第2話 夢渡りの力

春の陽気が街を包む午後、田中誠一は鵺瀬堂書店に向かう道を歩いていた。桜の花びらが風に舞う中、彼の心には軽い疑問が渦巻いていた。ここ数日、誠一は奇妙な夢を見続けていた。それは単なる夢というより、まるで他人の心の中を覗き込んでいるような、不思議な体験だった。


特に印象に残っているのは、親友の啓太の夢だ。夢の中で啓太は空を飛んでいた。最初は恐怖に震えていたが、誠一が励ますと、次第に自信を持って空を舞うようになった。そして驚いたことに、翌日の啓太は夢で得た自信をそのまま現実でも見せていたのだ。


「あれは本当に偶然だったのかな...」


誠一は呟きながら、鵺瀬堂書店の古い木の扉に手をかけた。チリンと鈴の音が鳴り、懐かしい本の匂いが鼻をくすぐる。


「いらっしゃい、誠一くん」


店主の鵺瀬幻一郎の温かい声が誠一を迎えた。白髪交じりの長い髪を後ろで束ね、古めかしい眼鏡をかけた姿は、まるで物語から抜け出してきたような風貌だ。その穏やかな瞳に見つめられ、誠一は少し緊張が解けるのを感じた。


「どうしたんだい?何か悩み事かな?」


幻一郎の洞察力は鋭かった。誠一は躊躇いながらも、ここ数日の奇妙な体験を話し始めた。啓太の夢のこと、そしてその後の啓太の変化も。


「最近、友達や知り合いの夢を見るんです。でも、普通の夢とは違って...まるで本当にその人の夢の中にいるような感覚なんです」


誠一は言葉を選びながら、慎重に説明を続けた。


「そして、夢の中で起こったことが、何だか現実世界にも影響しているような気がして...」


幻一郎は興味深そうに聞いていた。「ほう、それは面白い。具体的にはどんな夢かな?」


誠一は啓太の夢のことを詳しく説明した。空を飛ぶ夢、啓太の不安、そして夢の中で誠一が啓太を励ましたこと。そして、その後の啓太の変化についても話した。


「啓太が自信を持ち始めたのは、まるで夢での体験が現実に影響したみたいで...」


誠一の言葉が途切れると、店内に静寂が流れた。幻一郎はしばらく黙って誠一を見つめていたが、やがてゆっくりと立ち上がり、奥の本棚へと向かった。


「誠一くん、君の話を聞いていると、ある古い言い伝えを思い出すよ」


幻一郎は埃をかぶった古い本を何冊か手に取り、慎重に選んでいるようだった。その姿を見ながら、誠一は幻一郎がただの本屋の店主ではないような気がしてきた。まるで、古い知恵を受け継ぐ賢者のようだ。


最後に、幻一郎は一冊の本を抜き出した。その表紙は年季が入っており、金色の文字が薄れかけていた。


「これを読んでみなさい。『夜の航海者 - 眠りの境界を越えて』という本だ」


誠一は興味深そうに本を受け取った。手に取ると、不思議な温もりを感じる。ページをめくると、そこには夢の中を歩く人々の絵が描かれていた。まるで動いているかのような錯覚を覚える、不思議な絵だった。


「夜の航海者...これは夢のことを指しているんですか?」


幻一郎はゆっくりと頷いた。


「そうだ。この本は夢の世界を探索する者たちについて書かれている。彼らは他人の夢に入り込み、時には夢の中で人々を導くこともあるという」


誠一は驚きながらも、どこか納得していた。「それって...もしかして僕も...」


「君には特別な才能があるのかもしれない。他人の夢の中に入り込む能力。古来より、そういった能力を持つ人がいたという伝承があるんだ」


幻一郎は穏やかに、しかし真剣な眼差しで誠一を見つめた。


「ただし、これはまだ可能性の話だ。確かなことは、君自身が体験を重ねて初めてわかるだろう」


誠一は軽く頷いた。これで最近の奇妙な体験の説明がつく。同時に、新たな興味も湧いてきた。


「へえ、夢を探索する能力ですか。面白そうですね。でも、この能力で僕に何ができるんでしょうか」


幻一郎は窓の外を見やり、遠い目をした。


「それはこれから君自身が見つけていくものだろう。この能力を上手く使えば、きっと誰かの力になれるはずだ。君が友人の夢に入り、その友人が前向きになれたように」


誠一は深く考え込んだ。この不思議な能力は、単なる偶然ではない。きっと何かの意味があるはずだ。そう思うと、不安と期待が入り混じった複雑な感情が胸に広がった。


「この本をよく読んでみるといい」幻一郎は優しく言った。「そして、もし何か新しいことが起これば、また相談に来てくれ。一緒に考えよう」


誠一は感謝の言葉を述べ、その本を借りることにした。ちょうどその時、ドアベルが鳴り、誠一は振り返った。


そこには美咲の姿があった。


「あ、美咲」


誠一が声をかけると、美咲は少し驚いたように顔を上げた。


「あ、誠一くん...こんにちは」


美咲の声は、前回会った時よりも小さく、力がないように聞こえた。よく見ると、彼女の目の下にはうっすらと隈ができていて、肩も少し落ちている。制服のスカートの裾が少し乱れていて、何かにぶつかったようなシワがあった。


「どうかした?」誠一は思わず尋ねた。


美咲は一瞬、何かを言いかけたような表情を見せたが、すぐに微かな笑みを浮かべた。


「ううん、なんでもない。ちょっと疲れてるだけ」


その言葉とは裏腹に、美咲の瞳には何か深い影が宿っているように見えた。


幻一郎が優しく声をかけた。「美咲ちゃん、いつもの場所、空いているよ」


美咲は小さく頷いた。「ありがとうございます」


誠一は少し首を傾げた。「いつもの場所?」


幻一郎が穏やかに説明した。「美咲ちゃんは、ここの奥の小さな読書スペースをよく利用しているんだ。彼女の秘密の隠れ家みたいなものさ」


誠一は驚いて美咲を見た。「へえ、そうだったんだ」


美咲は少し赤くなりながら言った。「大したことじゃないよ...ただ、静かに本が読める場所が好きで」


誠一は美咲の様子を見て、何か言いたげな表情を感じ取った。「あのさ、よかったら...」


しかし、美咲は軽く首を振った。「ごめん、今日はちょっと...また今度ね」


そう言って美咲は奥へと向かっていった。その後ろ姿を見送りながら、誠一は何とも言えない違和感を覚えた。初めて会った時の美咲は、本のことを熱心に話していたのに、今日はどこか元気がないように見える。


幻一郎が静かに誠一の横に立った。


「美咲ちゃん、今日は元気がないねえ」


「そうですね。何かあったのかな...」


幻一郎は遠い目をしながら言った。「人には、なかなか話せないことってあるものさ。でも、彼女にとってこの場所が安らぎになっているのは確かだよ」


誠一は黙って頷いた。美咲の様子が気がかりだったが、まだ親しくもない自分が今以上に踏み込むべきではないような気がした。


借りた本を大切そうに抱え、誠一は再び家路についた。夕暮れの空を見上げると、まるで夢の世界への入り口が開いているかのように感じられた。そして、その空の向こうに美咲の姿が重なって見えた。


これから自分に何が起こるのか、誠一にはまだわからない。しかし、この不思議な能力が自分や周りの人々の人生を変えていくかもしれない。そして、もしかしたら美咲を助けることができるかもしれない。そんな予感と共に、誠一は新たな冒険への一歩を踏み出したのだった。

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