第9話 ヨーゼフ・ハインと蜘蛛糸の罠 前編

 毛皮の敷物の傍らには、空のジュース瓶が二本置かれている。マントルピースの火が照り映えた硝子の小瓶は、暖かな赤と橙の光を宿しているかのようだ。オイゲンは黙し、居心地の良い居間での夜更かしを楽しんでいる。隣に座るヨーゼフが、彼には何よりも嬉しい。

 喉を潤した後の声で、ヨーゼフが口を開いたのはその時だ。

「……しかしどうもね、わたしには腑に落ちないことがあるんです」

「貴方は何が腑に落ちないのだ」

 訝しげな表情になったオイゲンを、ヨーゼフは静かに見つめ返し、

「ああ、誤解をしないでください。わたしは貴方を非難しようっていうんじゃないんですよ、オイゲン。ただ貴方の話を聞き、貴方の小さな頃からの性格を考えると、どうも分からないんですよ。宰相閣下がわたしに命じられたのは、貴方の言動の改善でした。貴方の問題点は上役への傲岸不遜、朋輩への無愛想、国王陛下への不敬だと、宰相閣下は言っておられたんです。今日貴方と話をして、わたしには傲岸不遜、無愛想が、貴方の混乱に拠るものだと分かりました。しかし国王陛下への不敬というのは……」

 オイゲンは黙し、マントルピースの火を見つめている。ヨーゼフの闇色の双眸にも、炎が踊っている。

「貴方は根が素直過ぎるくらい素直ですし、故なくして人を軽蔑するような性格じゃない筈です。ましてや今の貴方は、アルトアイゼン国王に忠誠を尽くす聖マルティヌス騎士団の団員です。そんな貴方が国王陛下に敬意を払わないなんて……。何かわけがあるように思えてならないんですよ」

「貴方は賢い。昔も、―――そして今も。貴方には私のことが半ば以上見えている。だから私は話そうと思う。私が陛下に敬意を抱けなくなった理由を」

 オイゲンの澄明な碧眼がヨーゼフを見つめた。ヨーゼフは頷き、

「ありがとうございます、オイゲン。ですが話している途中で痛んだなら言ってください。貴方が落ち着くまで、わたしは待っていますから」

「……貴方は優しい、ヨーゼフ」

 オイゲンは呟いた。瞳の奥で、炎が揺れている。


「……あれは私が聖マルティヌス騎士団に入団して程ない頃、三ヶ月前の仮面舞踏会の夜のことだ」

「ええ」

「私は騎士団員として、舞踏会会場の護衛の任に当たっていた。その頃の私はまだ、国王陛下に忠誠を尽くそうと思っていた。会場の護衛を命じられたことも、嬉しいと思っていた。しかし私には理解出来ないことがあった。周りの団員たちが、アドルフ・ベルントルト陛下に敬意を払っている風ではなかったのだ。彼らは陛下の冷酷、傲慢、権力欲を悪く言い、陛下を嫌っているようだった。だが私は陛下の人となりをよく知らなかったので、彼らの様子が理解出来なかった。……それに私には、教えを乞う相手も話が出来る相手もいなかった」

 オイゲンは言い、幾分おずおずした様子でヨーゼフを見た。

「……私の話は脈絡がないだろうか、ヨーゼフ」

「そんなことはありません。わたしは貴方の話を聞き、貴方と話をしたいと思います」

 ヨーゼフのほっそりした手が、オイゲンの広い背を軽く叩いた。オイゲンは頷き、その切れ長の碧眼からは不安の色合いが消えている。

「私は国王陛下に忠誠を尽くしたかった。だからその夜も私は聖マルティヌス騎士団員として、護衛の任を務めようと思っていた。私の持ち場は会場の東側に面した廊下と、その向かいの中庭だった。私は賑やかな場が好きではないし、同じ持ち場を担当する団員たちが廊下を見回っていたので、自然、私の足は中庭に向かいがちになっていた。……舞踏会が始まって三時間程経ち、宴もたけなわになっていた頃だった。私は中庭のはずれ―――窪地や常緑樹が点在する一隅に、人影が佇んでいることに気付いた。月桂樹の木蔭で、人影は何かを待っている風だった。植え込みが微かに揺れて、私は人の気配が増えたことを感じた。月影が中庭を照らしたので私は状況を解したが、解したくないとも思った。月桂樹の木蔭に佇んでいたのはアドルフ・ベルントルト陛下で、陛下が待っていたのは―――」

「エルネスティーネ・マリーア前国王妃殿下だったんですね」

 ヨーゼフの声はいつになく低く、闇色の双眸には翳りがある。オイゲンの碧眼にも、また。

「そうだ。そしてエルネスティーネ・マリーア殿下は、アドルフ・ベルントルト陛下に寄り添った。月が雲に隠れたが、私には聞こえた。エルネスティーネ・マリーア殿下が『愛しいアドルフ』と言ったのを。二人はとても親密な様子で、ずっと以前からこうした関係にあったような―――そんな様子だった」

「そうでしたか……」

 ヨーゼフは物憂げにマントルピースの火を見つめている。オイゲンは無感動な声音で、

「兄嫁と道ならぬ関係にあるアドルフ・ベルントルト陛下を、私は尊敬出来なくなってしまった。陛下の人となりが明らかになるにつれ、団員たちの陛下に対する感情にも得心がいくようになっていった。私はいよいよ、陛下を尊敬することが出来なくなった。貴方も知っているだろうが、私は感情を隠すことが不得手だ。だから陛下に敬礼をするのも気が進まなくなった。私は全身から、陛下への嫌悪の情を発していたと思う。アドルフ・ベルントルト陛下もそれに気付き、私が不敬だということになったのだろうと思う」

「貴方の話は分かりました、オイゲン。貴方にとってつらいことでしたでしょうに、話してくれてありがとうございます。貴方が教えてくれたことは、とても大切なことです」

 ヨーゼフは静かに応じたのだが、その声音の屈託はいかんともし難い。ラインハルトの心の傷を、そこにさらなる傷が付いてしまうことを、ヨーゼフは考えている。

だがそんなヨーゼフの胸中を知る由もないオイゲンは、

「……貴方は私を叱るのだろう、ヨーゼフ」

「何故です?」

 首うなだれたオイゲンを、ヨーゼフは訝しげに見やった。

「私は大切なことを話せなかった。私には話し相手がいなかった。否、私は話し相手を作ることが出来ない。それに―――」

「ええ」

「私は臆病だ。私の話など誰も信じてくれないと思っていた。嘘つき呼ばわりされ、拒まれることが怖くて、私は黙っていた。……私は臆病な卑怯者だ」

 ヨーゼフの白い手が、オイゲンの金髪を無造作に撫でた。

「……貴方は何をしている。髪が乱れてしまう」

「貴方は少しですがお馬鹿さんですからね、髪をぐしゃぐしゃにする刑を課しているんですよ。オイゲン」

「貴方は何故、私を馬鹿だと言うのだ」

 オイゲンはさすがにムッとした様子だ。だがヨーゼフはそれに頓着した風もなく、

「本当に臆病な卑怯者はね、自分を臆病だとも卑怯者だとも思っていないんですよ。貴方にはそれが分かっていないから、お馬鹿さんだと言うんです。貴方は痛い目に遭い過ぎて、少し怖くなっているだけです。痛みが癒えれば怖いのは消えます。それと、オイゲン」

「………!」

 オイゲンは驚愕した。ヨーゼフの両手がオイゲンの頬を挟み込み、己に引き寄せたからだ。闇色の双眸は、オイゲンを真っ直ぐに見つめている。

「覚えておいてください。わたしは信じます。今度痛くて怖いことがあったなら、わたしに言ってください。わたしは貴方を信じますし、痛みを癒やす方法を一緒に見つけたいと思っています」

「………」

「……なんで泣くんです」

「貴方は……優しい……とても。私は貴方に会えて嬉しい……とても、本当に嬉しい……。私は貴方に会いたかった……ずっと……」

「……お馬鹿さんですねえ」

 ヨーゼフが素っ気ないのは言葉だけだ。白魚の指先はオイゲンの頬を拭ってやっているし、何より闇色の双眸は潤んだように和らいでいた。


 ラインハルトが一番上等の客用寝室を使っているので、ヨーゼフは、

「狭くって悪いですね」

 ベッドが二つ並んでいる、小ぢんまりした客用の部屋にオイゲンを案内した。しかし寝室には水挿しと清潔なタオル、石鹸が置かれているし、枕カバーは新しく、シーツからは清々しいラヴェンダーの香りがする。にも関わらずオイゲンは何やら不満であるらしく、

「悪い。貴方が隣のベッドで寝てくれなければとても悪い」

「……やっぱり貴方、中庭に脳味噌を落として来たんですね。ラインハルト殿下が夜中に目を覚まされて淋しがられるといけないので、殿下の部屋のドアにメモを挟んで来ますよ。わたしはこの部屋にいますって」

 ヨーゼフはぶつくさ言っているが、まだまだオイゲンと話し足りない気持ちがあるのだろう。ラインハルトの寝室にメモを挟んで来ると、オイゲンの隣のベッドに潜り込んだ。

 サイドテーブルのランプだけが灯された部屋の中、口を開いたのはオイゲンだった。

「ヨーゼフ」

「もう寝ました」

 この際大目に見て然るべきヨーゼフの悪意を、だがオイゲンはものともせず、

「ヨーゼフ。貴方の父君は宰相閣下ではないのか」

「……何故そう考えるんです」

「貴方の母君が勤めていた貴族の邸宅がシュヴァルツレーヴェ邸であり、恋仲になった嫡男というのが若かりし日の宰相閣下であるという推測を否定する要素はない。何よりヨーゼフ、少年の日の貴方を見守っていられた宰相閣下、蜘蛛との戦いに出る貴方を案じていられた宰相閣下、自ら武器を取り貴方を助けられた宰相閣下、貴方が無事であった時の宰相閣下のご様子―――あれは、父が子に向ける眼差し、思いではないのか。……私は父からそのような感情を向けられたことはない。しかし、だからこそ、私はそうした感情に憧れの念を抱いている。私はそうした感情に敏感な心算でいる。だからヨーゼフ―――」

 ヨーゼフは黙している。オイゲンは半身を起こし、

「ヨーゼフ、貴方は怒ったのか?私は言い過ぎてしまったのか?」

「そうじゃないんです。……ただちょっと、考えているんですよ。果たしてどちらが良いのかをね」

「どちらが良いのかを?」

 碧眼を瞬いたオイゲンを、ヨーゼフは見やった。夜闇の中でも、ヨーゼフの双眸が静かに澄み渡っていることは見て取れた。

「わたしの言い方は不躾で、貴方を傷付けるか知れません。ただ、貴方には率直に話しておきたいんですよ。―――貴方やラインハルト殿下のように父親の存在を意識させられ、痛みや悲しみを抱くこと。わたしのように父親の存在を知らず、父親からの思いをそれと分かる形で感じ取れないこと。どちらが良いのかを考えているんです。そして、……迷っているんですよ」

「………」

「貴方が先程言ってくれた推測は、わたしも考えたことがあります。今も考えていますし、わたしはその推測が正しいだろうと、殆ど確信しています。宰相閣下―――メルヒオールはわたしの母の嘗ての恋人で、わたしの父なのでしょう。沈着な筈のメルヒオールがふとしたはずみで見せる愛情には気付いていますし、わたしもメルヒオールを慕っています。わたしが稚気な感情を平気で見せられる数少ない相手の一人は、メルヒオールです。しかしわたしは、メルヒオールから父だと告げられることに。……いいえ、メルヒオールが父であるのを黙している理由を知ることに躊躇いがあるんです」

「それは何故だ」

 闇の中、ヨーゼフが小さく笑った。困った様子でもあり、淋しげな風にも見える。

「メルヒオールの不実、弱さを知りたくないんですよ。貴方も知っての通り、メルヒオールは冷静で、強靭な意志力の持ち主です。それでいてメルヒオールは、わたしへの愛情を隠し得ない。そのメルヒオールが、父子(おやこ)の名乗りをしないんです。複雑な事情があるのだと思いますし、そこにはメルヒオールの様々な感情が入り混じっているだろうと思います。その中にわたしや母への不実があることが、わたしは嫌なんです。メルヒオールの不実のために不条理な子ども時代を過ごしたこと、それゆえメルヒオールを憎んでしまうことが嫌なんですよ。わたしはメルヒオールに感謝をしていますし、尊敬をしています。貴方にだから言いますが、愛情も抱いています。そのメルヒオールに不実を見たり、痛みや悲しみを抱いたり、憎んだりしたくはないんですよ。……わたしこそが臆病な卑怯者ですね」

「貴方は臆病な卑怯者などではない、ヨーゼフ」

 オイゲンの口ぶりは静かだった。弾かれたように、ヨーゼフはオイゲンを見つめた。

「貴方は先刻、私に教えてくれた。本当に臆病な卑怯者は、自分を臆病だとも卑怯だとも思っていないと。だが貴方は違う、ヨーゼフ。それに貴方は充分に宰相閣下―――メルヒオールを愛している。貴方は優しい。だからヨーゼフ、貴方は自分にも優しくしなくてはいけない」

「……そうですね」

 ヨーゼフの声音はひどく平板だった。だが、

「……そうですね……。本当に……わたしは……!」

 それが激情を押し殺していたがゆえの平坦さだということに、オイゲンは気付いた。ヨーゼフはほっそりした右手で両目を覆い、形の良い紅唇を震わせている。堪え続けてきたヨーゼフの痛みを、傷を癒やしたいと、オイゲンは思った。

オイゲンはベッドから起き出し、ヨーゼフの傍らに歩み寄った。ヨーゼフの右手をそっと解き、手首を握る。オイゲンは――彼自身も驚いていたのだが――ごく自然な仕草で、ヨーゼフの白くすべらかな頬に口づけをしていた。

「……オイゲン」

「私は、貴方の痛みを和らげたいと思った。貴方に優しい夢を見て欲しいと思った。貴方は眠れそうか、ヨーゼフ」

 夜目にもしるき潤んだ闇色の双眸が、ふっと和らいだ。オイゲンの手を、ヨーゼフは優しく握り返した。

「眠れますよ、オイゲン。貴方のおかげです」

「そうか」

 オイゲンは言い、無骨な指先でヨーゼフの頬を拭った。それからベッドに戻った。

 穏やかな眠りを、二人は眠った。



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