第6話 ツーショット。
水曜日。
指定されたのは水道橋だった。
恐らく小石川後楽園に行きたいのだろう。
だが飯田橋の釣り堀は無くなったのか、指定されたのは水道橋だった。
昔は黄色いビルにスケート場があった。
父親に連れてきてもらった事がある。
そんな父は定年退職の後の嘱託も終わり、後は母と夫婦仲睦まじく余生を過ごしてもらいたい。
懐かしい思い出と共にそんなことを思っていると、普段なら先に着いている広島紫が後からやってくる。
不調を疑ったがそうではないらしい。
それにしても随分と着込んでいる。
確かについ先日まで終わらない夏に辟易としていたら、いつの間にかに秋を見落とし、冬が目の前にいる。
広島紫は冷え性なのかも知れない。
その日は普段と違い、先に小石川後楽園に行く。普段よりゆっくり目に歩いた広島紫は、ホッとひと息つくと「お待たせしました。行きましょう」と言うのだが、ベンチで座る時間は普段より短い。
「この前より短いけど、やっぱり調子悪い?」
「平気です。昼食は少し遅めにさせてください。平気ですか?」
なんか質問に質問で返されることが増えてきた気もするが、市原黄汰は特に追求せずに「平気ですよ」と返して後をついていく。
駅に戻るかと思ったのだが、着いたのはドームシティだった。
広島紫の後を着いていくと、通されたのは変わった形のテントで、市原黄汰が「広島さん?これは?」と聞くと「グランピングです。私も初めてですが、このテントでのんびりしましょう」と言ってきた。
広島紫が全て頼んでくれていたので、市原黄汰は特にやることもなくソファに腰掛けて、天蓋の外に目をやり秋の空を見てしまう。
「あまり食べられないと困るので、品数が少ない一番安いコースにしました」と言って出てきた食材をバーベキューで楽しみ、「アルコール、今日はどうですか?」と聞かれて2人で初めて酒を飲んだ。
・・・
ゆったりとした時間が流れる。
「凄い。ありがとう広島さん。こんなに心落ち着いたのは久しぶりてす」
「良かったです。他にもやり損ねてきた事があれば教えてください。都立庭園と併せられるものならやりますね」
ここでも都立庭園愛好家を崩さない広島紫に好印象の市原黄汰は、アルコールで気が大きくなった事もあって「広島さん、もし良ければだけど、横に座らないかい?」と声をかけていた。
驚いた顔の広島紫に、「ああ、嫌ならいいし、変な意味とかはないんだ」と言ったのだが、広島紫は「いえ、行きます」と言うと横に座り、お勧めされたワインを口に運んで、決意のような深呼吸をする。
嫌なら来なくていいのに、市原黄汰は少し呆れてしまうと、広島紫はスマートフォンを出してきて「写真、撮りたいので良いですか?」と聞いてきた。
深呼吸はその為だったのかと、すぐに理解した市原黄汰は、「いいですよ。ただあまり人には見せない方がいいです」と釘を刺す。
それはどうしても本部勤務のトレーナーと店舗勤務の社員では、広島紫が普通の評価を得たのに、優遇されていると誤解して責め立てる奴が出てくるし、本部と繋がりがあるのなら無理難題を頼んでしまおうと言ってくる奴も出てくる。
広島紫にとって、自身の存在は毒でしかない。
「わかってます。市原さんにご迷惑になります」
わかってない。そうじゃない。
キチンともう一度説明すると、広島紫は「安心してください。私はスマートフォンを休憩時しか使いません。実家にも緊急の電話は店舗に入れるように徹底しています。そして人に見られるようなヘマはしません」と言う。
まあ徹底とかは本当にキチンとしそうなのが広島紫だ。
「なので撮らせてください。都立庭園の写真と同じ感覚で寝る前に眺めます」
「はあ、…それならどうぞ」
広島紫は何枚か写真を撮り、出来栄えに頷くと「市原さんは撮らないのですか?」と聞いてくる。
市原黄汰はスマートフォンを広島紫に向けると写真を撮って、「うん。いい出来です」と言った。
顔を赤くして「ツーショットです」と言ってきた広島紫はとても可愛らしい。
市原黄汰は通りかかったスタッフにスマートフォンを渡して撮影を頼むと、広島紫もスマートフォンを渡してツーショット写真を撮る。
それは天蓋やご馳走も写り込む、特別感のある写真だった。
・・・
2人で写真の出来栄えを話していると聞こえてくる小雨の音。
それはとても心地よくて何時間でも聞いていられる。
初めは緊張したネコのような広島紫も、雨音に耳を傾けている間に緊張がほぐれたのか、ソファに寄りかかって市原黄汰の身体に僅かだが寄りかかってくる。
案外可愛いところもある。
そう思ったわけだが広島紫はやはり可愛げがない。
支払いの時になり、「予約の時にカードの登録は済ませています」と言い出した。
自分が多く払うのは構わないが、市原黄汰が多く払うのは気になると言い出し、「100円単位は私が払います」と言うのを、「そんな事を言うものじゃないよ。今日は本当に素敵な時間をもらったのだから受け取って」と言って、諦めさせてなんとか千円多く渡す事に成功した。
お互いに軽く悶々としたものを残しながら、ドームシティを後にして水道橋駅へと向かう。
ごく一般のカップルならこのままどこかに消えていくか、飲み足りないと酒を飲む。
そしてやはり何処かに消えていくのだろう。
だが広島紫にはそれはない。
「今日も凄く楽しかったです」
そう言ってさっさと駅に消えていった。
家の場所は知らないが勤務地的に同じ方向に帰るはずなのに、さっさと改札をくぐりホームへと歩いていく。
…途中まできっと同じ路線なんだけどな。
市原黄汰はそれを言わずに、なんとなく周りを見て広島紫がいない車両を選んでいた。
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