1-6

「もう悪い人行っちゃった?」

 不安げに尋ねる愛海を安心させようと僕は力なく笑う。

「もう大丈夫だよ」

 愛海はそれを聞くなり僕のもとに駆け寄ってしがみついた。

「けんちゃんが追い払ってくれたー! けんちゃんカッコいい!」

 愛海の考えは大きな間違いで、僕は追い払ったんじゃなく、金を巻き上げられただけの情けない奴だった。

 それなのに思わず頬が緩んでしまう。

 愛海の言葉を、真実にすげ替えてしまいそうになる。

「うーん、カッコよくはないんだよ。何ていうか」

「ママー! けんちゃんが悪い人追い払ってくれたー!」

 僕がもたもたしているうちに、愛海は夏帆に駆け寄って叫んだ。

「うん。けんちゃんカッコいいねえ」

 夏帆もそんなことを言いながら笑って愛海の頭を撫でている。

 僕はもう、顔の綻びを抑えられなかった。

 二人の言葉に便乗して沈黙することで、僕は真実をすげ替えてしまった。

 まるで浮かれる僕に水を浴びせかけるように、トイレから音がした。

 どうやら賢治が起きているらしい。

 するする……かたん……と襖の閉じる音がした。

「パパお部屋に戻ちゃったねえ」

 少し寂しそうに言う愛海を見て、僕は思いついたことを口にする。

「ちょっとお出かけしよっか? ドライブなんてどうかな?」

 夏帆の方を振り向くと、彼女は目を丸くしていた。

「でもいいの? せっかくのお休みなのに」

「うん。ここにいたら、また誰かが仕事を運んできそうで嫌なんだ。夏帆さえよかったらだけど」

 夏帆は愛海に視線を落とした。期待に瞳を輝かせる愛海を見て夏帆は困ったように笑って言う。

「じゃあ、連れて行ってもらおっか?」

「やったー!」

 手早く準備を済ませてから僕は二人を連れてドライブに出かけた。

 出がけに奥の部屋に向かって声をかけたが、やはり賢治からの返事はなかった。


 右手に海を感じながら社用のポンコツバンを走らせれば、愛海が夏の日差しで輝く水面とかもめに大はしゃぎしている。

「窓から顔を出しちゃダメだよ?」

「はーい!」

 こちらを見もせずに愛海は大きな声で返事をした。

「愛海、海は初めてなの。名前に海がはいってるのに変ね」

 助手席で夏帆がクスクス笑った。

 たったそれだけのことで、今朝の憂鬱な出来事は全て消えてしまう。

 二人の前でだけは自分が特別な人間になったような気がした。

「すっごく綺麗な岬があるんだ。そこで写真を撮ろう」

 せり出した岬の先端に、真っ白な灯台がそびえる断崖で恋人の聖地。

 自分とは無縁だと思っていたけれど、家族連れを装えば訝しがる人はいないだろう。

 そんな僕の奸計も虚しく、三十五度を超える連日の猛暑のせいか正午を少し回った灯台には誰もいなかった。

 白波が立つ絶壁を前に愛海は先程までの勢いを失くして、僕の足にしがみついている。

 抱っこしてやると「そんなに崖に近づいちゃダメ!」と五メートルも手前で大騒ぎして、僕と夏帆を笑わせた。

「でも困ったね。人がいないから写真を頼めないや。二人で撮ってあげるからそこに立って」

「やだー! けんちゃんと一緒に撮るー!」

「うーん。じゃあ、二人を撮った後で、ママに撮ってもらおうか」

 僕が言うと愛海は首を横に振った。

「三人がいい」

 僕が困って苦笑いしていると、夏帆がスッと僕の肩に寄り添ってきた。

「え? え?」

「愛海もおいで? これで手を伸ばしたら三人写るんじゃないかな?」

 愛海を真ん中にして夏帆と肩を寄せ合いながら、僕は震える手でスマホのシャッターを切る。

 出来上がった写真には狼狽する僕と満面の笑みを浮かべる二人が映っていた。

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