第12話 ヨーゼフ・ハインと不浄の紋様 前編

 満月にはまだ間のある月が、冬の冴え冴えした夜空に浮かんでいる。

 ものみな全てを凍てつかせるかのような白銀の月影の下、ヨーゼフとオイゲンは足早に歩を進めていた。王都の外れ、―――広々した畑や放牧地や森、その合間合間に百姓家の点在する道を、二人は。

 小一時間ほども歩いただろうか。

「ここですよ、ヴォルフェンビュッテル家の地下墓地は。入口は少々変わっていますがね」

 ヨーゼフは淡々と言い、一軒の家の前で足を止めた。母屋の傍らに大きく頑丈な納屋と思しき建物のある、アルトアイゼンの典型的な百姓家だ。

「ヨーゼフ、しかしここは―――」

 オイゲンが何かを言う前に、ヨーゼフはノッカーを鳴らした。その音が鳴り終えるか終えぬうち、家から現れたのは田舎の農夫然とした身なりの初老の男だった。顔立ちは美男と言うほど端正ではないが、浅黒く克己的だ。その体つきは野良仕事を生業とする者に相応しく逞しい。だがその青みがかった灰色の目の眼光は真冬の月影さながらに鋭く、身ごなしは熟練の騎士のそれであることをオイゲンは即座に見て取った。

 ヨーゼフは気安い様子で、

「こんばんは、ヘル・フォーアマン。夜分遅く失礼しますが、少々お尋ねしたいことがあるんですよ」

「……と申されますと?アルトアイゼン宮廷魔術師にして特級位魔術師ヨーゼフ・ハイン殿」

 やはりこの男は只者ではないと、オイゲンは思った。一介の農夫がヨーゼフの名、肩書きを直ぐと口に出来るとは考えられない。―――ヴォルフェンビュッテル家の地下墓地の番人、あるいは管理役か……。

 ヨーゼフを認めたフォーアマンの目に親しげな色合いが浮かんだのも束の間、

「ヴォルフェンビュッテル家の地下墓地の入口についてですよ。ヴォルフェンビュッテル伯爵閣下の許可はいただいています」

 ヨーゼフが真紅のマントの合わせ目から、金鎖を通した魔法水晶を取り出した。ルドルフの銀の書簡筒を込めた魔法水晶だ。フォーアマンは日に焼けた頬を引き締め、

「承知致しました。こちらでございます。ヨーゼフ・ハイン殿、聖マルティヌス騎士団員殿」

 フォーアマンがオイゲンの制服、シグネットリングを見て取ったことに疑いの余地はない。

「私は聖マルティヌス騎士団員オイゲン・ゲオルク・ヴァイスシルトだ。オイゲンで構わない」

「承知致しました、オイゲン殿」

 そんなやり取りを経ながら、フォーアマンはランプを片手に納屋の鍵を開けた。中に二人を招じ入れ、後ろ手に素早く扉を閉める。雑多な農具、木箱が隅に寄せられており、小屋の中は存外がらんとしていた。

 オイゲンが目を瞬いていると、フォーアマンは隅の一際大きな木箱に歩み寄り、古びた灰色の覆い布を取り除けた。黒ずんだ柏の大箱が現れ、その蓋に描かれたヴォルフェンビュッテル家の紋章――盾のフィールドが二分割されており、右側のフィールドには青地に六頭の金の狼が散らされ、左側には銀のボーデュアに囲まれた青と金の斜め縞(ベンディ)が組み込まれている――をオイゲンは認めた。フォーアマンの節くれ立った指が、その蓋を開ける。箱の内部から立ち上ってきたものは、冷ややかな空気と湿った石、土の匂いだ。

「ヴォルフェンビュッテル家地下墓地の入口はこちらにございます。ヨーゼフ・ハイン殿、オイゲン殿」

 フォーアマンは恭しく言い、右の掌で柏の大箱を示した。ヨーゼフとオイゲンが緊張した面持ちで中を覗き込む。

 果たせるかな木箱に底板はなく、地下へと続く石段が二人を厳然と見つめ返していた。石段の終わりは見えず、地下墓地の奥底へと通じる闇の中に溶け込んでしまっている。

「ありがとうございます、ヘル・フォーアマン」

 ヨーゼフもまた丁重な礼を返し、大箱の縁に両手をかけた。すらりとした体躯を敏捷に操り、石段に両足を下ろす。フォーアマンは手にしたランプをヨーゼフに差し出し、

「ランプはご入用ですか、ヨーゼフ・ハイン殿」

「いえ、魔道具を携帯しておりますゆえ。そしてヘル・フォーアマン、貴方を見込んで頼みたいことがあるのです」

「なんでございましょう」

「わたしとオイゲンが地下墓地から戻るまで、入口と小屋を見張っていていただきたいのです。ランプの灯りが外に漏れては、誰かに怪しまれないとも限りません。そのランプには覆い布を」

「承知致しました」

 ヨーゼフの闇色の双眸が、フォーアマンをひたと見据えた。

「そして万が一、夜明けてもわたしとオイゲンが戻らなかったなら、貴方はヴォルフェンビュッテル伯爵閣下と宰相閣下にその旨を伝えてください。お二方は共に、ヴォルフェンビュッテルの邸にいらっしゃいます」

「……承知致しましてございます」

 ヨーゼフが頷いた。

 張り詰めた空気の満ちた小屋の中、ヨーゼフはきびきびした足取りで石段を下りて行った。ヨーゼフの姿が闇の中に隠れたのを見計らい、オイゲンは木箱に手をかけた。フォーアマンに頷きを見せ、石段を下りる。

「お二人の武運長久をお祈り申し上げております。ヨーゼフ・ハイン殿の護衛をお願い申し上げます、オイゲン殿」

「貴方の気持ちに感謝をする、騎士フォーアマン殿。そして騎士オイゲン・ゲオルクは、貴方の期待に背くことを致すまい」

 フォーアマンの灰青色の瞳、オイゲンの切れ長の碧眼が強く交差した。二人は頷き合い、オイゲンは地下墓地へと下って行った。オイゲンの足音が闇と冷気に紛れてしまってから、フォーアマンは床に置いたランプに覆い布をかけた。そして、二人の帰りを待った。感覚を研ぎ澄まし、あらゆる事態を想定し、―――待ち続けていた。


 その長身を俊敏かつ慎重に操り、オイゲンは底知れぬ真闇の石段を下りている。ヨーゼフは――魔法水晶から取り出したと思しき――小ぶりのランプを手に、オイゲンのかなり先を下っている。それでもオイゲンを気にし、時折背後を振り返っては目顔で無事を確認してくれる。その度にランプの灯が微かに揺れる。

 琥珀色の柔らかなその光芒は、たゆたう初夏の木漏れ陽を、あるいは夏の夜を華やかな幻さながらに飛び交う蛍火(ほたるび)を、オイゲンに想起させた。魔道具の一種、グリューヴルムのランプだろうと、オイゲンは見当を付けた。幼い日、誇らしげにランプを見せてくれたヨーゼフの闇色の双眸のいきいきとした輝き、その言葉が蘇る。―――グリューヴルムのランプです。宰相閣下から教えていただいたんですけど、満月の夜、戸外に出しておくんです。すると火屋(ほや)が月影を宿し、どんな場所でも、どんな時でも、辺りを照らし出すんですって。ね、綺麗でしょう。オイゲン。

「………」

 微かに緩みかけた頬をオイゲンは引き締め、

「ヨーゼフ、フォーアマン殿は何者なのだ。貴方と懇意であるのみならず、かなりの仁物(じんぶつ)だとお見受けしたが……」

「妬いているんですか、オイゲン」

 ヨーゼフの声音にはからかいの色が浮かんでいる。オイゲンはムッとした表情になり、

「……私はフォーアマン殿にそのような感情を抱いてはいない」

「なら良いんですが。……いや少し物足りない気もしなくはないですねえ。ともあれ、ヘル・フォーアマンが仁物なのは間違いありません。ヴォルフェンビュッテル家の元護衛騎士長ウルリッヒ・アウグスト・フォーアマンですからね。『ヴォルフェンビュッテルの鋼』の二つ名は、覚えておいた方が良いです。ヴォルフェンビュッテル家の地下墓地兼地下要塞の管理を任されるに相応しい、手練れの武人ですよ」

「……なるほど」

 オイゲンは我知らず頷いていた。それを知ってか知らでかヨーゼフは、

「ですがなかなか気さくな、人情の機微に通じた方でもあるんです。オイゲン、貴方がブロイエホルツに立ってから、夏になるとわたしをこの家に招いて新鮮な肉や野菜の料理を振る舞ってくれたり、ぐるりの森や畑を使って試胆会をしたりしてくれたんです。武術の手ほどきもしてくれました。わたしが特級位魔術師になったことも、我が事のように喜んでくれましたよ」

「………」

「オイゲン。妬いてんですか」

「……少し」

 ヨーゼフの肩が小刻みに震えた。くっくっという笑い声も微かに聞こえる。

「貴方ってやっぱり面白いですねえ、オイゲン。ですがやはり、ヘル・フォーアマンは武人の本分と私事(わたくしごと)の境を弁えている方でしてね。わたしがヴォルフェンビュッテル家地下墓地の入口を教えられたのも、つい最近と言って良いくらいなんです」

「そうなのか」

 オイゲンが答えたのと、ヨーゼフが歩を止めたのはほぼ同時だった。ヨーゼフが地下墓地に下り立ったのだ。

「……ヨーゼフ」

 ヨーゼフがほっそりした人差し指を、唇にそっと当てた。

「ここから先はもっと小声で話してください。わたしの耳はとても良いんです。貴方だって卓越した武人です、悪くはないでしょう。何よりここは、油断のならないものの巣窟になっていますからね。もう少ししたらグリューヴルムのランプも消します。蜘蛛に灯りを気取られてはなりません。石段を下りたならわたしの手を握ってください、オイゲン」

 オイゲンに否やのあろう筈はない。石段を下り切った二人は、手を繋いで歩いた。ややあって、

「ここです」

 ヨーゼフは言い、ランプをオイゲンに渡した。懐から糸玉を取り出し、傍らの堅固な石壁を探る。石が隙間なく積み上げられ組み合わされ、漆喰で固められた壁の一角に、古びてはいるが頑丈な鉄の輪が備え付けられている。

「ここから先は糸玉を繰り出しながら行くことになります。先程も言いましたけれど、ランプの灯は危険です」

 ヨーゼフはてきぱきと言い、麻糸の端を鉄の輪にしっかと括り付けた。

「これで良いです。グリューヴルムのランプを渡してください。魔法水晶に仕舞いますから」

 オイゲンが差し出したランプを、ヨーゼフは懐の水晶柱に込めた。琥珀の燈火が消え、辺りの闇が濃密さを増したようだ。落ち着いた様子で糸を繰り出すヨーゼフに、だがオイゲンは、

「灯りなしで本当に大丈夫なのか、ヨーゼフ。ヴォルフェンビュッテル伯爵閣下も仰有っておられた。―――墓地の中心部に辿り着くためには、曲がってはならない角が数百あると」

 闇の中、オイゲンの金色の細い眉が不安げに顰められていることを、ヨーゼフは察した。美男の魔術師は少しく苛立たしげに、また少しく楽しげに、

「オイゲン。ヴォルフェンビュッテル邸から地下墓地の入口に来るまで、わたしたちは幾度か休憩を取りましたね。その時わたしが何を見、指で虚空に何を書き付けていたか、貴方は覚えているでしょう」

「………」

 オイゲンは頷かざるを得なかった。ヨーゼフが地下墓地の地図を睨み付けるように見、その道筋を諳(そら)んじながら虚空に書き付けていたことは、間近にいたオイゲンがよく知っている。そしてこの毒舌家で捻くれ者の美男の魔術師の頭が恐ろしくよく切れることも、無論。

 ヨーゼフはオイゲンの肩を軽く叩き、

「というわけなんです。地下墓地の地図、その構造や体系を、道中必死で頭にぶち込んで来たんですよ。それに、墓地に充満する蜘蛛の魔力がこれほど強力なんです。その魔力の源泉を辿って行ったなら、魔法陣の在り処に必ず行き着きますよ。糸はむしろ、地上への帰還を速やかにするために使うことになるでしょうね」

「………」

 ヨーゼフに言われ、オイゲンはぐるりの分厚い闇を見回した。魔術師ではないオイゲンに、蜘蛛の魔力を明確に感じ取ることは出来ない。しかし騎士として培った感覚を研ぎ澄ますにつれ、オイゲンは地下墓地の空気の異様さに気付いていった。―――何かがある。地上にいた時は感じなかったが、墓地の厳かな静謐、秩序を穢そうとしている何かがある。石造りの真闇の墓所を、赤茶けた不毛の地にしようとしている何かが……。

 オイゲンは胸元に重苦しい不快感を感じた。ヨーゼフの白い手が、オイゲンの胸元にそっと触れる。

「貴方には蜘蛛が分かったんですね、オイゲン。わたしは貴方を不安にさせてしまいました。魔法陣に近付いたなら蜘蛛の禍々しさをより強く感じると思います。しかしわたしが貴方といます」

「………」

 オイゲンは頷いた。切れ長の碧眼が己を真っ直ぐに見つめていることに気付いたのだろう、ヨーゼフは――照れ隠しのため――些かぶっきらぼうに、

「水たまりに気を付けてください、オイゲン。辺りの物音から察するに、天井から水滴の滴っている箇所が存外あるようですから」

「分かった」

 オイゲンは言い、ヨーゼフの手を取ると漆黒の地下墓地を歩き出した。最愛の人と二人きりであるとはいえ、オイゲンにとってこの道中は必ずしも愉快なものではなかった。

 道の傍らには石造りの台座が随所に配されており、そこには湿気と歳月に傷め付けられ、中身を露呈した木棺が安置されている。真っ黒に崩れ、剥離した内張り。ぼろぼろに崩れた衣服、変色した装飾品の名残りをまとう骸。虚ろな眼窩、剥き出しの歯が目立つ気味の悪いその頭部からなるべく目を逸らすようにして、オイゲンは歩いた。ヨーゼフは小さく笑い、

「貴方ってば子どもの頃から怖がりでしたよねえ」

「……貴方は平気なのか」

 オイゲンの不機嫌な表情にはなかなか迫力がある。だがヨーゼフはけろりとしたもので、

「え、怖いですよ。しかし貴方がいるから軽口がたたけるくらいには平気ですね」

「……私も貴方がいればそこそこ平気だ」

「貴方やっぱり面白いですねえ」

 オイゲンの憤ったような、しかし満更でもないような様を楽しむ一方で、ヨーゼフは別のことを考えていた。―――この薄気味悪い闇の中を、アドルフ・ベルントルトは一人来たんですね。そして危険で忌まわしい邪術を行った。彼をそこまで駆り立てた感情――野心、冷酷、権力欲か、それ以外の何かか――は、よほど強いものと見えます……。


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