても見てもらいたくて」
私の一歩先で、美術室のドアを開けたYちゃんが振り返る。
「なにこれ」
Yちゃんに続けて足を踏み入れ、目にしたもので言葉を失う。
一言で言ってしまえば、イーゼルに載せられた人物画のキャンバスだ。モデルとなっているのは少女だろう。それもひときわ顔の整った少女だ。
しかし、鼻や口元は描かれていない。その代わり目元だけが、下睫毛や瞳の光彩まで緻密に描きこまれている。執心深いぐらい丁寧に絵の具を混ぜ合わせたのだろう。瞳の色は明るい水色と深い青が混ざったオーロラのような色だった。
「目元だけでも本当に綺麗だよね、この子。お姫様みたい」
呆然としている私の脇で、Yちゃんがぽつりと漏らした一言は場違いのように虚しく美術室に響いた。
「これって」
「そう、松井咲乃が描いた絵」
自殺した女子生徒B、もとい松井咲乃が残した「目だけが異常にリアルに描かれてる絵」。
「彼女の遺族に返されたって、私も聞いてた。でも、今朝準備室に来たらこれがあったの」
朝早く、授業の下準備のため準備室に入ったYちゃんを出迎えるように、置いてあったのだという。最初は何の絵だったのかわからなかったYちゃんは、学校側にすぐさま相談した。校長や事件を知るベテランの教師が駆け付けたことで絵の正体がわかったという。
「どうしてここにあるかはわからないけど、当然ご家族の元に戻そうっていう話になったの。でも、連絡してみたらもう使われてなかった」
以前繋がったはずの松井家の母親と父親の携帯の連絡先はいずれも現在使用されていない番号になっていたという。携帯電話が普及した世の中のためか、松井家の固定電話の番号を知る由もない。念のため、最後の頼みの綱として父親のメールアドレスに絵に関して連絡を入れたが、夕方以降になっても返信はないため明日以降の対応になる。
「ご家族が連絡くれるまで、ここで保管するんだけどね。……でも、何でこの絵はここに戻ってきたんだろうね?」
「わからない」と首を振るしかできなかった。誰かがこっそり運んできたのだろうか? しかし、何のために?いたずらにしては手が込みすぎている。
「……そろそろ命日なんだって」
「誰の?」
「松井咲乃の」
Yちゃんがそのときなぜそんなことを言ったのか。真意は未だにわからない。
返す言葉もわからなかった私は、美術室を見渡した。彼女の死と共に撤去されたのだろう、松井咲乃が青い絵の具で塗りつぶしたという姿見は部屋のどこにもなかった。床にはもう少女の血痕も吐瀉物も一切なく、痛ましい自死の痕は残されていない。しかし、それでも少女の魂は、思念はまだこの空間をさまよっているのか。
物思いにふけっていた私の意識は、がり、がり、と硬いものをひっかくような音で戻された。
カッターを持ったYちゃんの右手が、松井咲乃の遺作の前で動いていた。本格的に絵を描いたことなどないが、キャンバスに絵の具で色づけた箇所はカッターで修正したい部分を削るということだけは知っている。Yちゃんはそれをやっているのだ。
何を言っているかは聞き取れなかったが、Yちゃんは暗い声でぶつぶつとつぶやいていた。
「ねえ、何してるの」
「削ってるの、ここは間違ってるから。この子、右目の目頭の下睫毛はもっと細くて、長かったらしいから直さないと」
キャンバスに顔を向けたYちゃんは私の顔をちらりと見ることもなく、一息で言い切った。
訳が分からず立ち尽くす私をよそに、Yちゃんはカッターから鉛筆に持ち替え、造形の整った少女の下睫毛の下書きを入れ始めた。
なぜ、彼女が松井咲乃の絵に手を加えているのか。
「ちょっと!」
一心不乱にキャンバスと対峙している両肩を掴んで引きはがし、鉛筆とカッターを取りあげた。
「どうしたの」
Yちゃんの顔は私の方を向いていたが、どこか別の世界を見ているように目の焦点が合っていなかったのを鮮明に覚えている。
やがて、乾いた唇からこぼれた虚ろな声は「描かないといけないの」と言っていた。
「声が聞こえたから、完成させなきゃって」
「なにそれ、誰?」
「……わかんない。ごめん、今日はもう帰って」
私の手から鉛筆とカッターを奪い取ると、美術準備室へと引っ込んでしまい、曰くのついたキャンバスと取り残された。「美術室に招いたのはそっちからなのに、それはないんじゃないの?」と言いたいのをぐっと堪え、私は学校を後にした。
その人、いや、人ではなかったかもしれない「それ」を見たのは、旧校舎を出て裏門に一人向かっていたときである。
グラウンドに敷き詰められた人工芝を踏みながら、何気なく前を見た。
旧校舎の正面入り口は裏門から向かって西側だったが、そこから左に曲がった先に美術室があったので、私がいた教室の窓は裏門の隣にある。つまり、裏門を通るときは嫌でも美術室とYちゃんが引っ込んだ準備室を通ることになるのだ。
旧校舎の一番奥にあたる準備室の窓から見える室内、画材などが載った作業机の前にYちゃんは作業をするでもなく立ち尽くしていた。
目の疲れによる見間違いだったかもしれない。だが私には、彼女の背後にもう一つ人影が見えた。
喉元から赤いものを垂らしたそれは、Yちゃんの背後にくっつくように立っていた。
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