第5話 心の距離

誠一は深い眠りの中で、美咲の夢の世界に入り込んでいた。


そこは広大な図書館のような空間だった。天井は見えないほど高く、無数の本が宙に浮かんでいる。それらの本は、まるで生き物のように、ゆっくりと動いていた。


誠一は静かに歩みを進める。本の頁を覗き込むと、そこには様々な情景が描かれていた。ある本には、冷たい雨が降り注ぐ教室の風景。別の本には、月明かりだけが照らす寂しげな公園。そして、時折、美しい星空が広がる頁も見つかる。


(これが...美咲の心なんだ)


誠一は、これらの情景が美咲の心情を表していることを直感的に理解した。悲しみ、孤独、そして時折感じる希望。全てが、この不思議な図書館に詰まっているようだった。


誠一が一冊の本に手を伸ばそうとしたとき、突然周囲が揺れ始めた。


目を覚ますと、誠一は自分の部屋のベッドの上にいた。窓の外はまだ暗い。目覚まし時計を見ると、午前5時を指している。


「美咲...」


誠一は小さくつぶやいた。夢の中で見た情景が、まだ鮮明に頭に残っている。美咲の心の中で、いったい何が起きているのだろうか。


朝食を取りながら、誠一は夢の内容を反芻していた。両親や妹が日常的な会話を交わす中、誠一の心は美咲のことでいっぱいだった。


「誠一、どうしたの?元気ないわね」


母親の声に、誠一は我に返った。


「ああ、ううん。大丈夫だよ」


そう答えはしたものの、誠一の心は落ち着かなかった。美咲の抱える悩み、そして自分にできることは何か。そんなことを考えながら、誠一は登校の支度を始めた。


放課後、誠一は急いで鵺瀬堂書店に向かった。美咲に会えるかもしれない。そう思うと、胸が高鳴る。


店に入ると、幻一郎が穏やかな笑顔で迎えてくれた。


「やあ、誠一くん。今日は随分と早いね」


「はい...あの、美咲は来ていませんか?」


幻一郎は首を傾げた。「美咲ちゃんなら、まだ来ていないよ」


そのとき、ドアベルが鳴り、美咲が入ってきた。


「こんにちは」


美咲の声は、いつもより少し元気がないように聞こえた。


「美咲」誠一は思わず声をかけた。


美咲は少し驚いたように誠一を見た。「あ、誠一くん...」


「最近、どう?」


美咲は少し躊躇った様子で答えた。「うん...普通かな」


しかし、その言葉とは裏腹に、美咲の目には深い影が宿っているように見えた。誠一は、もう少し踏み込んでみることにした。


「何か...悩みとかない?」


美咲は一瞬、驚いたような表情を見せた。そして、少し考えた後、小さな声で答えた。


「実は...学校で少し大変で...」


幻一郎が、さりげなく二人の方を向いた。


「二人とも、奥の読書スペースを使ったらどうだい?誰もいないから、ゆっくり話せるよ」


誠一と美咲は顔を見合わせ、小さく頷いた。


読書スペースに移動すると、美咲は少しずつ自分の状況を話し始めた。


「私ね、実は転校が多くて...」美咲は俯きながら話し始めた。「だから、クラスに馴染むのが苦手で...」


誠一は静かに、しかし真剣に聞いた。


「みんな、もう仲良しグループができてるから。私が入る隙間がないの」美咲の声が震えている。「それで、段々人と話すのが怖くなって...」


誠一は、夢で見た寂しげな公園の情景を思い出した。


「美咲、君の気持ち、少しわかった気がする」誠一は慎重に言葉を選んだ。「でも、君には素晴らしい才能があるじゃないか。あの物語を書く力は、誰にも負けないよ」


美咲の目に、小さな光が宿った。「誠一くん...ありがとう」


「そういえば、最近新しい物語は書いてるの?」


美咲は少し照れくさそうに、しかし嬉しそうに自分の物語について話し始めた。星々が語りかける少女の物語。その世界観の豊かさに、誠一は改めて感銘を受けた。


話し終えると、美咲の表情は来店時よりも明るくなっていた。


「美咲、すごくいい物語だと思う。絶対に書き続けるべきだよ」


美咲は小さく、でもしっかりと頷いた。


別れ際、誠一は思い切って提案した。


「ねえ、今度一緒に星を見に行かない?君の物語のインスピレーションになるかもしれないし」


美咲は少し驚いた表情を見せたが、すぐに小さく頷いた。


「うん...行ってみたい」


数日後の夕方、誠一と美咲は本屋の近くの小さな公園に集まった。日が沈み始め、空には薄っすらと星が見え始めていた。


「ここなら、少し星が見えるんだ」誠一は空を指さした。


二人は公園のベンチに腰掛け、徐々に濃くなっていく夜空を見上げた。


「わあ...綺麗」美咲の声には、久しぶりの高揚感が感じられた。


しばらくの間、二人は静かに星空を眺めていた。やがて、誠一が話し始めた。


「ねえ、最近面白いことあった?」


美咲は少し考えてから答えた。「うーん...あ、この前図書館で面白い本を見つけたの」


「へえ、どんな本?」


「宇宙人の生態について書かれた本なんだけど、すごくユーモアがあって...」


美咲は目を輝かせながら、本の内容を説明し始めた。誠一は、美咲がこんなに生き生きと話すのを初めて見た気がした。


話題は宇宙人から、学校での出来事、好きな食べ物、将来の夢へと広がっていった。時間が経つにつれ、美咲の声はどんどん明るくなっていった。


「ねえ、誠一くん」美咲が突然真剣な表情で言った。「こうして一緒に遊んでくれて、ありがとう」


誠一は優しく微笑んだ。「僕こそ、美咲と一緒にいられて楽しいよ」


美咲はほっとしたように肩の力を抜いた。


「でも、いつか必ず、みんなに物語を読んでもらいたいな」美咲は夜空を見上げながら言った。


「きっとそうなるよ」誠一は確信を持って答えた。「美咲の物語は、そのくらい素晴らしいんだから」


二人はそれ以上何も言わず、ただ星空を見上げていた。しかし、その沈黙は心地よいもので、二人の間にある何かが、確実に変化しているのを感じた。


その夜、誠一は再び美咲の夢に入った。図書館の光景は少し変わっていた。まだ暗い場所は多いものの、ところどころに明るい星空の描写が増えていた。


誠一は静かに微笑んだ。小さな変化かもしれないが、確実に美咲の心に光が差し始めているのを感じた。

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