1-5
居留守を使いたかったけれど、二人の前でそんな真似は出来ない。
情けない姿は見せたくない。
冷たい汗が脇腹を伝う。グレーのティーシャツの脇は、すでにぐっしょりと汗で濡れて黒くなっていた。
すりガラスの引き戸越しに見える影は、思ったよりも小さかった。
小柄な影がチャイムを何度も押しては戸を乱暴に叩いている。
「どちら様ですか……?」
土間に降りて問いかけると、影は引き戸の取っ手に手をかけてガタガタと戸を揺らした。
「あんた、壱山さん? はよここ開けて!」
歳のいった女性の声だった。
声の言いなりに戸を開けると、色眼鏡をかけた骨ばった老婆が険しい顔つきでこちらを睨んでいる。
小花柄のカーディガンを羽織った身なりのいい老婆だった。
「あんたねぇ? 挨拶も無しかいな? こっちは酷い迷惑かかってる言うんに!」
「ごめんなさい……どちら様でしょうか……?」
「どちら様ちゃうわよ! キヤ!」
「キヤさん? どういったご要件で……?」
「はぁ? あんたんとこの木や! 倒れてポンプ壊してしもうたから、こっちは大迷惑してるんよ⁉ お米の水やりもアカンようになったし、お詫びの挨拶にも来んし、おたくどういう神経してはるん?」
言葉を失った。復旧は市の管轄だし、誰が被害を受けたかなんて僕には分からない。それにわざわざ土曜の朝に尋ねてきてまで謝罪を求める老婆の原動力が僕には理解できなかった。
それでも自分の土地に生えた木がポンプ小屋を壊したのは事実で、僕は仕方なく頭を下げて言う。
「その節は大変ご迷惑を……」
「弁償して」
「え?」
僕の謝罪を遮って老婆が言った言葉に愕然とする。
「せやから、お水代と手間賃! 弁償して! 一万円!」
年老いて垂れ下がった皮膚のせいか、異様に目がギラついて見える。骨ばった手の平をこちらに伸ばし、僕を睨みつけて弁償を求める姿はとうてい被害者には見えなかった。
熊蝉の鳴き声が煩い。九時を過ぎたあたりから、太陽は容赦のない熱波を浴びせかけてくる。
老婆のにおいが熱気とともに上がってきた。
線香のような、樟脳のような
早く終わって欲しい……
僕の頭にはもはやそれしか無かった。
「ちょっとお待ちください……」
自室に向かう僕を老婆は「逃さない」とでも言うように目で追っていた。財布を開くと二万円と小銭が幾らか入っている。
僕はその一枚を掴んで玄関に戻ると老婆に渡して言った。
「失礼ですけど、これっきりもう来ないでください」
老婆は何も答えず一万円札を鞄に仕舞うと日傘を開いて行ってしまった。
最悪だ。
名前も知らない婆さんに一万円を持っていかれた。
力なく戸を閉めて鍵をかける。
老婆の言葉に乗せられた剥き出しの敵意が、僕の何かをひどく疲弊させた。
あんな目で睨まれるほどの悪事を働いただろうか?
あんな剣幕で罵倒されるほど被害を与えたのだろうか?
上半身を虚空の中でのたうち回らせながら、僕は何度もため息を吐いた。
それでも一向に気持ちは鎮まらない。
むしろ悪くなる一方だった。
もっと効果的な受け答えがあったのではないか?
強気に出て追い返せばよかったのではないか?
考えれば考えるほど、自分の対応が不味かった気がして死にそうになる。
消えたい。消してしまいたい。
僕はほとんど条件反射のように頭痛薬を飲み込んだ。
何度も繰り返した自問の答えはいつだって同じ袋小路に辿り着く。
もう一度布団に潜り込もうかと思ったその時、リビングの戸の隙間からこちらを覗く愛海と目が合った。
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