レコーダーに収録された音声 四十六分から一時間十五分まで

 ――二学期が始まってから一か月経ったころに、片桐さんの描いた絵が汚されるっていう事件がありました。

 そのとき、真子は委員会の用事でまだ来ていませんでした。美術室後方の絵を乾燥させておく網棚で片桐さんが「なにこれ!」って叫んだのが始まりです。前の週に色付けを途中までして乾かしておいた彼女の作品上半分に黒い絵の具がべっとりついてたんです。それからすぐ、絵筆を干すテーブルに「檜山」と記名された黒い絵の具のチューブが置いてあるのを片桐さんたちは見つけました。

 そのあと真子が入って来たときの、片桐さんの怒りはすさまじいものでした。平手打ちでもするんじゃないかっていう勢いで真子にどんどん向かっていって「ふざけんな!」って叫びました。

「これ、あんたがやったんでしょ」

 汚された片桐さんの絵を見せられても、真子は何が何だかわからないっていう顔で目をぱちぱちさせるだけでした。それが片桐さんの怒りをますます煽ったみたいです。

 片桐さんの罵倒が美術室に響きました。

 調子にのってんじゃねーよ。たかが賞とったぐらいでいい気になんな。人の作品汚して楽しい?

 片桐さん以外の取り巻きは黙ったままでしたが、みんな責めるように真子のことを睨んでいました。

 もちろん、真子は「私じゃない」と否定しました。でも、現場に彼女の絵の具が落ちていたとわかると口をつぐみ、離れたところで事を見守っていた私の方を振り向きました。「どういうこと?」「助けてよ」って言いたそうに。

 すぐに目を伏せて、手元の鉛筆だけを見つめてました。心の中では「知らない、何も知らない」って必死に唱えてました。

 騒ぎを聞きつけて、波野先生がやってきました。話を聞いた先生は、真子に対して怒鳴ったりはしませんでした。基本的に、優しくて穏やかな先生なので。でも、犯人は真子だと先生の中ではすでに決定したみたいで、普段使わないような強い言葉で真子を咎めました。「人が頑張った証を汚すことは、創作者として一番やってはいけないことだよ」と。

 先生の言葉に真子が無表情で「はい」と頷いたのを一生忘れません。映画なんかで悲しい事実を突きつけられた人が泣きわめいたりしますが、あれはフィクションなんですね。本当に悲しいことがあると感情一切がなくなって、泣くこともできなくなる。真子の整った顔には絶望の一色しかありませんでした。

 波野先生が見守る中、真子を片桐さんに謝罪させ、それで終わると思ったのですがそうはいきませんでした。先生は淡々とした口調で真子に「今日は帰宅すること」と「一週間の部活謹慎」を言い渡しました。そこまでしなくても、と思った部員もいたと思います。私もやりすぎなんじゃないか、と思いました。でも、先生は意見を変えませんでした。真子はそれ以上何も言わず、こくりと頷いただけであっさりすぎるぐらいの勢いで帰る支度を始めました。何を言ってもわかってもらえないと全てを諦めていたのかもしれません。

 真子は消え入りそうな声で「さようなら」と波野先生に挨拶をして、美術室を出て行ったのですが、入口を出て行くとき、ふらりとよろめいたのを私は見ました。先生や他の部員は見ていなかったと思います。

 私には、あの子がスクールバッグを肩にかけるのもやっとのように見えて。それで声をかけたんです。「大丈夫?」って。

 廊下に立つ真子とは距離があったので、言葉の全てを聞き取れたわけじゃありません。でも言葉の終わりだけ「もの」と言ったように聞こえました。

 聞き返そうと思った瞬間にはあの子はいなくなっていたので、あの子が本当は何と言っていたのか、実はよくわかりません。


 翌日から真子は学校を休むようになりました。部活だけでなく、学校自体も休むようになったんです。「真子が部活動で騒ぎを起こした」という話は、いつしか美術部員以外の生徒にも伝わっていました。

 檜山さん、優等生だと思ってたのに結構陰湿なとこあるんだね。美人だからお高くとまってるんだよ、と無関係な生徒たちが口を歪めて笑っているのを昼休みの教室で見てしまったこともあります。

 彼女が死んだのは、学校を休み始めてからちょうど一週間過ぎたころです。

 朝のホームルーム、その日も担任が連日同様「檜山さんは体調不良でお休みです」と言うかと思っていました。

「皆さんに残念なお知らせがあります。檜山・エリオット・真子さんが昨日亡くなりました」

 担任はどんな顔でそれを告げていたのか、周りに泣いている同級生はいたか。何一つ覚えていません。そのときの光景、目から入ってきた情報がどうしても思い出せないんです。

 (咳き込む声)……すみません、喋り続けてきたからか喉が渇いてきました。一旦、飲み物を飲みますね。

 (ごくごく、と喉を鳴らす音)ええと、どこまで話したっけ? ……そう、真子が亡くなってからですね。

 何日か経ったあとお葬式がありました。真子のお父さんはキリスト教のプロテスタントを信仰していたので、お葬式も教会で行われて、牧師さんのお話やオルガンの演奏なんかがありました。

 同じクラスの子や先生たちも参加していたんですが、教室で真子の陰口を言っていた子たちが、まるで真子が自分たちの大切な人だったかのように「真子ちゃん、寂しいよ」「どうして死んじゃったのよお」とさめざめと泣いていて吐き気がしました。

 焼香の代わりに献花があって、それを終えたあとに「咲乃ちゃん」と呼ばれました。真子のお母さんの絵里さんでした。授業参観や文化祭で何度か顔を合わせたことがあって、私のことを覚えていてくれたんです。

 真っ赤に泣きはらした顔で「今日は最後のお別れに来てくれてありがとうね」「今まで仲良くしてくれてありがとう」と二重にお礼を言われて、何と答えるべきだったのかわかりませんでした。軽く挨拶だけ済ませて立ち去ろうとして「咲乃ちゃん、これ受け取って」と見覚えのある箱を渡されました。

 真子の絵の具セットでした。ボール紙製のカバーの中に、折りたたみ式のパレット、十二色の絵の具チューブと筆がまとめられたケースが重なって入っていて、うちの美術部員なら誰でも持っているものです。

 真子が亡くなってから、彼女の部屋を整理しているときに見つけたんだそうです。私が受け取ったときは何もついていませんでしたが、絵里さんが見つけたときは「咲乃へ」と書かれた付箋が貼ってあったとか。

 だから形見として、咲乃ちゃんに持っていてほしいの。その方が真子も喜ぶだろうから。

「ありがとうございます。大切にします」と受け取りました。私宛てのものなら、そうするしかないですよね。受け取るのを拒んだら絵里さんはどんな反応をしたんでしょうか?

 真子が使っていた絵の具セットを持ち帰って、一通り中身を見てみようと自分の部屋で開けてみました。

 筆と絵の具が入ったケースの中、ラベルの塗装がはげかけているものもある絵の具のチューブは青とオレンジ、黒が極端に少なくて、初めて見た真子の夜空の絵を思い出しました。もしかしたらあの絵でかなり使ってしまったのかな、とか想像しながら。

 絵筆三本は片桐さんたちに隠されて買いなおさざるを得なかったものでどれも真新しかったのですが、小筆の先にだけ黒い絵の具がこびりついていました。真子は几帳面なはずなのに、これだけ使ったあとも洗わないで放っておいたのかなと不思議に思いつつ、しまいました。私が洗ってしまうのも、真子に悪い気がしたんです。

 そのケースを片付けて、パレットを開けました。

 ぎゃっ、と声をあげてパレットを部屋のカーペットの上に放り投げてしまいました。

 パレット全体にびっしりと、「松井咲乃」と私の名前が黒い絵の具で書いてありました。真子の細くて、どこか神経質そうな筆跡で。何十個もあったんじゃないでしょうか。

 黒い絵の具が固まった小筆はきっと、パレットに私の名前を刻みつけるために使ったものだとようやく気づきました。

 ……これを聞いているみなさんに言わなくちゃいけないことがあります。ずっと黙っていたことで、みなさんをだましていたと言ってもいいです。

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