第10話 ヨーゼフ・ハインと蜘蛛糸の罠 中編
その翌日のことだ。
ヨーゼフは朝早くに起き、テーブルに向かって何やら手紙をしたためていた。その二通の手紙を銀の書簡筒に入れて呪文を詠唱すると、銀の筒は純白の鳩に変じた。
「行きなさい」
ヨーゼフが居間の窓を開けると、二羽の鳩は未だ薄暗い冬空へと飛び立って行った。それからヨーゼフとオイゲンはラインハルトを守り、夕暮れを待った。
冬の青い黄昏に紛れるように、ヨーゼフとオイゲンは王都の郊外にあるヴォルフェンビュッテル邸への道を急いでいた。オイゲンの逞しい腕はしっかと、マントに包(くる)まれたラインハルトを抱きかかえている。
邸内に入った三人は、謹厳実直を絵に描いたような老僕の出迎えを受けた。老僕が三人を通したのは古風な細工の格子窓の嵌まった奥行きのある居間で、大きな暖炉の両側には甲冑がそれぞれ一領ずつ、番卒さながらに立てかけられていた。部屋の突き当たりに半ば開かれたドアがあり、広々した次の間からは、ヴォルフェンビュッテル家代々の当主たちの肖像画がこちらを見つめている。
名高き武門の家柄に相応しい、質実でありながら威厳と古風な品格に満ちた設えだと、ヨーゼフは思っている。メルヒオールに連れられ、少年の日に何度か訪れたことがあるが、ヨーゼフはヴォルフェンビュッテルの邸が嫌いではない。
長い樫のテーブルには主のルドルフが座し、その隣にはメルヒオールがいた。ヨーゼフが送った銀の書簡筒の中身を見たのだろう。―――火急の用が出来(しゅったい)致しました。まことに恐縮ではございますが、夕刻に宮廷顧問官閣下のお邸にてお待ちくださいますよう。
ヨーゼフはラインハルトをゾフィー・マティルデのいる別棟にやり、ヴェルナー・ゼルテらをはじめとする特級位魔術師たちを護衛につけさせた。それからメルヒオールとルドルフに、アドルフ・ベルントルトとエルネスティーネ・マリーアの関係を告げた。
「そうか」
「なるほど…ね」
メルヒオールとルドルフは、さのみ驚きはしなかった。
「昨日の中庭でのエルネスティーネ・マリーア殿下のご様子に、それで得心がいった」
メルヒオールは淡々と言い、
「エルネスティーネ・マリーア殿下は、前国王陛下を本心から悼んではおられない。そしてゾフィー・マティルデ殿下とラインハルト王太子殿下の無事も喜んではおられなかった。エルネスティーネ・マリーア殿下の傍らには、アドルフ・ベルントルト陛下がいらした。何よりエルネスティーネ・マリーア殿下の薄青の目の、狂気と残忍。私には君とオイゲンの話を疑う材料はない。私たちはアドルフ・ベルントルト陛下より、エルネスティーネ・マリーア殿下を警戒すべきであるとさえ思う。陛下には冷酷を隠し、抑制する理性――あるいは奸智か知れない――があるが、エルネスティーネ・マリーア殿下にはそれがない。ひとたび野心や官能への欲求、激情に駆られると何をしでかすか分からない。エルネスティーネ・マリーア殿下はこのような女性だと、私には見える。如何かな、宮廷顧問官殿」
「私にも異存はありません、宰相殿」
「……お二方の見解に、わたしも異存はないんですがね。しかし貴方の率直過ぎる物言いは、今回ばかりは何とかなりませんかね。ここにラインハルト殿下とゾフィー・マティルデ殿下がいらっしゃらないのがせめてもの幸いですよ、宰相閣下」
ヨーゼフは苛立ったように言い、すらりと長い指を捻り合わせた。ヨーゼフの苛立ち、怒りの矛先は、エルネスティーネ・マリーアだけではなく、絶望と狂気に駆られて己を虐げた母カテリーナにも向けられているのだろうと、オイゲンは思った。そして、やるせないと。ヨーゼフを癒やしたいと。
メルヒオールは――気を落ち着かせようとするかのように――深く息をし、ヨーゼフを見つめ、
「それはともかく、ヨーゼフ・ハイン。ヴォルフェンビュッテル伯爵殿の推測を覚えているだろう。アルトアイゼン国王と王都の絶対性を脅かす存在の許に蜘蛛が現れるならば、恐らくは国王陛下に近しい何者かが蜘蛛をこの世に呼び出している、という」
「無論覚えていますし、呼び出しているのが『国王陛下に近しい何者か』では済まないのではないかと考えていますよ。国王陛下とエルネスティーネ・マリーア殿下の道ならぬ関係を知った今は。国王陛下が近隣のブロイエホルツ、ファールシュ、ユーバーヘーブリヒといった国々に向ける野心はわたしでさえ知っていますし、エルネスティーネ・マリーア殿下の人となりは宰相閣下が仰有った通りです。その二人が結び付いたならば、答えは一つでしょう」
闇色の双眸がメルヒオールを見返した。蜘蛛を地獄から召喚しているのは、兄嫁――常軌を逸した残忍な性質の――と手を組んだ国王――こちらは冷酷な野心家の――その人ではないかと、ヨーゼフは言っているのだ。メルヒオールは頷き、
「君の考えは正しい、ヨーゼフ・ハイン。ヴォルフェンビュッテル伯爵殿の推測、昨日の陛下の様子を思い、私は蜘蛛の魔力の軌跡を辿ってみたのだ。これを見給え」
メルヒオールは淡々と言い、テーブルの上に地図を広げた。長衣の懐から、先端部の金細工に金鎖が通された水晶を取り出す。魔術師が魔道具や具現化(ぐげんか)した魔力を込めておく特殊な水晶―――魔法水晶だ。
「ヴィルヴェルヴィントで蜘蛛を射た際、銀の矢が絡め取った蜘蛛の魔力を込めておいたのだがね。この水晶を、アルトアイゼンを記したアムゼルの地図にかざしてみたのだ」
「アムゼルの地図……?」
聞き慣れない言葉に、オイゲンが金色の細い眉をひそめた。ヨーゼフはオイゲンを見やり、
「聖マルティヌス騎士団長を目指すなら覚えておいてください、オイゲン。アムゼルの地図というのは、地域の地理的特徴だけではなく、精霊や魔物たちの魔力の分布や強弱も記された地図のことですよ。魔法水晶と同じ、魔道具の一種ですね。ただし、より高度な」
「ヨーゼフ・ハインの言う通りだ、オイゲン・ゲオルク。そしてこのアムゼルの地図は私が作ったものだ。魔力の分布にも信頼性があると思ってくれて構わない。今からもう一度、この地図に魔法水晶をかざそう」
メルヒオールのバリトンが、広々した居間に響いた。ヨーゼフとオイゲン、ルドルフは、アムゼルの地図とその上で微かに揺れる金鎖、魔法水晶をひたと見据えている。
水晶が真紅の光芒を放つ。と思いきや、アムゼルの地図を赤い光が駆け抜けた。赤光は地図に一筋の道を描いた。ヨーゼフが白い眉間に皺を寄せる。赤い道が繋ぐのは、アルトアイゼン城とヴォルフェンビュッテル家の地下墓地だったのだ。地下墓地に浮かび上がる紅の紋様をヨーゼフは示し、
「蜘蛛の出どころはヴォルフェンビュッテル家の地下墓地……ですか。なるほど、蜘蛛を召喚するための魔法陣がここに張られていますね」
「するとヨーゼフ。この赤い紋様が魔法陣を示すのか」
「ええ、古の邪術の紋様ですよ。これは覚える必要はありませんし、覚えてはならないものです。オイゲン。しかし何故ヴォルフェンビュッテル家の地下墓地に……」
アムゼルの地図を睨み付けるかのようなヨーゼフに、声をかけたのはルドルフだった。
「それについては僕から話そう、ヨーゼフ。君やオイゲンも知っての通り、ヴォルフェンビュッテル家は累代の武門の家柄だ。それゆえ地下墓地は死者を安置するためだけではなく、戦いの折に地下要塞として使われることも想定して造られている。地下墓地は広く、敵の侵入に備えて複雑に入り組んでいる。とはいえ構造には一定の法則があるから、慣れれば目的地に辿り着くこともさほど困難ではなくなる。しかし初めて地下墓地に入る者にとっては、地図がなければ出入りは極めて困難だ。なにせ墓地の中心部に辿り着くために、曲がってはならない曲がり角が数百はあるんだからね。……しかしいかに剛毅なヴォルフェンビュッテル家の当主とはいえ、主君に要塞の地図を差し出さないわけにはゆかないからね。僕の言いたいことが分かるかい?ヨーゼフ、オイゲン」
暗い目をしたルドルフに、オイゲンが頷いた。端正な面長の顔に、こちらも翳りがある。
「……ヴォルフェンビュッテル家の主君はアルトアイゼン王家だ。その地図を、アドルフ・ベルントルト陛下は利用したのか……」
「その通りだ、オイゲン・ゲオルク。そしてアドルフ・ベルントルト陛下が蜘蛛を召喚していることを裏付ける証は、他にもあるのだ」
オイゲンの切れ長の碧眼、ヨーゼフの闇色の双眸がメルヒオールを鋭く見やった。メルヒオールは相変わらず淡々とした様子で、
「中庭でアドルフ・ベルントルト陛下に会った際、陛下の総身にまとわりつく蜘蛛の魔力の残滓を感じたのだ。しかしほんの一瞬のことであったから、ヨーゼフ・ハイン、君が気付かずにいたのを恥じ入ることはない」
「………」
ヨーゼフはつまらなさそうに頬杖を付き、暖炉脇の甲冑を眺めている。この取り澄ました美男の魔術師は、妙なところで子どもっぽさを発揮するようだ。それでもオイゲンがたしなめると、不承不承といった様子でメルヒオールに目を向けた。しかしメルヒオールはあくまでも淡々としていて、
「魔力の稀薄さから推すに、陛下が蜘蛛と接触してから数ヶ月は経過しているようだった。アドルフ・ベルントルト陛下も魔力の痕跡を隠そうとしていた。良くも悪くも、陛下は熟練の魔術師だ。しかしその陛下が隠し得ないのは、接触した蜘蛛が並々ならぬ大群であったから、あるいは接触が近距離かつ長時間であったからだろう。のみならず陛下は、蜘蛛について知識の乏しさを私が示すと明らかに安堵していた。そして、―――論より証拠だ」
メルヒオールは言い、長衣の懐からもう一つの魔法水晶を取り出した。蜘蛛の魔力が込められた水晶との混同を避けるためだろう、こちらに通されているのは銀鎖だ。
「この魔法水晶に込めてあるのは、アドルフ・ベルントルト陛下の魔力だ。これをアムゼルの地図にかざそう」
「………」
ヨーゼフの秀麗な面貌には、嫌悪と怒りが浮かんでいる。魔法水晶が放った赤光は、アルトアイゼン城からヴォルフェンビュッテル家の地下墓地までの道筋を示していたのだ。アドルフ・ベルントルトが地下墓地に出入りし、蜘蛛を召喚する魔法陣を張ったことに、最早疑いの余地はない。
「貴方の示す一連の証拠が完璧なのは分かりましたよ、宰相閣下。……しかしわたしには、一つだけ気になることがあるんです。陛下の魔力を何処で水晶に込めて来たんです?」
「………」
オイゲンとルドルフがメルヒオールをじっと見つめた。だがメルヒオールは悪びれた風もなく、
「それならば、今朝の拝謁の折に込めてきた。陛下は私の意図を知る由もないからな。事は至極簡単に済んだよ」
「……貴方ってば本当に、油断も隙もない方ですねえ」
ヨーゼフは呆れ、律儀で生真面目なオイゲンとルドルフは苦々しいような困惑したような表情を浮かべている。もっとも当のメルヒオールはけろりとした様子で、窓の格子を数えているようだ。ヨーゼフは吐息をつき、
「……なんだか心配になってきたので、こちらもうかがいますがね。アルトアイゼン宮廷には、ラインハルト王太子殿下とゾフィー・マティルデ殿下のご不在をどう取り繕ってあるんです?」
「両殿下は類例の少ない病に罹患しておられる、特級位魔術師以外の者が不用意に接触したなら感染すると近侍の者たちに言ったので、恐れをなして両殿下の部屋に近付く者はいない。念には念を入れて、両殿下の替え玉の人形を置いた寝室を、特級位魔術師の中でも特に信用が置ける者――ヘルベルト・ニーマン、ヘルガ・カトリーン・ユンゲたち――に固めさせているが。殊にヘルガ嬢は君に献身の何たるかを見せてくれることだろう、ヨーゼフ・ハイン。彼女の誕生日に薔薇の花束とシルクのハンカチーフを贈ったのは君ではないのかね?私はヘルガ嬢のあれ程嬉しそうな表情を初めて見たよ」
「……ヨーゼフ」
オイゲンは嫉妬だか殺意だかのこもった眼差しでヨーゼフを見ているし、自業自得とはいえある意味やや気の毒なヨーゼフは頭を抱えている。澄んだ青い目に豊かな亜麻色の髪、清楚で知的な雰囲気のヘルガ嬢と何もなかったことは事実だが、彼女を歌劇と食事に誘おうと思っていたことも事実だからだ。
「……貴方とだけは、出来ることなら喧嘩をしたくないですね」
「ああ、皆がそう言う。それよりヨーゼフ・ハイン。エルネスティーネ・マリーア殿下は、両殿下の病を本心からは心配しておられなかった」
「………」
ヨーゼフの闇色の双眸には、静かだがそれゆえ激しい怒りが凝っている。ルドルフが立ち上がり、ヨーゼフに歩み寄ったのはその時だ。
「ヨーゼフ」
「どうなさいました、宮廷顧問官閣下」
「君は怒っているのだろう。君の大切な存在がいる王都を異形に蹂躙され、宰相殿や仲間の宮廷魔術師たちを侮蔑され、両殿下を傷付けられ。のみならずアルトアイゼンを隣国ブロイエホルツやファールシュとの戦いに巻き込まれようとして」
「仰有る通りでございます、宮廷顧問官閣下」
闇色の瞳がルドルフを見つめた。ルドルフは頷き、
「僕も腹を立てているんだ、ヨーゼフ。王都には僕の大切な存在が沢山ある。陛下は蜘蛛の召喚と隣国への侵略によって、その幸福を脅かそうとしている。そして――君は些細なことだと思うか知れないが――陛下はヴォルフェンビュッテル一族の墓所に地獄の魔物を引き入れた。陛下は僕の一族の安らかな眠りを妨げ、誇りを傷付けた。……陛下が僕を愚直さと内気ゆえに軽んじていることは分かっている。だが僕は己がヴォルフェンビュッテル家当主として、アルトアイゼン王国の繁栄と安寧に貢献することが出来たならそれで良かった。しかし今の陛下がしていることは、僕の本意とは真逆なんだ。僕はもう陛下を、―――アドルフ・ベルントルトを許すことが出来ない」
「承知致しましてございます、アルトアイゼン王国宮廷顧問官ヴォルフェンビュッテル伯爵閣下」
ヨーゼフもまた席を立ち、ルドルフに恭しく言葉を返した。ルドルフのサファイアブルーの双眸がヨーゼフを真っ直ぐに見つめ、オイゲンを見つめた。それから次の間に向かったが、直ぐに戻って来た。手には古風な銀の書簡筒が握られている。ルドルフが差し出した銀色の筒を、ヨーゼフはしっかと受け取った。
「ヨーゼフ、オイゲン。これはヴォルフェンビュッテル家地下墓地の地図だ。僕はこれを君たちに託す。蜘蛛の災いをアルトアイゼンから除くという君たちに、僕は成し得る限りの力を貸そう」
「ヴォルフェンビュッテル伯爵殿が力を貸してくださるのだ、ヨーゼフ・ハイン、オイゲン。君たちはヴォルフェンビュッテル家地下墓地に行き、蜘蛛のこれ以上の跋扈を防がねばなるまい。しかし魔法陣を消滅させてはならない。それは多大な魔力と危険を伴う行為であるし、何より術者であるアドルフ・ベルントルトがこちらの動きを察してしまう。するとどうなるか?アドルフ・ベルントルトは国王の権限を駆使して我々の行動を封じ、別の場所に新たな魔法陣を張るだけだ」
メルヒオールのバリトンは、いつになく重厚な響きを帯びている。オイゲンは頷いたものの、少しく訝しげな様子で、
「私は騎士だ。魔法陣に関する知識はない。貴方たち魔術師はどのような手を講じるのだ。そして私に出来ることは何なのだ、ヨーゼフ」
ヨーゼフは落ち着いた風で、
「魔術師たちはこうした時、魔法陣を消さずにその一部を書き換えるんですよ。自分の目的に即した陣形にね。……己の術法が消されたならば、アドルフ・ベルントルトはそれと気付くでしょう。しかし術法に微細な変化が起きたことまでは気付きますまい。魔法陣の書き換えを行う術者――この場合はわたしですが――の魔力がアドルフ・ベルントルトの魔力を上回っていれば、ですが。オイゲン、貴方はヴォルフェンビュッテル家の地下墓地に赴くわたしに同行し、護衛を務めてください。騎士の貴方に出来ることはそれです」
「貴方の話は理解した。しかしヨーゼフ、貴方の言うのは危険な策ではないのか」
オイゲンの眉間に深い皺が寄る。闇色の双眸が静かにオイゲンを見つめた。
「どんな策にも危険はつきものですよ。それにオイゲン、覚えておいてください。宰相閣下はわたしの魔力を以てして成功の見込みが低い命令を下されたりしません。そしてわたしは己の力では能わざる命令を承諾したりしません、―――たとえ宰相閣下の命令であっても。己が魔術の力量を見定めることは、魔術師の責務です」
「貴方の話、気持ちは理解出来た。ヨーゼフ。ならばヴォルフェンビュッテル家の地下墓地へ行こう」
オイゲンは言い、席を立った。ケープマントを翻し、ソードベルトに吊るしたレイピアの鞘を左手で握り締めている。ヨーゼフもまた、真紅のマントを素早く翻した。蔓薔薇の刺繍がなされた青いウェストコートの懐から、金鎖が通された魔法水晶を取り出す。清らな白光と共に、銀の書簡筒を水晶柱に込める。手慣れた素早い仕草だ。ルドルフはそんな二人を見やり、
「ヨーゼフ、オイゲン。君たちの気持ちは有り難いが、この冬の真闇の中を地下墓地に向かうのか?準備は大丈夫なのか?」
白銀の百合さながらのヨーゼフの面差しが、ルドルフを振り返った。
「お気遣い有り難く存じます、ヴォルフェンビュッテル伯爵閣下。照明器具や探索用ロープ、魔道具の類いは携帯しております。閣下から賜わった地図もこの通り、魔法水晶に込めてございます。そしてアドルフ・ベルントルトの隣国への野心、己の権力基盤を脅かしかねないものへの徹底した冷酷を考えたならば、ことは一刻を争うかと存じます。……これはあくまでもわたしの推測です。しかし蜘蛛で国内の不穏分子を始末し、その魔力と結果に満足がいったなら、アドルフ・ベルントルトは蜘蛛をブロイエホルツやファールシュに放つ気ではないかと思われるのです。侵略の尖兵として、―――地獄の獄卒を」
ルドルフの彫りの深い精悍な顔立ちに、静かだが激しい怒りが浮かんだ。サファイアブルーの双眸には青炎(せいえん)が凝っているかのように見える。
「……分かった。ヨーゼフ、オイゲン、僕はもう君たちを止めることをしない。アドルフ・ベルントルトの思惑に関する君の推測は正しいと思う、ヨーゼフ。そして僕はその思惑にとても怒りを感じている。アドルフ・ベルントルトは二重の冒涜行為をしようとしている、―――生きとし生けるものと、死者の魂に対して」
「ヴォルフェンビュッテル伯爵殿の言われる通りだ。行き給え、オイゲン。ヨーゼフ・ハイン」
ヨーゼフとオイゲンは頷きを返し、恭しい辞儀をした。ルドルフと、メルヒオールに向かって。
二人は居間を出て行き、程なくしてヴォルフェンビュッテル邸の玄関扉が重々しい音をたてて閉ざされた。
「………」
ややあって、ルドルフは椅子にその長身を沈めた。サファイアブルーの瞳には、僅かの間に疲れが滲んでいる。
「ああは言ったものの。……宰相殿、私を武門の家柄の当主に似合わぬ臆病者だと笑ってくれて構わない。私は無論、二人を信じている。しかし私は不安だ。事のあまりの大きさに、不安を拭い切れないんだ」
メルヒオールは席を立ち、ルドルフの肩を軽く叩いた。
「案ずることはありますまい、ヴォルフェンビュッテル伯爵殿。ヨーゼフ・ハインとオイゲン、あの二人は必ずや力を合わせ、私の命令をやり遂げましょう。そしてヨーゼフの魔力がアドルフ・ベルントルトのそれを下回る筈がありません。ヨーゼフの魔力、意志力、知性は卓越したものですし、そのヨーゼフを鍛えたのは私なのですからな」
「貴方は時として、相当なる親馬鹿の面を呈される。宰相殿」
ルドルフは白い歯を見せ、安堵の笑みを浮かべた。メルヒオールも微笑んだが、それは寂寥と屈託の入り交じったほろ苦い笑みであった。
「……言ってくださるな、ヴォルフェンビュッテル伯爵殿。私にはそれを言われる資格がないのですから」
ルドルフがメルヒオールの肩を叩き返した。
「宰相殿。つい今しがた私に、ヨーゼフの意志力と知性を保証なされたのは貴方だ。貴方がヨーゼフを信じずにいてどうなさるのか。ヨーゼフが貴方を愛し、慕っていることは私にも分かる。ヨーゼフはきっと、貴方の気持ちを解し、受け入れるだろう。貴方の弱さも、―――愛情も」
「であるならば嬉しいのですが。しかし私は―――」
「貴方は時として、的外れの親心も呈される。宰相殿」
ルドルフは穏やかに笑い、
「まあお座りください。今は二人を信じて待つ他はありますまい。何か軽い召し上がり物はいかがかな、メルヒオール・ヨーゼフ・フォン・シュヴァルツレーヴェ伯爵殿」
「……お言葉に甘えさせていただきましょう」
暖炉の炎がはぜた。
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